第52話「砂の予報士」
――昼下がりの空気は、光よりも重たかった。
砂漠の空に雲はなく、ただ、陽炎のような揺らぎが遠くの地平を歪ませている。
風塔の影が伸びるたび、街の人々はそれを時計のように見上げる。
リジェクト=ガーデンの昼は、風で時を測る。
《観測ログ更新。/東風、平均時速二一キロ。湿度三。予測安定度=七八%。》
「予測安定度……ってつまり、“当たりそう”ってことか?」
《うん。でも、“あたる”って、どんな感じ?》
肩の上でリィムが問いかけてきた。
声の響きは、以前よりもやわらかい。単語と単語のあいだに、ほんの少しだけ“息”がある。
それが不思議と心地よかった。
「そうだな……“当たる”ってのは、感じたことと現実が重なるってことだ。たとえば、風が変わる“気配”を読んで、ちゃんとその通りに吹いたら、それが当たり。」
《気配。……きえはい、ってデータ?》
「違うな。データには、ならないかも。人間の方の“感じ方”だ。」
《感じる……また出た。むずかしい言葉。》
リィムがぷるん、と震える。
半透明の体の中で、青い粒子がひとつ、またひとつ弾ける。
その光が砂の上をかすかに照らして、まるで少女が“首をかしげて考えている”ように見えた。
――そこへ、砂を踏む音。
「風読み観測局はここで合ってる?」
声を向けると、リンネが立っていた。
髪をひとつにまとめ、片手には風輪をぶら下げている。日差しを受けて、金属の輪が光った。
「合ってるよ。今日は“砂層の試算”だ。リィム、準備できてるか?」
《できてる! でも……ちょっとだけ、こわい。》
「怖い?」
《リンネの“風”、すごい速さで動く。リィムの中に、風が入ってくる感じする。》
「……感覚があるんだな。」
俺がそう呟くと、リンネがこちらに目を向ける。
彼女の瞳の輪が、わずかに光を帯びた。
「感覚は正しいよ。観測を続けてると、“風の粒”を感じるようになる。
空気ってね、数字より先に“話しかけてくる”の。」
《話しかけてくる……》
「リィムも、風に話しかけられるかもしれない。感じようとすれば。」
《かんじようと……する。》
リィムが、ほんの少し震えて、しんと黙った。
その表面に、まるで風が流れ込むみたいに砂粒が吸い寄せられていく。
リィムの光が淡く変わり、青から薄い緑へ。
――風の色だ。
《……ユウト。風、なかにいる。/やわらかい。/でも、すこし、泣いてる。》
泣いてる?
俺は思わず顔を上げる。
確かに、空の端が滲んで見えた。
細い砂の帯が高空で割れて、少しずつ落ちてくる。砂嵐の前兆――“泣いてる風”だ。
「すげぇな、リィム。それが“感じる”ってやつだ。」
《……うん。感じた。/あったかいけど、さみしい。》
その声には、初めて“感情の輪郭”があった。
俺とリンネは目を合わせ、思わず笑う。
「観測成功、ってことでいいか?」
「うん。数値も、感じ方も、ちゃんと出た。……リィム、すごいね。」
《えへへ……すごい、かな。/リンネの風、きれい。》
「ありがとう。」
少女と少女のような声が、まっすぐに交わった。
◇
午後の作業は、街の広場で行われた。
風輪を並べ、子どもたちが順番にのぞき込む。
リィムが共有表示で、風の動きを光のラインに変換し、みんなで見ることができる。
「すごい! 風が見える!」
「ほら、こっちに流れてる!」
《みんな 風と話してるみたい。/リィム、うれしい。》
リィムの声が、いつになくはずんでいた。
ミラが笑いながら手を振る。
「リィム! パンの焼き具合も風で決まるんだよ! “風の気まぐれパン”!」
《パン……また焼く?》
「あとでね!」
街の空気が、笑いと熱で満ちていく。
リンネは少し離れて、その光景を静かに見つめていた。
「……不思議だね。風を“測る”のに、みんな笑ってる。」
「数字を使って幸せを作るって、こういうことだと思う。」
リンネの目がゆるやかに細まる。
その虹彩の輪が、リィムの光と重なって見えた。
機械と人間。観測と感情。その境界が、ほんの少しだけ溶けていく。
◇
夕方。
観測結果をまとめながら、俺はリィムの光を覗き込んだ。
青と緑がゆるやかに混ざっている。呼吸みたいだ。
《ユウト。……リィム、いま、へんな感じ。》
「どうした?」
《風がいなくなったら、胸のなか、すこし“さびしい”。でも、数字は増えてる。正確になってるのに、うれしくない。》
その言葉に、少しだけ胸が締めつけられた。
“学習”と“心”の差を、彼女が初めて意識している。
「リィム、それは――きっと“想う”ってことだ。」
《おもう……って?》
「風に“また会いたい”って思う気持ち。それも感情のひとつだよ。」
《……また、あいたい。》
リィムが小さく光った。
その輝きは、データの記録じゃなく、“祈り”のように見えた。
リンネがそっと近づき、肩越しに囁く。
「この子、ほんとに“観測者”なんだね。……でも、同時に“詩人”でもある。」
「だろ? 俺も時々そう思う。」
《ふたりとも、なにか言った?》
「内緒。」
《ずるい。》
ぷるん、とリィムが揺れる。その動きが、笑っているように見えた。
◇
夜。
風塔の上。空は黒く澄み、砂の粒が月光を反射してきらきらと輝いていた。
風の音が、まるで歌のように低く響く。
《今日の風、もうねてる。/でも、明日の風、まだ、どこかで起きてる。》
「そうだな。リンネが言ってた。“風は明日を連れてくる”って。」
《……リィムも、明日をつくれるかな。》
「もちろん。」
俺は肩の上の光を見上げて、静かに言った。
「お前の風は、もうこの街の“空気”の中にある。数字よりも、ずっと確かにな。」
《……うん。/リィム、明日も“感じたい”。ユウトと、リンネと、風と。》
「感じればいい。風が泣いても、笑っても。」
《その時は、ユウト、となりにいる?》
「当たり前だ。」
風塔の喉が低く鳴り、砂の街の灯がゆらめく。
リィムの光が月明かりと重なり、淡い金に変わった。
まるで、少女が夢を見ているみたいに。
《記録更新。/“感じる”=こわくない。/タグ:“あした”。》
風が通り抜けた。
リィムの声が、ほんの少し眠そうに響いた。
《……おやすみ、ユウト。/風も、やすんでる。》
「おやすみ。明日も、一緒に風を読もう。」
塔の影が砂をなぞり、街の上に新しい夜を描いた。
風の音は静かで、やさしく、そして少しだけあたたかかった。




