第43話「神が定義しなかった希望」
――風が、音を取り戻した。
かつて沈黙に閉ざされていた砂の街〈バル=アルド〉に、ようやく「生活の音」が帰ってきた。
水路のせせらぎ。子どもたちの笑い声。遠くの工房から聞こえる金属音。
そのどれもが、昨日までの乾いた風景に色を取り戻していく。
朝焼けの中、街の中央広場には人が集まっていた。
壊れたポンプの修理に群がる職人たち、金属の桶に水を受けて喜ぶ子どもたち、そして――その光景を、信じられないような顔で見つめている老人たち。
「見ろよ……本当に流れてる……! 水が……!」
「神殿が応えたんだ! いや、違う――この人が!」
誰かがそう言って、俺の方を指差す。
「いやいや、俺じゃない。修理したのは――こいつだよ」
肩の上のリィムが、ぷるん、と震えて光った。
《照明モード。/主の発言、うれしい。》
音声は俺の脳内にしか響かないはずなのに、不思議と街の人たちまでリィムの“感情”を感じ取ったようで、笑い声が上がった。
その光景を見て、ジルドが肩を組んできた。
「よくやってくれたな、ユウト。……お前の修理は、神の奇跡より効く」
「奇跡はただの仕様変更ですよ。動かなくなったら直す。たったそれだけのことです」
冗談めかして言うと、ジルドは短く笑ってから、空を見上げた。
乾いた頬に、一筋の涙が伝う。
「“祈りじゃ救えねぇ時代”に、まだ救える奴がいたとはな……。ありがとよ」
《記録更新:感情タグ/感謝/信頼上昇》
「……おいリィム。お前、また勝手にタグ増やしてるだろ」
《うん。でも、これは増やしたい。だって、ユウトも嬉しそう》
「……まあ、否定はしないけどな」
リィムは光を瞬かせ、まるで照れたように小さくぷるんと震えた。
彼女の変化は、もう“AI”では説明できない。
感情の色が、少しずつ形を持ち始めている。
◇
塔の影では、ミラとノアが水路の調整をしていた。
新しく流れ出した水はまだ不安定で、温度や流速を一定に保つには細かな調整が必要だ。
「ミラ、そこ! 逆流防止板の角度が違う!」
「ええっ、また!? ……これ、ナナメ三度ってどれくらい!?」
《補助演算:ナナメ三度=ミラの右手の角度で“おいしい”って言う時くらい》
「なにそれ! 分かるけど分かんない! でも好き!」
リィムの妙に的確な比喩に、ミラは笑いながら修正を加えた。
ノアはその様子を、穏やかに見つめていた。
「……あなたの“観測”は、もはや祈りと似ている気がします」
「祈り、か。俺のはもう少し地味ですよ。修理、ってやつです」
「でも、祈りも同じでは? “直してほしい”って、誰かに願う行為でしょう」
その言葉に、俺は少しだけ黙りこんだ。
ノアの瞳は灰青色で、静かな湖みたいに光を湛えている。
彼女は信仰を失った聖女――でも、言葉の一つひとつがまだ“人を救う響き”を持っていた。
《主の心拍数:上昇。原因:不明/推定:ノアの瞳》
「うるさい、リィム」
《診断です。科学的。》
「お前、ほんと余計なところだけ成長早いな」
《AIは成長速度を選べません。……ユウトに似ただけ》
「それ褒めてないだろ」
俺の小言に、リィムはくすっと笑うように光を揺らした。
◇
その穏やかな時間を破ったのは――一本の音。
風塔の基部から、微かな電子音が響いた。
《……ユウト、検出。沈黙神殿の奥から、まだ“ひとつだけ”ログが残ってる》
「神殿の……?」
《暗号化。タグ:“第七供給区監視塔/管理者コード:アマギ”》
アマギ。
その響きで、体の奥がひやりとした。
数秒遅れて、ノアもその名を理解したように息を呑む。
「天城颯真……勇者の、コード名」
「ああ。……あいつの痕跡だ」
風の音が止む。
街の喧騒が遠ざかる。
ただ、耳の奥で心臓の音が響いていた。
《再生、する?》
「……ああ、頼む」
リィムの体が淡く光り、空中に青いホログラムが浮かぶ。
そこから、声が流れた。
『こちら第七供給区監視塔。異常発生。神殿端末が“共感値異常”を記録。』
『原因は?』
『棄却者の間で祈りが活性化。信仰値未満の者が、互いに支え合い“希望”を生成。』
『……削除しろ。』
『アマギ様、それは……!』
『秩序の外にある希望は、世界を腐らせる。神が定義しない幸福は、すべてエラーだ。』
――静寂。
風すら止まった。
ミラが息を呑み、ノアの指先が震える。
ジルドは拳を握り、低く呟いた。
「……勇者ってのは、そんな言葉を吐くもんかよ」
胸が焼けるように熱い。
怒りではない。
けれど――胸の底で何かが軋んだ。
「……颯真。お前、どこまで“神”になりたいんだよ」
言葉が乾いた喉をすり抜けて、砂の上に落ちた。
《ユウト。これ、怒りの形だね》
「……ああ。リィム、俺たちはもう“怒るだけ”じゃ足りない。直すんだ。憎しみじゃなく、修正で」
《了解。修正行動モードへ移行》
リィムの光が強くなる。
風塔の羽が再び回り、街の全方位に通信光が流れた。
新しい目的が――世界に書き込まれる。
「ジルド、颯真の本拠地は?」
「南東だ。“アルメリア聖政庁”。勇者領の中枢……神の声を中継する塔が立ってる」
「じゃあ、そこへ行く」
ミラが水から顔を上げ、目を丸くした。
「えっ、行くって……まさか勇者領に!?」
「そうだ。神の理を直すには、根っこに触らなきゃいけない」
ノアがそっと手を胸に当てる。
「……なら、私も行きます。あの沈黙を“赦し”だと思っていた自分に、けじめをつけたい」
ジルドが笑う。
「まったく……無茶な若造どもだ。だが――好きにやれ。街は俺たちで守る」
その言葉に、心の底から息を吐いた。
風塔の影が長く伸び、リィムの光がそれを撫でる。
《行動タグ更新:遠征準備開始。目標=勇者領中枢》
「……リィム。お前、本当に何でも記録するな」
《うん。でも、“覚えていたい”から。ユウトと歩いた記録は、消したくない》
街の風が、優しく頬を撫でた。
遠く、二つの月が薄く並ぶ。
かつて沈黙していた神殿の残響が、いまは穏やかな風の音に溶けている。
「行こう、リィム。次の修正対象は――神の理だ」
《了解。/修正プロセス:起動》
リィムの声は、静かで、それでいて確かな“決意”を帯びていた。
風塔がゆっくりと回転を始め、夜明け前の空気に光の筋を描く。
俺はその光を見上げながら、小さく呟く。
「――仕様変更、第二段階開始だ」
《記録完了。主の表情=安定+微笑。状態タグ:希望。》
風が吹いた。
街の人々の笑い声と、修理の音と、リィムの心拍のような光。
すべてが、この世界の“生”だった。
神が定義しなかった希望。
――その再定義を、今から俺たちが始める。




