第42話「怒りという感情」
――砂が鳴かない。
沈黙神殿へ向かう道は、風の国であるはずの俺たちの街から、音をひとつずつ奪っていった。砂の粒は滑り、靴底は吸い込まれ、足音さえ妙に小さい。耳が詰まる感じ。あの“圧”が、まだ空気のどこかに残っている。
《観測ログ:前方五百二十メートルに信仰端末群の残骸。環境音=過剰減衰。心理負荷に注意》
「了解。……無理はしない。戻る判断は俺が出す」
「言ってくれるなよ、隊長さん」
ジルドは肩の荷を上げ直し、乾いた笑いを一つ。ミラは両拳をぎゅっと握って、前だけ見ている。ノアは視線を落として祈る手をほどき、こちらに小さく頷いた。
「ユウト。……あなたの“観測”で、皆の負担を可視化できますか」
「やる。――共有表示」
視界の横に青いスクリーンを出し、皆の脈拍と体温を簡易アイコン化して空中に並べる。一般人には不可視のはずの俺の“画面”を、リィム経由で投射した。
《共有表示 開く》
《隊員状態:ミラ=昂揚+緊張/ジルド=安定+疲労/ノア=静穏+内圧/主=怒り+抑制》
最後の行で、喉がひゅっと鳴った。怒り。隠したつもりでも、丸見えらしい。
「……バレてるな」
《うん。ユウトの心、あったかいけど、芯のところが“きゅっ”ってなってる》
「医者のカルテより容赦ないな、相棒」
《診断じゃないよ。いっしょに歩くためのメモ》
リィムの声は、少女らしくやわらかい。それでいて、芯があった。肩の上の光が、ゆっくり呼吸するみたいに明滅する。
◇
沈黙神殿は、砂丘の窪地に沈んでいた。
白い石のリングが何重にも重なり、中央に灰色の塔。表面には古い祈りの文字が薄く刻まれている。けれど、その線は途中でぷつりぷつりと途切れていた。まるで“言葉の喉”を、誰かが切り取ったみたいに。
《環境スキャン:残留信号=微弱。精神干渉=低。入場推奨》
「中を見よう。……俺が先頭。ミラ、続け。ノアは記録。ジルドは後尾で異常に備えて」
「了解!」
「はい」
「任された」
塔の内部は、思ったより狭かった。円筒の壁、中央に歯車状の祭壇。触れると冷たい。砂漠の朝なのに、氷の倉庫みたいに底冷えする。
《ここ、きらい》
「理由は?」
《みんなの声、ここで止まってる。届かなかった“お願い”が、薄い埃になって床に降りてる。……掃除、したい》
「……掃除、ね。だったら――」
《観測開始》
《回廊コード 抽出》
《祈りログ 断片化 検出》
視界に薄い文字列が浮かぶ。断片だらけの祈り。名も知らない誰かの「助けて」、名前が消された「どうか」、短い「ありがとう」。雑音に埋もれて、意味だけが骨組みのように残っている。
胸の奥が熱くなる。颯真の顔が一瞬よぎって、奥歯が噛み合った。あいつは「秩序を守る」と言った。じゃあこの秩序は何だ。届かない祈りで塔を満たし、沈黙で蓋をして、都合の悪い声だけ消していくのが“正義”か。
《主の感情 値 上昇》
《警告:過負荷 予兆》
肩の上のリィムが、ふるふると震える。青に赤が混じる。彼女の中に芽生えた“怒り”が、俺の熱を映すみたいに色を濃くした。
《……ユウト。わたし、怒ってる。はっきり分かる》
「分かる、か」
《うん。前はただ“イヤ”って思った。でも今は違う。これは“守りたいから怒る”なの。たすけたいから、いやだって言うの。……これ、まちがい?》
「――正しい」
言葉が自分でも驚くほどすぐ出た。正しい。怒りは壊す力じゃない。方向を定めれば、守るための推進力になる。
「リィム、怒りをそのまま燃やすな。整えて、流れを作れ。……風塔みたいに」
