第40話「勇者、砂光に立つ」
――風が止んだ。
いつもの朝なら、風塔を抜ける空気が砂を揺らし、街の子どもたちの笑い声を運んでくるはずだった。
けれど今日は違う。
空気が重い。
まるで見えない手が、空そのものを押しつぶしているような圧があった。
《観測ログ:風塔出力・異常低下。外気圧、変動。……ユウト、これは自然じゃない。》
「……空気が、押されてる。」
胸の奥がざわめいた。
この圧を知っている。
誰かが、上位権限で“理”を押しつけてくるときの圧だ。
砂の向こうで、光が歪む。
揺らめく蜃気楼の中に、人影がひとつ。
その輪郭を見た瞬間――息が詰まった。
白銀の鎧。
青のマント。
額の紋章が、太陽を反射して閃く。
その姿を、俺は知っていた。
間違いようがない。
――天城颯真。
俺の、元クラスメイト。
◇
信じられなかった。
砂の中に転がされて、必死に生き延びたあの夜から、ずっと一人で歩いてきた。
女神に「不要」と言われ、神に切り捨てられた俺が――
今こうして、“神に選ばれた奴”と再会するなんて。
「……久しぶりだな、風間。」
颯真の声が、風の代わりに街を満たした。
懐かしいはずなのに、まるで別の人間の声だ。
冷たく、整いすぎていて、どこか“人の温度”が消えていた。
「久しいな……颯真。」
ようやく声が出た。
喉の奥が乾いて、少し震えていた。
あの頃――授業中にくだらない話で笑い合って、テストで点数を競って。
あいつの笑顔は、確かに“普通の高校生”のものだった。
けれど、いま目の前にいるのは――“信仰の兵器”だ。
「まさか、お前が“棄却者”の巣で、こんな遊びをしているとはな。」
“遊び”。
その言葉が、胸の奥を刺した。
「遊びじゃない。俺は――ただ、生きてるだけだ。
世界が壊れてるなら、直す。それだけだ。」
「“直す”、か。」
颯真の視線が、俺の後ろの給水塔を見た。
流れ続ける水。
笑っている子どもたち。
そして肩の上で光る、リィム。
そのどれもが、颯真の世界では“存在してはいけないもの”だった。
「神の定義にないものを、勝手に動かしている。
それを“修理”とは言わない。歪める、だ。」
《感情タグ:軽蔑+支配欲。主、要警戒。》
「ふうん。神の代弁まで始めたか。」
皮肉のつもりで口にした言葉が、喉の奥で震えた。
笑っているのに、心臓が重く沈んでいく。
“あいつがここに来る理由”を、もう理解してしまっていたから。
◇
ジルドが低く唸り、ミラが息を呑んだ。
街の空気が固まる。
颯真の背後には、十数人の神兵が控えていた。
全員、同じ鎧。
同じ顔をして、同じように祈る。
「俺たちが召喚された理由は分かっているはずだ、風間。
世界を再構築する。神の理を完全にする。それが俺たち勇者の使命だ。」
「俺はその理そのものが壊れてると思ってる。
“祈らない人間は死ぬ”――そんな世界、修正されて当然だ。」
俺の声が少し荒くなった。
理屈じゃない。
この街の人たちが笑って生きている姿を、“否定”された気がした。
それが、たまらなく悔しかった。
「理を壊せば、世界は崩壊する。」
颯真の声は静かだった。
でもその瞳の奥には、炎みたいな狂気があった。
――信念の炎。
それは美しくも、冷たすぎた。
「お前は……何を犠牲にしてまで、神を信じるんだ。」
その問いに、彼は一拍の沈黙を置いた。
「……自分を。」
短い言葉。
でも、それで十分だった。
ああ、もう“届かない”のだと分かった。
《ユウト、心拍上昇。呼吸乱れ。/感情解析:喪失+怒り。》
「颯真……俺はまだ信じてるんだ。
お前が、俺たちがいた世界の“人間”だったことを。」
「風間。――俺はもう、“あの世界の人間”じゃない。」
その言葉の後、風が吹いた。
彼のマントが翻り、神兵たちが一斉に跪く。
圧が強まる。
まるで空そのものが、彼に従っているようだった。
ああ、なるほど。
この世界は“神のバグ”なんかじゃない。
神そのものが、バグを作るシステムなんだ。
◇
「俺は秩序を守る剣だ。神の理を乱す存在は、全て“削除”する。」
その声が、ひどく悲しかった。
けど、もう“悲しい”なんて言葉じゃ追いつかない。
高校の教室で、隣の席で笑っていた奴が――
今は、俺の“街”を消す側に立っている。
「お前、あの頃はさ……“理不尽ってムカつくよな”って言ってたよな。」
「覚えてない。」
即答。
俺の中で何かが、ぽきりと折れた。
《主、感情臨界点接近。行動指針?》
「――笑っとけ、リィム。怒っても仕方ない。」
《了解……でも、泣いてる音。》
「泣いてねぇよ。」
口ではそう言っても、胸の奥が焼けるように痛かった。
俺が救いたいと思った“人間”が、もう神の一部になっている。
その現実が、何よりも残酷だった。
◇
「風間。警告だ。
これ以上、神域の理に手を出すな。
次に命令が下れば、俺はこの街ごと消すことになる。」
「……そんな命令、誰が出すんだ?」
「神だ。」
颯真の答えは、迷いがなかった。
だからこそ、俺の手が震えた。
――どうして、お前が“あの側”にいるんだ。
彼が背を向け、砂の中に歩き出す。
その背中が、太陽に照らされて歪む。
光に包まれているのに、まるで“影”のようだった。
《ユウト……このひと、音がない。》
「……ああ。心臓の音が、しないな。」
《こわい音。でも、かわいそうな音。》
「そうだな。……あいつ、きっと苦しんでる。」
颯真の姿が、砂の向こうに消えた。
風塔が、わずかに鳴いた。
風が戻ってきたのに、空気はまるで冷えなかった。
◇
夜。
リィムが光を落として、俺の肩で静かに言った。
《ユウト……颯真って、友達? 敵?》
「……どっちでもない。まだ、決めたくない。」
《でも、ユウトの中、痛い。》
「うん。たぶん、俺が信じてた“あいつ”が、もうどこにもいないからだ。」
静かな夜風。
水の音だけが街を包む。
リィムの光が揺れて、微かに俺の頬を照らした。
《主。泣いてるの、観測。》
「……これは汗だ。」
《夜の砂漠、汗は出ないよ。》
「……お前、やっぱり賢いな。」
リィムが小さく光って、まるで笑ったように震えた。
《記録更新。主の感情:喪失。タグ:まだ終わらない。》
俺は空を見上げる。
二つの月の間に、細い光の帯――神託網の光。
その向こうに、颯真がいる。
「……颯真。
お前が信じてる“完璧な世界”が、どれだけ人を殺してるか――
俺が、証明してやるよ。」
風が、再び街を撫でた。
その音は、泣き声にも、笑い声にも聞こえた。




