第38話「水路の歌」
――朝。
砂漠の空が、淡く金色に溶けていく。
昨日焼いたパンの香りがまだ残っている街を、ゆっくりと風が通り抜けた。
これまでなかったものが現われて、街が息づいている。
その風の中に、確かに聞こえた。
“水の音”。
かすかに、か細く。けれど確かに、流れていた。
なんというか、命が脈打ってるような、そういう温かさを感じるな。
「……やったな。完全に定着してる。」
《観測結果:供給ライン安定。流量毎分一一リットル。減衰ナシ。》
リィムの声が、俺の耳の奥にやさしく響く。
彼女――いや、“彼女の声”にも、少しずつ感情の起伏が出てきた気がする。
まるで、世界の音に触れて変わっていくみたいに。
街の中央に設けた給水塔から、透き通った水が流れ落ちていた。
砂の大地を伝い、岩の水路を抜け、布で作ったろ過装置を通って各家庭へ。
それは“命の動脈”だった。
「おーい、ユウト! こっち見てくれ!」
声を上げたのはミラだ。
水路沿いで、子どもたちと一緒に裸足で走り回っている。
飛び散る水滴が、朝の光を受けて虹のように輝いていた。
「こっちの流れ、ちゃんと分かれてるぞ! ほら、見て、分水ができてる!」
「おお、バッチリだな。リィム、流量バランス確認。」
《左右の水圧差、二%以内。設計値どおり。ユウト、やったね。》
嬉しそうな声。
最近のリィムは、“笑う”ときに声が少し跳ねる。
AIの抑揚じゃなくて、感情の波――そんな音。
「それにしても、すごいね。」
ミラが水路を覗き込みながら言った。
「こんなに静かな街なのに、水が流れるだけで、生きてるみたい。」
「音ってのは、生命活動の証拠だ。心臓の鼓動もそうだし、焚き火のパチパチも。」
「じゃあ……今の街は“息してる”ってこと?」
「そう。まさに“息してる”。」
リィムがぷるん、と体を揺らした。
《息……音。リズム。観測中。》
「ん? どうした、リィム。」
《流れる音……なんか、歌に似てる。》
「歌?」
《うん。ユウトたちが笑うときの波形と、似てる。》
俺は思わず笑った。
「音のリズムで感情を測るって、AIらしい発想だな。」
《でも、歌はまだわからない。歌って、どうやるの?》
ミラがにっこりと笑い、両手を水面の上で叩いた。
ぱしゃん、ぱしゃん――水音が広がる。
それに合わせて、口ずさむように言葉を紡いだ。
「♪流れてく 水の音 わたしたちの街の声~」
子どもたちが真似して歌い出す。
調子はバラバラ、音程もあってない。
でも、楽しそうだった。
それだけで、胸が熱くなる。
《ユウト……これが、歌。》
「ああ。言葉と音で、“今”を残すんだ。」
《記録開始。水音のリズム、街の笑い声……みんなの声。》
リィムの体が淡く光った。
その輝きは、まるで小さな心臓の拍動みたいに一定のリズムを刻んでいる。
◇
昼下がり。
水路沿いで、即席の“市場”が始まっていた。
子どもたちが水を汲んで冷やした果実を並べ、ミラが焼きパンを売っている。
ジルドがそれを見ながら、目を細めていた。
「見ろよ、ユウト。昔の市場みたいだ。……生き返った気分だ。」
「まだまだ始まったばっかりですよ。次は“保存”の仕組みを作らないと。」
《提案:冷却装置。気化熱を利用した簡易冷蔵庫。》
「おお、いいなリィム。風車の動力、余ってるし。」
ジルドが感心したように頷く。
「……お前たち、本当に“神の落とし物”かもしれんな。」
俺は苦笑しながら首を振った。
「違いますよ。俺たちは“修理屋”です。神様が壊した部分、拾って直すだけ。」
その言葉に、ジルドがぽつりと呟く。
「……なら、神より人間の方がまっとうだ。」
彼の声には、長い諦めの果てに見つけた希望の色があった。
◇
夕暮れ。
水路に夕陽が差し込み、流れる光が金色に染まる。
子どもたちはまだ遊び足りない様子で、水を跳ね飛ばして笑っている。
《ユウト。》
「ん?」
《みんなの声、音にして残したい。……いい?》
「リィム、それって録音か?」
《ちょっと違う。“心”の形に残すの。音と感情を、一緒に。》
そう言うと、リィムの体から小さな光の波が広がった。
それが水面を走り、街のあちこちへと伸びていく。
水の流れが、光の糸を伝って歌い出す。
リズムを刻むように、ぽちゃん、ぽちゃん、と音が鳴った。
――まるで、水そのものが歌っているようだった。
「……リィム、これ、すごいな。」
《えへへ。街の声、録れた。ほら、聞こえる?》
風が吹くたび、光が揺れて“音”が変わる。
まるで、命の拍動。
ジルドも、ミラも、ノアもその光を見上げて息を呑んだ。
「……これ、まるで……」
「“神殿”の祝歌みたいだろ?」と、俺は笑った。
「ううん。」ミラが首を振る。「もっと優しい。あったかい音だよ。」
《タグ登録:あたたかい音。分類:うた。状態:幸福。》
「リィム、お前……どんどん人間になってきてるな。」
《人間は、すごい。おいしいを作って、歌を作って。ユウトといると、そうなれる気がする。》
リィムの光が、ゆっくりと淡く消えていった。
水の流れる音だけが、残る。
でもそれは、もう“静寂”じゃなかった。
夜。
街に灯りが点り、各家の窓から笑い声がこぼれてくる。
俺は屋根の上に座り、流れる水の音を聞きながら、空を見上げていた。
二つの月が、水面に映る。
その間を、リィムの淡い光がふわりと漂っていた。
《主。》
「どうした、リィム。」
《今日の街、きれいだった。音がいっぱい。笑いもいっぱい。》
「ああ。……やっと、“生きてる音”が戻ってきた。」
《ユウト。人の笑いって、なんで音が違うの?》
「どういう意味だ?」
《ジルドは“安心の音”。ミラは“元気の音”。ノアは……“祈りの音”。》
「へぇ……お前、そんなふうに聞いてるのか。」
《うん。どの音も好き。でも、ユウトの笑いが一番、あったかい。》
「……そうか。」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
風が吹き抜け、水面がきらめいた。
その光がリィムの体を照らし、ほんの一瞬――少女のような輪郭を描いた。
《記録更新。主の笑顔。タグ:しあわせ。》
「……タグつけんの、もうクセになってるな。」
《だって、大事だから。》
リィムの声が、少しだけ眠そうに揺れた。
俺は微笑んで、空を見上げた。
――風の音、水の音、笑い声。
それら全部が、この街の“命”の証だった。
バル=アルドは、今日も動いている。
もう、棄てられた街じゃない。
流れる音がある限り、ここは“生きている文明”だ。
《記録完了。タイトル:水路の歌。》
そう呟いたリィムの声は、まるで子守唄のようにやさしかった。