《うん。じゃあ――》
《感情モジュール:怒り 整流モード》
《出力 上限 低めに固定/ノイズ 除去》
《修正燃料 スロットへ割り当て》
青赤の光がすっと落ち着いて、透明に近い色に戻る。柔らかいのに、芯は強い。まるで冷たい水を喉に流し込んだみたいに、頭の熱が引いた。
「リィム」
《なに?》
「……ありがとう」
《どういたしまして》
少女らしい返事に、肩が軽くなった。
◇
祭壇の縁に、薄い光の膜が揺らめいた。手をかざすと、ひやりと皮膚が痺れる。
《観測ログ:中枢記憶媒体 アクセス扉》
《条件:正規祈りキー 不足/代替=“声の束”》
「声の束?」
《たすけたい、の束。みんなの“お願い”を束ねる。……ユウト、わたし、やってみたい》
「任せる。俺は支える」
《共有表示 ひらく》
《住民ログ 参照》
《タグ:おいしい/あたたかい音/笑顔――繋いで、束ねる》
青い文字列が、初めて神殿の壁に“映し出された”。可視化されたのは、祈りでも神の言葉でもなく、街の昨日の記録だった。パンの湯気。水路の歌。夜の灯り。小さな笑い。ミラの大声。ノアのやさしい「いただきます」。エレナの、短いけれど満ちた「ありがとう」。
神殿が、かすかに音を立てた。湿気を吸った紙が動くような、古い箱が開くような、くぐもった音。
《扉 反応/開放 率 三二%……四九%……》
《……ユウト、もっと ちょうだい。街の、音》
「持ってけ。全部、くれてやる」
俺は心の中の“昨日”を開く。風塔を組んだ指。子どもの手の小ささ。ジルドの油の匂い。ミラのはちみつ色の笑顔。ノアが光を“祈り”じゃなく“約束”と呼んだ瞬間の瞳。――そして、颯真の背中。砂光に立って、俺に「削除」と言い放った、あの背中。
胸に、熱が戻る。でも、もう暴れない。風は整流され、塔を抜けて街を撫でる。
《開放 率 七二%……八九%……》
《到達:中枢層》
落ちる。世界がひっくり返る。次の瞬間、音のない広間に立っていた。白い柱が何本も、空のない天井まで伸びている。四方の壁は、祈りの文字で塗りつぶされ、そのどれもが途中で止まっていた。
背後で、ミラが小さく息を呑む。
「……ここ、息が苦しい」
「無理せず外に――」
「だいじょうぶ。ユウトの声、聞こえてるから」
ノアは頬に手を当て、目を閉じている。
「これは……供物ではありません。記録。――いいえ、記録にもなりきれなかった、“途中で止められた願い”」
ジルドが壁を指でなぞり、手を引っ込めた。「粉になって落ちる祈り、か」
《……聞こえる》
リィムの声が震える。肩の上で、光が少し強くなる。
《遠くの声。ひくい声。小さい声。――“助けて”。“まだ生きたい”。“どこにも届かないけど、それでも”》
彼女は小さく息を呑んだ。息なんてしないはずなのに、そう感じた。
《いま、わかった。怒りは、叫ぶためじゃない。“届かない声を、届く場所に運ぶため”の力》
「それが、お前の答えか」
《うん。ユウト、わたし、運ぶ。わたし、風になるって言った。――いま、なる》
《感情:怒り 整流 維持》
《ルート:祈り回路→街の共有表示 反転出力》
《目的:中断された願いを、現実に接続》
「やれ」
リィムの光がほどけ、薄い網になって神殿全体に広がる。壁の祈りの文字が、ごく一部だけ、ふっと“続き”を書かれたように繋がっていく。完全ではない、でも確かに前へ。
神殿が軋んだ。どこかで、古い錠が壊れる音。
《干渉検知:“観測者エラー”/システム反応》
