第55話「風の調べ ――街を歩く鼓動」
――朝の風が、昨日よりやさしかった。
乾いた砂の匂いに、ほんの少し“水の香り”が混じっている。
砂漠の朝がこんなに柔らかく感じたのは、初めてだった。
屋根の上で目を覚ました俺は、しばらく寝転んだまま空を眺めていた。
夜明けとともに変わる空の色――淡い青から金色へ、そして白い光の縁取り。
青と金の境界線に細い雲が一本。まるで世界そのものがゆっくりと呼吸しているようだ。
肩の上では、リィムが光を小さく瞬かせている。
その輝きは、夜の名残を吸い込んだ朝露のように澄んでいた。
《おはよう……ユウト。風、きもちいいね。》
「おはよう。……そうだな。昨日、風塔の軸を調整したおかげかもな。」
《ちがうよ。きっと、街が“目を覚ました”から。》
「……目を、覚ました?」
《うん。風が、いろんな“音”を運んでる。》
「音?」
《水をくむ音、子どもの声、鉄をたたく音。風が、それをつないでるの。》
俺は息をのんだ。
この世界に来てから、長いこと“風の音”はただの雑音だった。
けれど今は違う。
その中に確かに、“生きている音”が混ざっていた。
あの乾いた砂の街に、今は確かな“朝”がある。
風がそれを証明していた。
《主の表情:やわらかい。タグ:うれしい。》
「勝手にタグつけるな。」
《削除、保留。》
リィムがぷるんと揺れる。
青い光が俺の頬を照らし、まるで笑っているようだった。
ああ、こういう瞬間が、“生きてる”ってことなんだろう。
◇
広場に出ると、すでに朝の熱気が始まっていた。
ミラが両手を腰に当て、勢いよく声を張り上げている。
「そこ! 布の端、もっと上に! ――あっ、そっちは逆だよ!」
子どもたちが慌てて布を引っ張り直し、砂がふわりと舞った。
「みんな、手を止めない! 砂が入ったら最初からやり直しだよー!」
声の調子は叱っているようで、でもどこか楽しげだ。
ジルドが苦笑混じりにハンマーを振る。
「まったく、あの娘が一番うるせぇ風かもしれねぇな。」
「いい風だろ。活気がある。」
《活気=文明の呼吸。タグ追加。》
「お前、タグつけすぎだろ。」
《観測のくせ。ゆるして。》
俺は図面を広げ、塔の影の中でリィムと調整を始める。
《塔内温度:三三度。外気との差、五度。気流、北東に集中。》
「いい傾きだ。布の密度をもう少し上げて……――よし、風が流れた。」
砂がふわりと舞い、塔の下を抜けてゆく。
通り抜ける風が、ほんの少し冷たくて、心地いい。
その風を受けたノアが、そっと髪を押さえながら微笑んだ。
「風って、目に見えないのに、ちゃんと“通り道”を覚えるんですね。」
「人もそうだろ。信じられる道を見つけたら、もう迷わない。」
《風と人、いっしょ。タグ:導く。》
「……ほんと記録魔だな、お前。」
リィムはくすりと笑って、金色に近い光をこぼした。
それが風に溶け、砂の街の色と混ざり合って消えていった。
◇
昼になると、太陽が真上に登り、熱が街を押しつぶすように降り注いだ。
それでも、人々の手は止まらない。
ジルドは塔の基礎を補強し、ノアは風圧を測定し、ミラは子どもたちと一緒に布を湿らせていた。
《湿度上昇。蒸発冷却の効果、発生中。》
「上出来だ。これで少しは涼しくなる。」
リィムは周囲の人々を眺めながら、小さな声でつぶやいた。
《みんな、まいにち動いてる。でも、“生きてる”って、それだけ?》
「……難しい質問するな。」
《ユウトは?》
「そうだな。“動く”は生きるため、“生きる”は笑うため――かな。」
《笑うため。》
「そう。だから、お前も笑っとけ。」
《もう、笑ってるよ。》
その瞬間、リィムの体がふわりと光り、風にほどけた。
光が砂粒に反射して、まるで小さな花びらが舞っているように見えた。
少女の声のように柔らかく、確かに“笑っていた”。
◇
午後。
作業を一旦終えて、皆で簡易冷却箱を囲む。
冷えた果実を切ると、ひんやりとした甘い香りが広がった。
その香りが、風に乗って街の隅々まで行き渡る。
「ねぇ見て! ちゃんと冷たい!」
ミラが満面の笑みで果実をかじり、目を丸くした。
「これ、奇跡だよ!」
「奇跡じゃない。科学と工夫の結果だ。」
《でも、“うれしい奇跡”でもいいと思う。》
「……そういう言い方、覚えたな。」
リィムがくすぐったそうに揺れる。
《ミラが言ってた。“努力のあとに笑えたら、それは奇跡”。》
「……あの子、ほんと良いこと言うな。」
《記録。タグ:“努力の奇跡”。》
「もう辞書が書けそうだな。」
風が塔の中を抜け、湿った空気を運ぶ。
果実の香りが街に溶け、人が自然に笑った。
笑い声が増えるたび、風が軽くなっていくように感じた。
◇
夕方。
西日が塔の羽根を黄金に染め、長い影を街に落とす。
空の境界線が赤く、青く、そして紫に溶けていく。
その美しさに、少しだけ言葉を失った。
俺は足場の上で、リィムの光を反射させながら角度を微調整していた。
《風速、安定。/回転軸摩擦値、許容範囲内。》
「いいぞ、ほぼ理想値。これなら夜間発電にも使える。」
《すごい。風が“ちから”になる。》
「風も人も、流れが正しければ力になる。」
リィムの光が、ふっとやさしい金色に変わる。
《ねぇ、ユウト。風って、どこから生まれるの?》
「空気の温度差。高いところと低いところの呼吸の差だ。」
《ふしぎ。ひとりじゃ、生まれない。》
「そうだな。ひとりじゃ流れない。」
少しの沈黙。
リィムが静かに言った。
《じゃあ、ユウトとリィムで、風になれる?》
「なれるさ。街を動かす風に。」
その言葉に呼応するように、塔が低く唸りを上げた。
リィムの体が金色に光り、風塔の頂上で柔らかく輝く。
光が空へ、砂へ、そして人々の頬へ――溶け込むように広がっていく。
風が街路を撫で、灯りの準備を始める。
《記録。“風の調べ”。目的:街を動かす。》
――リジェクト=ガーデンの空に、音のない旋律が流れた。
風と光が混じり合い、どこまでも穏やかに街を包み込む。
それは、まだ小さな文明の鼓動。
けれど確かに、“生きている”音だった。




