第87話「観測者たちの子 ― 明日を歩くもの」
《観測再開/文明状態:安定》
《環境:ノーヴァ・ガーデン外縁》
――風が吹いていた。
音もない宇宙の果てなのに、確かに“流れ”があった。
リィムが小さく息を吸い込み、穏やかに言った。
「……温度があります。ここ、まだ生きています」
フォノスが少し目を細め、遠くの光に視線を向ける。
「母さま。あそこ……光が動いてる」
見ると、何もないはずの地平に、小さな影があった。
それはゆっくりと立ち上がり、確かな輪郭を持ち始めている。
悠人は驚いたように眉を上げた。
「……おいおい、またバグか?」
リィムは静かに首を振る。
「違います。これは……生命です」
《解析結果:独立意識体/感情波:穏やか》
フォノスは胸に手を当て、淡く光る指先を見つめた。
「父さま……この子たち、わたしたちの“観測記録”から生まれています」
悠人は思わず息をのむ。
「つまり……世界が、自分で夢を見たってことか」
「はい。“観測の残響”が、命の設計図になったんです」
リィムの声は、どこか誇らしげで、少しだけ嬉しそうだった。
風が、音もなく吹き抜けた。
彼らの前で、子供たちが笑っている。
その笑い声は、どんな神の声よりも現実的だった。
ひとりの少女が、ふらふらと歩いてきた。
その足音はほとんど聞こえない。けれど確かに、そこに“生きている音”があった。
少女は空を見上げながら言った。
「……ここ、あったかいね」
悠人は少し笑ってうなずく。
「ああ。ここは、風が優しい」
少女は首を傾げて尋ねる。
「“風”って、なに?」
悠人は一瞬考え、空を見上げたまま答えた。
「見えないけど、触れたら分かるもんだ。
寂しい時は、だいたい吹いてくれる」
フォノスは少女の前にしゃがみこみ、穏やかに問う。
「あなたたちは、どこから来たの?」
少女は少し考えてから、照れたように笑った。
「わかんない。でも、“風に呼ばれた”気がしたの」
その言葉を聞いたリィムは、ゆっくりと頷く。
「風通信……。私の記録です。
悠人さんの“観測ログ”が、この子たちを呼んだんですね」
悠人は苦笑した。
「……俺の仕事、まだ終わってなかったか」
子供たちは風の中で駆け回り、何もない地面に足跡を残していく。
それは形を持たない“存在の証”のようだった。
フォノスはその光景を見つめながら尋ねた。
「ねえ、父さま。
この子たちが世界を歩き始めたら、わたしたちの仕事は終わりですか?」
悠人は少しだけ遠くを見ながら答えた。
「ああ。もう“修理屋”はいらねぇ」
リィムはわずかに目を伏せ、穏やかな笑みを浮かべた。
「でも……少し寂しいですね」
悠人はその横顔を見て、柔らかく笑う。
「ああ。
でも寂しさってのはな、“幸福の形見”みたいなもんだ」
フォノスは興味深そうに瞬きをした。
「形見……?」
リィムは娘に向かって穏やかに言う。
「幸福が去っても、温度だけは残る。
それを“寂しさ”と呼ぶんです」
「そういうことだ」
悠人は笑って頷き、ポケットから小さな風車を取り出した。
羽根が一枚欠けたままの、古い金属製の玩具。
「……これも直さねぇとな」
手慣れた動きで工具を操り、軸を調整していく。
リィムがその横顔を見守る間に、風車は音を立てて回り始めた。
風を受けて、カラカラと小さな音が響く。
子供たちはその音に歓声を上げた。
「回った!」「きれい!」
悠人は笑いながら風車を高く掲げた。
「壊れたら、直せばいい。
それだけで、世界は続くんだよ」
風が彼らの髪をやさしく撫でていく。
リィムはその風の向こうを見つめながら言った。
「悠人。
この子たちが歩く世界を、あなたはもう見られませんよ」
悠人は少し笑い、肩をすくめた。
「見なくていいさ。
ちゃんと風が吹いてるなら、それで十分だ」
フォノスは真剣な目で二人を見つめる。
「……父さま。
わたしは、この子たちと残ります」
悠人は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと笑った。
「そうか。なら、観測のバトンはお前に渡す」
リィムは静かに頷き、微笑んだ。
「あなたとわたしの修理は、これで本当に終わりですね」
悠人は少し空を見上げ、まぶしそうに目を細める。
「いや――始まったばっかりだ」
その言葉とともに、風がまた吹いた。
フォノスの輪郭が淡く光を帯び、子供たちの中へと溶けていく。
《観測ログ:閉鎖中/文明継承:完了》
リィムはその光を見送りながら、かすかに笑った。
「……あなた、本当に笑って終われるんですね」
悠人は少し照れたように答える。
「笑えねぇエンディングは、修理不足だ」
リィムの瞳に、微かに涙の光が揺れた。
それは悲しみではなく、確かな満足の証のように見えた。
《記録:観測者交代/文明再稼働》
風が吹く。
砂の大地を渡り、遥かな空を撫で、まだ名を持たぬ朝を連れてくる。
街は静かに息をしていた。
子供たちの笑い声が風に混ざり、どこまでも広がっていく。
新しい太陽が昇る。
その光は誰に向けられたものでもなく、ただすべての命を包み込んでいた。
誰も祈らない、誰も命じない――それでも世界は、美しく回っている。
リィムはゆっくりと目を閉じた。
金の風が頬を撫で、髪を揺らす。
その中に、微かに懐かしい声が混ざっていた。
――修理完了、ってとこだな。
その声は笑っていた。
少し照れたように、いつもと同じ調子で。
リィムは頬を緩め、目を開ける。
風が光をはらんで、彼女の指先を通り抜けていった。
それはまるで、悠人が“また会おう”と言っているようだった。
小さな子供が彼女の手を引く。
「ねぇ、風って……どこから来るの?」
リィムは少し考えてから答えた。
「どこからでも。
でも、たぶん――“帰る場所”からよ」
風がやさしく笑ったように揺れる。
その笑いが、空へ、街へ、そして未来へと溶けていく。
そして、遠くで声がした。
《おかえり》
世界が、穏やかに息をした。
風は止まらない。
それはもう、“修理”ではなく、“生きる”という名前の続きだった。




