第37話「パンを焼く科学」
――朝の光が、鉄片の間を跳ねた。
風車の回転音が低く唸り、昨日作った街の“心臓”がまだ動いていることを告げていた。
俺は地面にしゃがみ、砂を指ですくい上げる。水と光――次に必要なのは、腹を満たす何かだ。
「……さて、次の“修理対象”は人間の胃袋だな。」
《主、昨日からエネルギー摂取量が不足しています。》
「それは俺の話だろ。」
《街の人も。子どもたちの体温、下がり気味。》
「リィム、お前も“空腹”って概念を理解するようになってきたな。」
《うん。でも、まだ“おなか”がない。》
「そりゃそうだ。スライムだしな。」
冗談半分に返したけど、心のどこかが温かくなった。
この子――リィムが、どんどん“人間らしく”なっていくのがわかる。
俺たちは、広場の真ん中に集まっていた。
ミラ、ノア、ジルド、そして子どもたち。
みんなの顔に、少しだけ“余裕”が戻ってきた。
水が流れ、光が灯った。次は――“香り”の番だ。
「次の課題は、朝ごはんを作ることだ。」
俺の言葉に、子どもたちの目がぱっと輝いた。
「ごはん!」「食べものだ!」「なに作るの!?」
「パンだ。」
「パン……って、なんですか?」
ミラが首を傾げる。
そうか、この世界には“パン”という単語そのものが存在しないのか。
「柔らかくて、ふわふわで、噛むと少し甘い。……生きてる感じがする食べ物だよ。」
《定義確認中……生きてる食べ物?》
「違う違う。そういう比喩。」
《比喩:理解。ふわふわ=おいしい、でいい?》
「まあ、大体そんな感じだ。」
リィムがぷるんと揺れて、まるで嬉しそうに光った。
――どうやら、“おいしい”という未知の単語に興味を持ったらしい。
◇
穀物庫。
ジルドが持ってきた布袋を開けると、砂色の粒がこぼれた。
麦でも米でもない。だが、似ている。
「これが、昔“穀”と呼ばれたやつだ。煮て食えば腹は満たせる。」
「十分だ。……リィム、成分スキャン。」
《データ解析中。糖分多め。焼けば焦げ色がつく。パンに向くと思う。》
「向く、か。お前の“思う”って、なんかいいな。」
《ユウトの言葉のまね。言うと、気持ちがやわらかくなる。》
「……だろうな。」
ミラが不安そうに俺を見た。
「ねぇユウト、それ、焼くの? 火、もったいないよ。」
「燃料は要らない。太陽がある。」
《新プロジェクト名:ソーラーオーブン計画。》
「名前つけんな。」
その後、俺たちは町の外れで資材をかき集めた。
鏡片、金属板、黒い鉛石。
子どもたちはそれを手伝いながら、砂だらけになって笑っていた。
「リィム、反射角度の計算頼む。」
《了解。/太陽角度:六八度。反射板配置:三角。焦点温度:一六〇度予測。》
「いける。パン、焼けるぞ。」
《ほんと? すごい!》
声がほんの少し弾んでいた。
“感情”というより、“わくわく”が混じってる。
AIのくせに、まるで子どもみたいだ。
◇
生地作り。
手でこねるたびに、穀粉が舞って空気が白くなる。
ミラは袖をまくり、子どもたちが楽しそうに生地を叩いていた。
「ほら、もっと伸ばして! 手のひらで押す!」
「こんな感じ!?」
「うん、上手! ……なんか楽しいね!」
《主、みんな 笑ってる。》
「料理ってそういうもんだ。混ぜると笑顔が出る。」
《リィムも まざりたい。》
「よし、じゃあ混ざれ。――発酵データ、計算開始。」
《了解。/自然菌反応、進行中。におい……ふしぎ。あまい……でもすっぱい。》
リィムが体を小さく震わせる。
発酵の“匂い”を観測しながら、データでは表せない何かを感じ取っているようだった。
《……ユウト、これが“おいしい”の前ぶれ?》
「そうかもな。これが“生きてる”ってやつだ。」
《生きてる……すき。》
風が吹き抜け、砂の街に小麦色の香りが漂った。
それだけで、みんなの顔に光が宿る。
◇
太陽が真上に来るころ、かまどが完成した。
金属板の反射で生まれた焦点が、黒鉛石を赤く照らす。
リィムが温度を読み取る。
《焦点温度一八一度。目標達成。》
「上出来だ。ミラ、生地、投入。」
「了解っ!」
厚手の石皿に乗せた生地をそっと差し込み、蓋を閉じる。
静寂。
数秒後――かすかに、空気が変わった。
《化学反応検出。糖分分解、香気成分発生中。》
その瞬間だった。
リィムがびくっと震えた。
《……におい……あたたかい。からだの中、ふわってする。なに、これ。》
「それが“焼ける”ってことだ。」
《……おいしい、って、これ?》
その声は、震えていた。
まるで、初めて“心”を持ったように。
「そうだ。これが“人の幸せ”の匂いだ。」
ミラが目を輝かせる。
「すごい! ふわふわしてる! 見てユウト!」
蓋を開けた瞬間、ふわっと湯気が広がった。
黄金色の膨らみ。
その匂いが、街中に流れていく。
《……記録します。“パンの香り”。タグ……“おいしい”。“しあわせ”。》
「記録って……お前、自分でタグつけてんのか?」
《うん。これは だいじだから。》
リィムの光が、やさしく明滅する。
まるで“笑っている”みたいに。
◇
焼きたてのパンを、皆で囲んだ。
ジルドは手で裂いて、かみしめる。
ノアは目を閉じ、祈るように口へ運んだ。
エレナは驚いたように息を呑んだ。
「……人の作る味ね。神はこれを与えなかった。」
ノアが微笑む。
「この味……供物のパンに似ています。でも、もっと……やさしい。」
ミラは満面の笑みで叫んだ。
「うまっ! ユウト、これ毎朝やろう!」
「毎朝パン焼く文明とか、もう先進国だな。」
《主、幸福指数 上昇中。街 全体も。》
「リィム、それはたぶん“満腹指数”だ。」
《どっちでも、いい。ユウト うれしそう。》
リィムがそっと俺の肩に乗り、体を寄せた。
透明な体の中に、小さな泡が弾けている。
それがまるで、“心臓”の鼓動みたいだった。
「……なあ、リィム。お前、パン食べられないのに、なんで嬉しそうなんだ?」
《わかんない。でも、みんなが笑ってると、ここが あつくなる。》
「“ここ”?」
《ユウトの となり。》
俺は思わず笑って、空を見上げた。
二つの月の間に、風車の羽がゆっくり回っている。
その下で、子どもたちが笑い、ミラが歌い、ジルドが顔をほころばせる。
パンの香りが街を包み込む。
たったひとつの“焼きたての匂い”が、砂の街に“朝”を連れてきた。
《記録完了。パン=幸福の起動条件。》
「……いいね、それ。世界修理に追加しとけ。」
《了解。修理項目に“しあわせ”を登録。》
リィムが光を放つ。
その色は、砂漠の夜明けよりも柔らかく――どこか少女の笑顔に似ていた。




