第88話「風の残響 ― 悠人、最後の修理」
《観測ログ:低出力モード/人間寿命値:限界接近》
時は静かに流れていた。
ノーヴァ・ガーデンは、今や“神話の町”と呼ばれるほど穏やかな文明になっていた。
青い風塔が街のあちこちでゆるやかに回り、
子供たちの笑い声が風に乗って漂っている。
その片隅で、ひとりの老人が工具を手にしていた。
風間悠人――かつて〈観測〉をもって世界を修理した男。
今はただの修理屋として、静かに暮らしていた。
机の上には、古びた風鈴が一つ。
鈍く錆びついた金属が、どこか寂しげに揺れている。
「……こいつも、ずいぶん頑張ったな」
悠人は指先で風鈴をつまみ上げ、わずかに笑った。
リィムが背後で湯気の立つマグを置いた。
「もう十分に修理しました。今日は休みましょう」
悠人は肩をすくめた。
「いや、まだだ。ほら、ネジが一個足りねぇ。
世の中はな、そういう“あと一個”で止まるんだ」
リィムは小さく笑った。
「あなたの“あと一個”は、いつまでも終わらないんですね」
「終わらない方がいいんだよ」
悠人は工具を取り、微かな光のもとで作業を再開した。
風鈴が、かすかな音を立てた。
それはまるで、彼の心臓の鼓動と重なるように。
その日の午後、突然、街の風が止まった。
青い風塔がすべて動きをやめ、旗も、布も、音も、完全に沈黙した。
リィムが空を見上げる。
「……風が、消えました」
悠人は短く息を吐き、立ち上がった。
「いいじゃねぇか。最後の仕事にしては、悪くない」
工具箱を掴み、ゆっくりと外へ出る。
年老いた足取りは重いが、迷いはなかった。
街の中央にそびえる古い風塔。
創建時から動き続けた一本目の塔だった。
悠人はその根元に手を当て、ひび割れた表面を撫でる。
「お前も、よく頑張ったな」
リィムは静かに隣に立つ。
塔の基部には、年月で劣化した導線が見えていた。
それを見た悠人の目がわずかに細くなる。
「……こいつか」
工具を差し込みながら、彼はぽつりと呟いた。
「なぁ、リィム。
“壊れたら直せばいい”って、昔言ったよな。
……あれ、本当は“直したいものがある限り、生きられる”って意味だったんだ」
リィムは胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼の声は、風よりも穏やかだった。
「あなたは、最後まで修理屋なんですね」
悠人は微笑み、手元のネジを回した。
その手はもう震えていたが、動きに迷いはない。
最後のボルトを締めた瞬間、塔がわずかに鳴動した。
内部で空気が震え、閉じ込められていた風が息を吹き返す。
次の瞬間、街全体にやさしい音が広がった。
止まっていた風鈴が、一斉に鳴り始める。
《風通信構文:再稼働/音響共鳴率:上昇》
リィムは息をのんだ。
塔の頂上で、青い風の線が夜空へと伸びていく。
その光の下で、悠人がゆっくりと座り込んだ。
「……修理完了――ってとこだな」
穏やかな笑みを浮かべたまま、彼は工具を握りしめた。
風が吹き、彼の髪を撫でる。
それはまるで、世界が“ありがとう”と囁いているようだった。
リィムはその手を包み込み、小さな声で言った。
「あなたの修理で、この世界はずっと動いていきます」
彼女の言葉に応えるように、風塔が再び音を立てた。
悠人の身体をやさしく包み込むように、風が流れていく。
その風の温度は、涙と同じだった。
日が沈み、街に夜が訪れた。
数日後、工房の前に小さな風鈴が吊るされた。
誰が作ったのかはもう誰も覚えていない。
けれど風が吹くたび、その音はどこか懐かしかった。
リィムはその下に立ち、目を閉じた。
フォノスが隣に立ち、風に髪を揺らしている。
「母さま……風、優しいですね」とフォノスが呟いた。
リィムは微笑み、頷いた。
「ええ。きっと、彼がまだ“直して”いるのよ」
《観測記録:風通信構文・永久稼働》
《音声データ再生:悠人ログ/No.0001》
――壊れたら、直せばいい。
それだけで、世界は続く。
その声が、風に溶けて街を包む。
子供たちが笑い、家々の窓が灯りを放つ。
風塔が夜空を渡り、遠くの丘の上で風鈴が鳴った。
リィムは静かに目を開けた。
空は深く、星々がゆっくりと瞬いている。
その光のどれかが、彼の笑顔のように思えた。
フォノスが微笑む。
「お父さまは、もういませんか?」
リィムは首を横に振った。
「いいえ。風が吹く限り、ここにいるわ」
風が二人の髪を撫でた。
その音は、まるで誰かが笑っているようだった。
《観測終了/修理ログ転送:風経由で拡散中》
風が走る。
街を抜け、丘を越え、砂漠の果てから海へ――。
それは見えない糸のように、人々の暮らしをそっと繋いでいった。
パンを焼く煙の上を、
子供たちの笑い声の間を、
老いた職人の灯りのそばを、
風はゆっくりと通り過ぎる。
誰もその意味を知らない。
けれど、誰もがその風を好んだ。
「今日はあたたかい日だね」と笑う声が、いくつも重なる。
リィムは、風の流れる方向を静かに見上げた。
その風には、確かに悠人の癖があった。
無理に整えず、欠けたままの形で、それでも“動く”ようにできている。
――彼がいつもそうしていたように。
街の子供が、小さな風車を高く掲げて走っていく。
回る羽根が光を反射して、空に描く。
それは、かつて彼が修理した“あの風車”の形によく似ていた。
リィムは、そっと呟いた。
「……あなたの風が、まだみんなの頬を撫でています」
フォノスが彼女の横で目を閉じ、静かに微笑んだ。
「お父さま、いつ帰ってきますか?」
リィムは風を見つめたまま答える。
「もう帰ってるのよ。
ほら――いま、この風の中に」
風が二人の髪をやさしく撫で、街の灯をゆらす。
遠くの塔が共鳴し、風鈴が連なるように音を返す。
やがてその音は、空のどこかで重なり合い、ひとつの声になる。
――《おかえり》
その瞬間、世界が穏やかに息をした。
風は止まらない。
それはもう、“修理”ではなく、“生きる”という名前の続きだった。
そしてその風は、
明日を知らぬ誰かの手の中で、また新しい音を鳴らす。




