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神のバグで棄てられた俺、異世界の裏で文明チート国家を築く  作者: かくろう


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89/90

最終話「観測者のいない世界 ― それでも風は吹く」

《観測記録:なし》

《システム状態:自律稼働/異常なし》


 朝が来た。

 誰も“観測”していないのに、夜はきちんと明けた。


 空は柔らかな青をまとい、雲の縁が金色に滲んでいく。

 街を包む白壁には露がきらめき、屋根の上で小鳥たちが羽を震わせた。


 パンの香りが風に乗って流れ、

 広場の石畳に陽光が差し込む。

 子供たちはまだ眠たげな顔でパンを抱え、笑いながら走り出す。


 それらはもう、誰の制御でもなく、

 誰の奇跡でもなく、

 ただ“世界が生きている”証だった。


 リィムは高台に立ち、街を見下ろしていた。

 髪をすくう風はやわらかく、どこか懐かしい。

 背中に流れる陽の温度が、まるで誰かの手のひらのようだった。


 フォノスが隣で空を見上げる。

「……静かですね」


 リィムは微笑んで答えた。

「静かだけど、寂しくはないわ」


 フォノスは首を傾げる。

「お父さま、本当にいなくなったんですか?」


 リィムは手を伸ばし、空を切る風を掌に受けた。

 その指先には、微かに温度が残る。

 言葉にするまでもなく、それが答えだった。


「ええ。

 でも、“いない”というのは、“見えない”ってだけ。

 存在はね、観測しなくても消えないの」


 フォノスは目を細めた。

「……感じる、ってこと?」


 リィムは頷く。

「そう。感じる。

 それが、人が生きているっていう証」


 風が彼女たちの間を通り抜け、街へと降りていく。

 その流れの中に、懐かしい笑い声のような響きがあった。


 広場では、修理屋の青年が古い水車の羽を取り替えていた。

 傍らでは少女が風車を磨き、通りの角では老人が古びた屋台を直している。


 彼らの誰も“観測”の仕組みを知らない。

 けれど、不思議とみんな同じ言葉を口にする。


「壊れたら、直せばいい」


 それはもう理念ではなく、日常の中の口癖になっていた。

 道具の手触り、笑い合う声、風に鳴る音。

 どれもが、悠人が残した“手の記憶”だった。


 リィムは丘の上からその様子を見つめ、

 ふと、目尻をやわらかく下げた。

「ねぇ、フォノス。

 もう、わたしたち“観測”しなくてもいいのかもしれない」


 フォノスは頷いた。

「うん。だってもう、みんなが“見てる”もん」


 リィムは小さく笑った。

「そうね……“観測”って、きっと“気づくこと”のことだったのね」


 昼下がりの街。

 風塔の影がゆっくりと伸び、石畳に揺れる模様を描く。


 リィムはその風の中を歩いていた。

 道端で子供が転び、仲間が手を差し伸べる。

 小さなパン屋の窓辺では、女性が焼きたてのパンを冷ましている。

 誰かの「ありがとう」が、風の音に溶けていく。


 リィムはそっと目を閉じた。

 ――音が、たくさん聞こえる。

 どれも小さくて、でも確かに“生きている”音だった。


 かつては数値で記録していた“幸福”が、

 いまはこの風の中で、ただ感じられる。


「……見なくても、世界は美しい」

 その言葉は祈りではなく、実感だった。


 フォノスが隣で笑い、風に手を伸ばす。

「母さま、風が笑ってます」


 リィムはゆっくりと目を開け、空を見上げた。

 風が二人の髪を撫で、街の風鈴が一斉に鳴る。


 音が重なり、波のように広がり、

 やがて、懐かしい声がその奥に響いた。


 ――修理完了、ってとこだな。


 リィムは少しだけ泣き笑いになりながら、

 その声に頷いた。

「……ええ、完了です」



 夜が来た。

 星がゆっくりと風に溶け、

 街の灯がまるで呼吸のように明滅している。


 リィムは工房跡に戻り、古い端末を起動させた。

 光る画面には、もうほとんど何も残っていない。

 それでも、指先が自然に動いた。


《最終記録:文明稼働中》

《観測者数:ゼロ》

《幸福指数:定義不能》

《状態:安定》


 入力を終え、彼女は少しだけ考え、最後にもう一行を追加した。


《風通信構文:永久稼働/由来:修理屋の手》


 そして、保存を押す。

 ログは静かに消え、風の粒子に溶けていった。


 フォノスが背後で尋ねる。

「母さま、それで終わり?」


 リィムは首を横に振り、

 外の夜空を見上げながら答えた。

「いいえ。

 終わりじゃないわ。

 これは“次に吹く風”への、引き継ぎ」


 フォノスが小さく微笑んだ。

「……お父さま、喜んでますね」


 リィムはそっと目を閉じた。

「おやすみなさい、悠人」


 その瞬間、風が部屋を満たした。

 窓辺の風鈴が鳴り、夜の空気が微かに揺れる。


 そして、風が囁いた。


《おかえり》


 翌朝。

 誰も“観測者”と呼ばれる者はいない。

 神も、指令も、奇跡もない。


 けれど風があり、笑いがあり、

 小さな「ありがとう」と「おかえり」が、街のあちこちで交わされていた。


 パン屋の前では、朝の焼き上がりを待つ人々が並んでいる。

 炉から立ちのぼる香ばしい匂いが、通りの隅々へ広がる。

 誰かが「今日もいい風だね」と言えば、隣の子が笑って頷いた。


 丘の上の風塔が、朝陽を受けてゆっくりと回り始める。

 光を受けた羽根が反射し、街中に淡いきらめきを散らした。

 その光の揺らぎが、人々の頬を撫でていく。


 市場では果物の布を整える手があり、

 路地では子供が小さな風車を高く掲げて走っていく。

 回る羽根が陽光をはね返し、その瞬きが空の青に混ざった。


 リィムは石畳の道を歩きながら、

 その一つひとつの光景を胸の奥に焼きつけた。

 彼女の耳には、風と一緒に懐かしい音が混ざっている。

 それは笑い声か、それとも遠い記憶の“修理音”か――もう判別もできない。


 風が街を抜け、海を越え、知らない大地を撫でていく。

 その流れのどこかに、確かに“あの修理屋の手の跡”があった。

 完璧ではない、けれど人の心を繋ぎとめるやさしい不完全さ。

 彼がいつもそうしてきたように。


 リィムは空を見上げ、そっと目を閉じた。

 指先で風を感じ取り、静かに微笑む。

「――修理完了。今も、これからも」


 彼女の言葉に応えるように、風が笑うように吹き抜けた。

 その流れが雲を動かし、街を包み、

 海の向こうで芽吹く新しい街へと渡っていく。


 遠くの塔の上で、風鈴が小さく鳴った。

 空のどこかで、また新しい一日が始まる。


 世界は、今日も動いている。

 観測者はいない。

 けれど――風は吹いていた。


 そしてその風の音の奥で、

 誰かの声が微かに、確かに、笑っていた。


《Fin》









次回、女神と代行者エリュシオンサイドの外伝

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