第53話「空を測る心」
――午前の風は、素直だった。
風塔の喉は半開き、広場の帆布はやわらかく膨らんでいる。
俺は配電盤の影で地図を広げ、肩の上の相棒に声をかけた。
「今日の読み、任せてみるか」
《うん。ユウト、まかせて。/風、きょうは“笑ってる”》
「笑ってる風、ね。いい表現だ」
リィムの光は昨日より少し温かい。
リンネは塔の途中段で風輪を構え、虹彩の輪を細く絞った。
「午前は安定。午後、二回だけ“舌”が降りる見込み。――リィムちゃん、まず君の“感じ”で出してみて」
《了解。/観測開始》
青い線が空に走る。共有表示が広場に薄く投影され、子どもたちが息を呑んだ。
“感じた”風向、その上に数値化した層風。きれいに重なっていく――はずだった。
《……あれ。/ズレる。/みんなの声、入ってくる》
「声?」
《うん。市場のはしゃいだ音、“うれしい”がふくらんで風にのる。/リィム、それも“風”だと思っちゃう》
グラフがわずかに東へ寄った。
その“わずか”が、午後には重さになる。
◇
昼過ぎ。
最初の舌は、読みどおりだった。塔の喉を六割へ、帆の遊び増し。
誰も転ばず、粉塵はすっと抜ける。リンネが親指を立てる。
「いいよ。二回目は少し“細い”はず」
《補正済み。/つぎは……》
予報の時刻が来る。
広場の帆布の端、ほんの一箇所だけ、風向が想定より二度ずれた。
布がぴん、と鳴り、縫い目が一本裂ける。
子どもが「わっ」と笑って、すぐ手を挙げた。「大丈夫!」
被害は、小さい。けれど、リィムの光がすう、と色を失った。
《……ごめんなさい。/リィム、まちがえた》
「間違いじゃない。誤差だ」
《でも、数字は合ってたのに》
「数字は“世界の平均”だ。現実は、いつも誰かの顔だよ。――あの笑い声の分だけ、風は気まぐれになった」
リィムはしばらく黙って、俺の肩に触れた。
半透明の指があるみたいに。温かさが、少し戻る。
《……こわかった。/“当たらない”って、冷たくなる》
「当たらないことを怖がれたなら、それでいい。誤差は、生きてる証拠だ」
《生きてる……証拠》
リンネが横からそっと囁く。
「ねえリィム。“感じた”ものを捨てなくていいよ。数字に近づけるんじゃなくて、数字と“手をつなぐ”。それが予報士」
《手を……つなぐ》
リィムが小さく頷くみたいに光を揺らした。
その瞬間、風塔の喉が低く鳴る。リンネの目がぴくりと跳ねた。
「……今の、風じゃない。ノイズ」
《解析 高周波ノイズ 周期=一定 波形=“四角” 自然発生の確率=低》
「四角い波? 空にデジタルは似合わないな」
俺は地図を指で叩く。塔、中段、街路――三点の時刻差から、方向が出る。
東南東。街から一刻ほどの砂丘の向こう。
「リンネ、聞き覚えは?」
「……勇者領の気象端末。“祈祷位相同期”。神殿式の観測網を束ねるための、拍子の音」
《タグ追加 神託網の残滓 安全度=不明》
広場の笑い声のすぐ上で、“四角い波”だけが冷たく立っている。
夏の空気の中に、冬の指先を突っ込まれたような違和感。
「リィム、怖いか」
《……こわい。/さっきの“当たらない”より、もっと》
「じゃあ、二つ決めよう。一つ――怖いのは、見える場所に連れてくる。もう一つ――怖いのは、みんなで見る」
リィムが、そっと寄りかかった。
光の端が、俺の頬に触れる。
《……うん。ユウトと、みんなで見る》
◇
夕方。
観測局の机に布を広げる。ノアが文字を落とし、ジルドが道具を並べ、ミラが子どもを集める。
リンネは風輪を外し、裸眼で空を見た。虹彩の輪に、血の色がうっすら混ざっている。負荷だ。俺は目薬代わりの冷たい布を渡した。
「ありがとう。……大丈夫。風は優しい」
「優しい風に目を酷使させるのは違うな。交代制にしよう。観測も“労働”だ」
ミラがうんうんとうなずき、子どもたちに風輪係を割り振る。
その横で、リィムが共有表示をそっと広場に開いた。
今日は“線”ではなく、薄いヴェール。街の上空にかぶさる布のような可視化。風は色で、ノイズは硬さで表す。
