第59話「砂上に降る光」
――その朝、風は止まっていた。
バル=アルド――いや、今はリジェクト=ガーデン。
昼夜を問わず吹いていた砂の風が、奇妙なまでに静まり返っている。
音が消えた世界は、まるで息を潜めた巨大な獣のようだった。
俺は屋根の上で、ネジ締めの手を止める。
《観測ログ:風速ゼロ。音圧値、低下中。気流パターン……停止。》
「風が止まるって、こんなに怖かったか。」
砂漠の街で生きる者にとって、風は命だ。
吹かないというのは、世界が呼吸を忘れたということ。
それを肌で感じながら、俺はゆっくりと視線を上げた。
空は薄く霞んでいた。
けれど、その霞が――動かない。
肩の上のリィムが、かすかに震えた。
いつもの柔らかな光が不規則に脈打ち、まるで怯えているみたいだった。
《主……上の空、音が“ある”のに、聴こえない。》
「……音があるのに聴こえない?」
《うん。風じゃない。もっと……遠い声。耳の奥がざわざわする。》
リィムの声が揺れていた。
その“ざわざわ”という表現が、やけに人間くさく響く。
俺は目を細めて、空気の振動を拾う。
微細な波だ。
風ではなく、まるで電波のような規則正しい脈動。
だが、それは言葉にならない“音”の羅列。
まるで、何者かがこの世界に信号を上書きしているようだった。
《観測データ更新。波長帯:不明。干渉源、方角=北西上空。出力:常識外。》
「北西……勇者領の通信塔か。」
《でも……これ、人間の出力じゃない。/信号、あたたかいのに、こわい。》
“あたたかいのに、こわい”。
リィムがそんな風に言うとき、それは本能的な危険信号だ。
俺は屋根を飛び降り、広場へ向かう。
街の人たちも気づいたのか、あちこちで顔を上げていた。
「ユウト!」
ミラが駆け寄ってくる。
頬には薄い汗、砂にまみれた手を服で拭いながら、不安げに言った。
「なんか、空が光ってる!」
見上げる。
――確かに、光っていた。
雲もない空に、薄い“ひび”のような光の筋が走っている。
それは稲妻のように瞬き、次第に大きく広がっていく。
《解析不能。/空間に高密度信号。形式:神域通信プロトコル。発信源、特定……勇者領通信塔、第三階層。》
「勇者領……つまり、あいつらか。」
胸がきゅっと縮む。
リィムの体が一段と明るく光った。
《主、警告。/信号コードの署名:天城颯真。》
「……は?」
《照合一致率:九九・一%。本人、もしくは“本人のアクセス権を使用中”。》
「誰かが、颯真のコードを使ってるってことか。」
《もしくは、本人が――使われてる。》
リィムの声が低く沈んだ。
街の上空に、光の裂け目が現れた。
そこから、金の粒がふわりと舞い落ちてくる。
最初は美しかった。
しかし、それが砂に触れた瞬間――音もなく、消えた。
「……消滅?」
《解析結果:物質構造、削除。タグ:浄化プロトコル。/対象=棄却者。》
「――削除、だと!?」
俺は咄嗟に叫び、リィムを上空へ放つ。
青白い球体が広がり、光の膜を展開する。
《防御モード起動。観測バリア展開――》
膜が降り注ぐ光を弾くたびに、鈍い金属音のような響きが広場に反射する。
子どもが泣き出し、ミラが抱きしめる。
ジルドは咄嗟に人々を建物の陰へ誘導した。
「リィム、出力は!」
《限界値まで上昇中。……主、これ、神の“命令”そのもの。》
「命令?」
《“神託通信”を通じて、街を消す指令。……上層通信が直接発動してる。》
「つまり――颯真が、これを――」
そのときだった。
地平線の向こう、光を背にして歩く影が見えた。
風も砂も、彼の周囲だけ避けるように流れている。
白銀の鎧。
かつて同じ教室で笑っていた顔。
けれど、その瞳に宿るのは人の光じゃなかった。
「……颯真。」
《観測一致。対象:天城颯真。生命反応:安定。自我波形:混在。》
「混在って……」
《人間と“神のコード”が、融合してる。》
颯真は足を止めた。
その動作ひとつで、空気が震えた。
光が彼の背後で脈動し、天から降り注ぐ光線が形を変える。
――神の姿を模すように。
「風間悠人。」
声が届いた。
それは声ではなく、命令の波形。
心の中に直接流れ込む“神の代弁”。
「神は見ている。棄却者の王よ。お前の行いは、秩序への反逆だ。」
「……神の言葉を、そのまま喋るなよ。お前らしくもない。」
そう言っても、颯真は表情ひとつ変えなかった。
ただ右手を上げ、光の剣を顕現させる。
その動作で、空気がひび割れた。
《主、圧力上昇。/信号強度、臨界に近い!》
「退避は?」
《無理。彼の領域、ここまで“侵入”してる。》
光が降り注ぐ。
バリアが悲鳴を上げ、リィムの体が震えた。
それでも彼女は、踏ん張るように光を広げ続けた。
《……ユウト、まもる。これ、壊せない。でも、“守る”なら、できる。》
「リィム……!」
《主、信号の奥に……もうひとり、いる。小さい声。――“たすけて”。》
その瞬間、俺は確信した。
颯真は――操られている。
神の声と、颯真の意識が、ひとつの身体の中でせめぎ合っている。
そしてその苦しみが、空全体を歪ませていた。
「……颯真、聞こえるか! お前がそんなやり方、望むわけないだろ!」
返事はなかった。
ただ、白い閃光が走り、街の一角が消えた。
風も砂も光も、何も動かない世界で、リィムだけがかすかに声を出す。
《主……どうすれば、“人”を、まもれる……?》
その問いは、機械ではなく――少女の声だった。