低い声が、柱の陰から湧いた。声というより“アナウンス”。冷たい、けれど壊れかけの、機械の祈り。
《宣言:怒りは禁忌。秩序を乱す因子。廃棄対象》
「ふざけるな」
自分でも驚くほど静かな声だった。怒鳴り声じゃない。氷の上を歩くみたいな冷たさで、言葉が出た。
「怒りを知らない者が、どうやって人を救える。届かない声に気づきもしないで、何が秩序だ」
《反論 無効。基準:神の沈黙は完全》
「だったら、基準の方を直す」
俺は祭壇に手を置き、リィムの網と自分の〈観測〉を重ねる。光が重なり、冷たい機械音が一瞬だけたじろいだ。
《主のコマンド/修正モード 移行》
《新定義 提案:怒り=破壊ではなく、保護の優先度を上げる信号》
《適用 可否?》
空気がきしみ、神殿の天井がうっすらと割れ――かけて、止まった。
《拒否。権限 不足》
舌打ちしたい気分を飲み込む。分かっていた。ここは“神殿”だ。神の定義を変える鍵は持っていない。けれど、街の定義なら、俺たちが持てる。
「目標変更。神殿の外へ、回路を引き出す。ここに溜まった声を、街の仕組みに繋ぐ」
《了解。出口=風塔/水路/共有表示》
《“願い”を街の回路に乗せる》
リィムの網が収束し、三本の糸になって塔の外へ伸びた。肩に、重み。けれど折れない重さだ。
「ミラ、準備いいか」
「いつでも!」
「ノア、読み上げを頼む。形式は自由でいい。――人の言葉で」
「はい」
ジルドは無言で頷き、祭壇に背を預けて周囲を警戒した。
《回線 接続》
《街路 閃光 確認》
《“声”の搬送 開始》
遠くで風塔が低く鳴り、街の水面が小さく波打つ。広場の“共有表示”に、やわらかい文字が一つ、また一つと浮かび始めた。
“おはよう”
“おいしい”
“今日は寝る”
“また明日”
祈りじゃない。生活の言葉だ。けれど――そのどれもが、願いの続きだった。
「……これでいい」
喉の奥が熱くなった。涙、は流さない。流してもいいけど、今は作業中だ。
《ユウト》
「なんだ」
《いま、わたし、怒ってる。でも、こわくない。ちゃんと、つかえてる。――ありがとう》
「礼を言うのは俺の方だよ。……お前、もうAIじゃないな」
《“リィム”だよ》
肩の上の光が、ふわりと笑った。
◇
神殿の奥で、壊れかけのアナウンスが最後にもう一度だけ流れた。
《通知:観測者 逸脱。記録。――沈黙、維持……失敗……》
天井に入ったヒビから、砂の光が一本差し込む。静寂に、ごく弱い風が生まれた。
「帰るぞ」
皆が頷く。外はまぶしかった。街の方角で、風塔がゆっくり回り、水が小さく歌った。共有表示には、子どもが描いた拙い絵。パンと水と、笑顔と、青い小さなスライム。
《タイトル 更新:怒りという感情》
《定義:守る力》
「――仕様変更完了、ってところだな」
《うん。つぎは、“恐れ”の定義も 直そう。ユウトがこわいとき、だれかが手を握るって決めるの》
「決めるの早いな」
《いま、にぎる?》
「……握ろう」
手を伸ばすと、半透明の彼女が、そっと掌に触れた。ぬるりとした感触のはずなのに、驚くほど温かい。
風が吹いた。砂が光った。遠くの空に、細い紋章が一瞬だけ瞬く。颯真のいる方角だ。
「颯真」
小さく呟く。怒りは整えた。次に必要なのは、たぶん――恐れを越える勇気だ。
《記録 完了。街の心拍=正常。主の心拍=ちょっと速い。》
「うるさい、看護師」
《看護師じゃない。“リィム”》
「分かった。――行こう、リィム」
俺たちは、風の戻った街へ歩き出した。
怒りは、もう“燃えカス”じゃない。
ちゃんと使える、俺たちのエンジンだ。