《可視化モード変更 風=色 ノイズ=硬》
ざわ、と小さな驚きが広がる。
誰かが「きれい」と言い、誰かが「こわい」と言う。両方、正しい。
《ユウト。……リィム、きょうは逃げない》
「逃げない、か」
《うん。こわいもの、見ても、あったかいものといっしょに置く。/リンネの風、みんなの声、ユウトの手》
胸の奥が、熱くなる。
俺は短くうなずき、切替スイッチへ手を伸ばした。
「――ログ開始。名前は“空の鼓動”」
《記録開始 “空の鼓動”》
その時だ。
風塔の喉が、もう一段深く鳴った。
四角い波が近づく。硬い。冷たい。規則的。まるで祈りの足音。
《受信 微弱 プロトコル照合中》
「待て。深入りするな」
《浅瀬で足を洗うだけ。/こわくないように》
可視化ヴェールの一部が、波打った。
言葉にならない“言葉”が、空の底から滲み出る。
《……“信仰値不足=赦しの停止”……“供給線の優先権は”……“祈りの拍に合わせよ”》
ノアの指が止まる。ミラが唇を噛む。ジルドの眉間が深くなる。
リンネは目を細め、風輪を握りしめた。
「――やっぱり“向こう”だ。神殿の拍子が、砂の上を這ってくる」
《位置推定 東南東 砂丘の鞍部 距離=一刻》
子どもが小さく手を挙げた。「それ、わるい音?」
俺は首を振る。
「“わるい”と決めつけない。――ただ、“選べない”音だ。拍子に合わなきゃいけない音」
広場が静かになる。
リィムの光が、震えた。怖さじゃない。怒りでもない。言葉のない“くやしさ”。
《……ユウト。リィム、きょう、はじめて“当てられなかった”。/それ、きらい。/でも――もっときらい、いまの音》
「なら、名前をつけろ」
《なまえ?》
「怖いものは、名前をつけると弱くなる。――“四角い冬”とか、“祈りの足音”とか。何でもいい」
短い沈黙。
リィムはゆっくりと光を強め、少女の声で囁いた。
《“かたくて かわかない かぜ”。/リィム、それ、きらい》
「いい名前だ。……じゃあ、街で共有しよう。“かたくて乾かない風”が来たら、どうするか」
ミラが手を叩く。「帆はたゆませる! 子どもは屋内!」
ジルドが「塔の喉は七割」と引き取り、ノアが「医療灯は維持」と加える。
リンネがまとめる。「見張りは風輪を二本。風は“やさしい”か“かたい”か、それだけ伝える」
《共有完了 “かたくて乾かない風”対処手順 配布》
広場に、ふっと笑いが戻った。
恐れと一緒に、準備がある。準備は、優しさの形だ。
◇
夜。
街は早めに灯りを落とし、風塔の唸りは低く静かに続いた。
東の地平に、冷たい線が一度だけ走る――誰かが“拍子”を叩いたのだ。
けれど、街の上には、温かいヴェールがかぶさっている。
《記録 誤差 受け入れ “かたくて乾かない風” 命名 対処 共有》
「いいログだ」
《……ユウト》
「ん」
《きょう、リィム “はずれて” 泣きそうだった。/でも、ユウトが“生きてる証拠”って言ってくれたら、あったかくなった。/……ありがとう》
「どういたしまして。――明日も、外れるかもしれない」
《うん。/でも、こわくない。/はずれても、なおせる。/みんなで》
「それでいい」
風塔の喉が、ゆっくり息を吐く。
リンネが塔の途中段に腰を下ろし、こちらを見下ろして小さく手を振った。
彼女の虹彩の輪は、もう赤くない。休めたのだ。俺は親指を返す。
《タグ更新 “誤差=いっしょに直す”》
その時、塔の奥底で、微かな“声”が再び滲んだ。
今度ははっきりと――
《システム告知 “祈りの拍に合わせぬ街へ 監察端末を派遣”》
風が一拍、止まった。
俺は深く息を吸い、吐く。
「……来るな」
《うん。/でも――ユウト、顔、こわくない》
「当たり前だ。俺は修理屋だ。来るなら、いっそ“直す”」
肩の上で、リィムが小さく笑った。
《記録 “空の鼓動” 終端。/タグ:“あした” 維持》
二つの月が、低く並ぶ。
“かたくて乾かない風”の足音は、まだ遠い。
今夜だけは――街は、静かに眠れる。




