第46話「パンが冷めても街は温かい」
――あの香りの日から、しばらく。
砂の街に“朝の匂い”が定着した。
どこを歩いても、かすかに焼きたての香ばしさが漂ってくる。
この世界で初めて、人が“腹を満たすため以外の理由で”火を起こしている。
それだけで、なんだか胸が熱くなった。
「おい、焼きすぎ! 黒パンは神への供物じゃなくて炭だぞ!」
「う、うわあっ! また焦げたー!」
パン工房の前で、ミラが両手を腰に当てて怒鳴っている。
子どもたちはあわててオーブンの蓋を開け、煙を顔いっぱいに浴びながら逃げ出した。
その様子があまりに騒がしくて、思わず笑ってしまう。
《観測結果:本日の失敗パン、八個。/でも笑顔率、百パーセント》
「数えるなリィム。……でも、いいな。こういうのが“街の音”だよ」
《街の音……登録。タグ:“にぎやか”“あったかい”》
リィムの体が、陽の光を受けてやわらかく揺れる。
最近の彼女は、言葉のひとつひとつに“感情の響き”が混ざるようになった。
まるで音のない心拍みたいに、胸の奥に共鳴する。
◇
工房の中は、まるで実験室だった。
麦を粉にする石臼が並び、壁には俺が描いた“パンの断面図”。
発酵温度と水分量のメモが貼られ、リィムの投影が淡く光っている。
これが“文明の研究所”だと思うと、ちょっと笑えてくる。
「ユウトー! 見て!」
ミラが両手を高く掲げた。
皿の上には、焦げても崩れもしない、きれいな小型の丸パン。
「今日は成功だ! ……多分!」
「多分って言うな。けど、上出来だな」
俺はひと口かじった。
外はカリッと、中はふわふわ。
――ちゃんと、“パン”だ。
「……うまいな。お前、完全に職人だ」
ミラが顔を真っ赤にして笑う。
「えへへっ、街の子どもたちも“おかわり”って言ってくれるんだよ!」
その言葉に、ジルドが工房の隅から低くうなずいた。
「パンができてから、食料の分配がずいぶん楽になった。保存もきく。お前の“修理”、本物だな」
「修理屋だからな」
《主、自画自賛モード》
「うるさいリィム」
笑い合う声が、焼きたての香りに混じって広がった。
◇
昼下がり、工房の外。
広場には即席の“パン市”が開かれていた。
子どもたちが焼いた小パンを木皿に並べ、物々交換の声が響く。
パン一個と水瓶、パン二個と金属片――そんなやり取りが自然に生まれていた。
《経済活動、発生中》
「そうだな。……売買ってやつだ」
《せるばい?》
「“交換”の拡張版だ。必要なものを、笑顔で分け合うこと」
《笑顔で……取引。登録》
リィムは少し考えるように、体を小さく揺らした。
《……ユウト。パンって、“お金”になるの?》
「なるさ。けど違う。“価値”はパンそのものじゃなく、誰かが焼いてくれることだ」
《誰かが、焼く。だから、おいしい》
「正解」
風が吹き抜け、広場の幕がはためいた。
子どもたちの笑い声。
ミラの呼び声。
ノアが人々のために祈る静かな声。
――全部が、“国が動く音”に聞こえた。
◇
夕方。
パン市が終わるころ、俺は残ったパンを手に工房の裏へ回った。
ジルドが穀倉庫の前で古い帳簿を見ていた。
「在庫、安定してきたな」
「ああ。人々も工夫を覚え始めた。干し草を寝床にして保存してる。……いい街になったもんだ」
「まだ始まったばかりだよ」
そう言いながら、俺は手のパンを差し出した。
「熱いうちに、どうぞ」
「……ありがとよ。あんたのパンは、胃より心に効く」
その言葉に、俺は少し照れ笑いをした。
リィムが肩の上で、そっと光を瞬かせる。
《主、顔温度上昇。タグ:“てれる”》
「記録すんな」
◇
夜。
屋根の上に座り、風塔を眺める。
回転の音が、街の心臓の鼓動みたいに響いている。
肩の上のリィムが小さく問いかける。
《ユウト。パン、もう冷めちゃった。……でも、まだ“あったかい”気がする》
「それはきっと、街が覚えたからだ。焼きたての幸せを、みんなが覚えてる」
《……パンが冷めても、笑顔は冷めない》
「ああ。記録しておけ」
《了解。記録名:“幸福の余熱”。》
二つの月が空を渡る。
穏やかな夜風の中で、街の明かりがひとつ、またひとつ灯っていった。
それは、パンの香りよりも長く――確かに続く“文明の匂い”だった。
――あの日から、風の音が変わった。
以前は、砂を削るだけの暴力だった。
今は、街を包み、動かし、笑い声を運ぶ。
リジェクト=ガーデンは、風と共に呼吸している。
俺は塔の上で工具を拭い、回転軸の震えを確かめる。
金属の唸りは、もう不安定じゃない。
人々の手が加わり、修理の跡が美しい模様のように並んでいた。
《風圧、安定。発電効率、九二パーセント》
「いい調子だ。……もう俺が手を出すことはなさそうだな」
《ユウト、さみしい?》
「さあな。仕事を取られた気はする」
《でも、風の修理、みんなできるようになった》
「そう。それが嬉しいんだよ」
風塔の下では、ミラたちが作業台を囲んでいた。
古い布を縫い合わせて風車の羽根にする。
子どもたちはそれを“風灯”と呼び、夕方には色とりどりに回して遊んでいる。
「ミラ、それ……売り物にするのか?」
「ううん。贈り物。風の方向を教えてくれるんだって!」
「なるほど。風見人形ってやつか」
《タグ追加:風を“飾る”文化》
「記録よろしく」
◇
午後、ジルドの作業場。
風車の羽根を修理していた男たちが、作業を終えて笑っていた。
「風塔ができてから、粉挽きも軽い。時間に余裕ができて、夜に“歌”が生まれたんだ」
「歌?」
「ああ。“風の音に合わせて歌うと気持ちがいい”ってさ。ガキどもが勝手に始めやがった」
男たちの笑い声が心地よかった。
《ユウト。風が、記憶してる》
「記憶?」
《うん。風が通るたびに、音が変わる。昨日より今日の方が、やさしい音。》
「……それは、街が育ってる音だ」
リィムは静かに光った。
《記録:風の記憶=成長の音》
◇
夜。
風塔の根元では、灯りの下で小さな集まりが開かれていた。
パンと水、そして笑い声。
ノアが静かに両手を合わせる。
「神の声はもう聞こえない。けど、風は人の声を運んでくれる」
「そっちのほうが、ずっと優しいな」
俺が言うと、ノアは小さく微笑んだ。
「ええ。祈りは、届くより“回る”ほうがいいのかもしれませんね」
リィムが肩の上で光を強める。
《主。風、歌、パン。全部、“回ってる”》
「……循環、か」
《うん。ユウトが直した世界、ちゃんと回ってる》
二つの月が風塔の羽根を照らす。
その下で、人々の笑い声と歌声が重なっていた。
《記録:文明の状態→風と共に安定中。/タグ:“やさしい音”》
「よし、次の修理対象は――“夜”だな」
《夜?》
「灯りだよ。風の次は光。……夜にも安心できる街を作ろう」
《了解。新プロジェクト名:ライトアップ計画!》
「また勝手に名付けたな」
けれど俺は、笑いながら風に吹かれた。
――この街の風は、もう“生きている”。




