第58話「拒まれた勇者、パンをこねる」
――朝の風が、少し甘い。
風塔の羽が回るたび、焼きたての香りが通りを抜けた。
パン焼き広場では、子どもたちが粉を浴びながら走り回っている。
笑い声と木べらの音が混ざり合い、砂の街がまるで“ひとつの台所”みたいに息づいていた。
セリア・ルーメンは、その真ん中に立っていた。
彼女の金の髪に、粉雪みたいな小麦粉がかかっている。
勇者候補の象徴だった外套は脱ぎ捨て、袖をまくった腕が陽を受けて輝いていた。
《観測ログ開始/対象:セリア・ルーメン/表情温度:安定→好奇心寄り→笑顔反応》
「リィム、実況すんな。人を観察対象にするな。」
《だって、風が楽しそう。セリアも。》
「……そうかもな。」
リィムの言葉は、どこか満足げだった。
彼女の光が、砂の粒の間を跳ねてセリアの指先を照らす。
光の粒が生地に混じって、まるでパン生地自体が微笑んでいるように見えた。
◇
「セリア、こね方はこう。押して、折って、転がして――はい、交代!」
ミラが袖をまくり、両腕を粉だらけにしながら笑っている。
セリアはその手順を慎重に真似た。
指先が沈み、生地が“ぐにゅ”と抵抗する。
その感触に驚いたように目を丸くした。
「……これ、魔力の練習より難しい。」
「パン生地は気まぐれだからねー。優しく、でもしっかり押すの!」
《パン生地=ミラっぽい。タグ登録?》
「するな。」
俺が言うと、ジルドが遠くで腹を抱えて笑った。
ノアは祈るような手つきで粉をふるいながら、淡く微笑む。
街全体が、いつもより柔らかい音で満ちていた。
鍛冶の金属音でも、水流のせせらぎでもない――“人の手の音”。
混ざり合い、重なり、どこか懐かしいリズムを刻んでいた。
セリアは手を止め、その音に耳を傾けた。
「……神殿では、こんな音を聞いたことがなかった。
祈りの声ばかりで、誰かが笑う音なんて。」
「祈りの代わりに、ここでは“手”を動かすんだ。」
「手を動かす祈り……素敵ね。」
リィムが肩の上で小さく瞬いた。
《セリア、やさしい声。ユウトと話してると、風の音があったかくなる。》
「……リィム、また詩人モードだな。」
《学習結果。詩=気持ちを伝える手段。》
「どこでそんな定義を覚えた。」
《ミラ。あと、ノアも。》
「教育効果抜群だな。」
ミラがパンを成形しながら笑う。
「ほら、こねすぎると固くなるんだから。人間関係と同じ!」
「経験者の言葉って重いな。」
《タグ登録:こねすぎ注意。》
「登録するな!」
笑いが起こり、風がひとつ抜けた。
その一瞬、街全体が“ひとつの息”をしたように感じた。
◇
午後。
セリアは水路沿いを歩きながら、リィムと並んでいた。
流れる水が光を反射して、足元に揺れる模様を描く。
子どもたちの笑い声が遠くから響き、パンを焼く匂いがまだ漂っている。
「この水……魔法じゃないのね。」
「自然の流れを、人の手で引いた。重力と勾配の仕事さ。」
「……神の奇跡よりも、ずっと優しい。」
セリアは手を伸ばし、水面をそっと撫でた。
風に揺れた水がその指を包み込む。
彼女の瞳が、ほんの少しだけ緩む。
「勇者の試練って、いつも“奪うこと”ばかりだった。
敵を倒して、土地を浄化して……でも、誰かを“生かす”ことなんて教わらなかった。」
その言葉は、告白というよりも独り言のようだった。
沈黙のあと、リィムが小さく声を出した。
《ユウトは、いつも“直す”って言うよ。》
「“直す”……」
「壊れたままでも、生きていけるけど、直せばもう一度笑える。
――この街は、そのためにある。」
セリアの瞳が、ゆっくりと優しくなった。
「……“生き直す街”。いい名前ね。」
《タグ登録:生き直す街。》
「登録は……まあ、いいか。」
◇
夕暮れ。
オレンジ色の光が風塔の影を長く引き延ばす。
広場ではパンと果実酒の香りが混じり、人々が輪になって笑っていた。
セリアもその輪の中にいた。
剣は壁際に立てかけ、代わりにエプロンを結び直している。
「セリアさん、そのパン、焼き色すごくいいですよ!」
「ふふ、リィムの“温度ログ”が優秀だから。」
《主よりほめられた。》
「……お前、いちいち報告すんな。」
ミラが腹を抱えて笑う。
「スライムがドヤ顔してるの初めて見た!」
《ドヤ顔=自信+照れ。記録。》
「……おい、それもやめろ。」
ジルドが湯気の立つ木皿を差し出した。
「嬢ちゃん、神に棄てられた者同士、今日くらいは飲もうじゃねえか。」
「神に棄てられても、あなたたちが拾ってくれたもの。」
「へっ。うまいこと言いやがる。」
ノアが穏やかに笑う。
「……光が届かない場所に、あなたのような人が来てくれたこと。
それが、もう“奇跡”です。」
セリアは目を伏せ、息を吸い込んだ。
笑い声に混じって、ほんの少しだけ震える声で答えた。
「……ありがとう。」
その声に、リィムが光を小さく瞬かせた。
《記録:セリア・ルーメン、笑顔。/タグ:赦し予兆。》
◇
夜。
風塔の上。
街の明かりが、星座のように足元に散らばっている。
風が吹くたび、光が瞬き、人々の話し声が遠くまで届いた。
《街の通信安定。エアリンク稼働率九八%。》
「この風……本当に街をつないでるんだね。」
「風が声を運ぶ。声が絆を作る。――文明ってのは、そうやって積み重なる。」
セリアは小さく息をのむ。
「……神の声より、こっちのほうがずっと“温かい”。」
リィムが優しく光る。
《セリア、あったかい。》
「ありがとう、リィム。」
《ユウトも、あったかい。》
「おい、まとめて言うな。」
風がふっと笑ったように、塔の上で旋回した。
セリアは目を閉じて、頬を撫でる風を感じた。
「――神に拒まれた理由、少しだけ分かった気がする。」
「どんな理由だ?」
「私が、“人を信じすぎた”んだと思う。
でも、それがいけないことだなんて、もう思わない。」
リィムが柔らかく囁いた。
《タグ登録:“赦し”。》
「……いいタグだな。」
砂漠の夜は冷たい。
けれど、風の中には確かな温もりがあった。
神の沈黙よりもずっと、確かな息づかいが。
《記録完了。/セリア・ルーメン、街に滞在開始。/文明学習モード、起動。》
「――ようこそ、“人の国”へ。」
その言葉に、セリアはゆっくりと頷いた。
風塔の光が彼女の髪を照らし、
その表情にはもう、“勇者”ではなく――ひとりの“人間”の温かさが宿っていた。




