第30話「沈黙の更新」
――砂の町、バル=アルド。
勇者領の使節団が来てから、三日が経った。
驚くほど穏やかな三日間だった。
最初こそ、住民たちはエレナを警戒していた。
“神の使い”だ。
彼女の白銀の髪を見ただけで、身を固くした者もいた。
けど――。
「うわぁ……冷たい! これが氷ってやつか!?」
子どもの笑い声が、広場に響く。
リィムが小さな光を弾ませて、水の粒を冷却してみせた。
エレナはその光景を見守りながら、微笑んでいた。
「あなたのスライム……本当に不思議ですね。」
「まあな。俺の相棒で、時々ツッコミ役。」
《訂正:時々ではなく常時。/主の発言精度:低下中。》
「ほら、こういうとこ。」
エレナが口元に笑みを浮かべた。
神殿の副官っていう堅苦しい肩書きに似合わず、意外と柔らかい表情だ。
町の人たちは、そんな彼女を見て少しずつ距離を詰めていく。
パンを分けてくれたり、修理した道具を渡してくれたり。
“異国の客人”から、“一緒に働く人”へ。
バル=アルドの空気は、人を溶かす。
昼下がり。
俺とエレナは、町の外れの風車小屋を点検していた。
リィムがくるくると回転軸をスキャンして、異常値を浮かべる。
《摩耗率:二三%。/推奨:オイル塗布+冷却。》
「オイル……勇者領では聖油って呼ばれてるやつか?」
「ええ。神殿では儀式用ですが、実際はただの潤滑油です。」
「そっちも案外現実的なんだな。」
エレナが笑う。
その笑みが、妙にあたたかかった。
「……あなたの町は、静かですね。」
「いい意味で?」
「ええ。
勇者領では、鐘が鳴るたびに人が祈ります。
でも、ここでは――笑い声が鐘の音みたいに響く。」
彼女は少しだけ目を伏せる。
風の中で髪が揺れた。
その表情を、俺は何も言わずに見ていた。
《主の視線滞在時間:三・八秒。/タグ:関心。》
「……うるさい、リィム。」
《黙ります。/ただし記録は削除不能。》
「お前、ログ残すなっての。」
そんな軽口を交わしていた、その時。
リィムの光が一瞬、揺れた。
《警告:外部通信波検出。/発信源:勇者領側信号塔。/内容:不明。》
「……またか。」
ここ数日、断片的な“信号の揺らぎ”が観測されていた。
神の沈黙が、どこかで動いている――そんな嫌な予感。
《通信波形、既知パターンに類似。/神託網・再接続試行の可能性。》
「再接続……つまり、神が沈黙を解除しようとしてる?」
《肯定。/ただし確証は五八%。》
「……まずいな。」
エレナは不思議そうにこちらを見た。
「何か、ありましたか?」
「いや――大したことじゃない。リィムの誤検知かも。」
そう答えたけど、心の奥はざわついていた。
あの“沈黙”が終わるとき、何が起こるのか。
俺にも、まだ分からない。
◇
その夜。
エレナの宿舎。
彼女は机に座り、報告書を記していた。
羊皮紙の上で、ペンの音が響く。
“神の加護なき国、安定。住民、生存を望み、笑いを持つ。
理は静かに機能し、神託の代替となりうる可能性あり――”
その手が、ふと止まった。
机の上に、小さな光が浮かんでいた。
リィムのホログラムだ。
「あなた……どうやってここに?」
《宿舎内の魔導波を介して通信中。/主の許可は取ってません。》
「無断通信、ですか。」
《はい。/ただ、あなたと話す必要があると判断しました。》
エレナは微笑んだ。
「……あなたの“主”に似てますね。」
《否定。/主はもう少し、人間的。》
「そうかもしれません。」
リィムの光が淡く揺れる。
《質問:あなたは“神の理”と“人の理”、どちらを優先しますか。》
「……難しい質問ですね。」
《回答が必要です。》
エレナは少し黙って、静かに言った。
「昔は、神の理だと思っていました。
でも今は――人が笑う理を、信じたいです。」
《記録。/感情波形:誠実。/主への共鳴値:上昇。》
「……あなたたち、本当に“神の観測”に似ていますね。」
《違います。/これは“更新”です。/沈黙を、破らないための観測。》
その言葉に、エレナの目が細くなる。
“沈黙”――彼女も、それを恐れていた。
その瞬間、机の上の通信端末が光った。
白い紋章――勇者領からの信号。
彼女の背筋が、わずかに強張る。
端末が開き、電子的な声が響く。
《沈黙を解除します/次期勇者代理・エレナ・グランツに命ず/放流者を回収せよ》
光が、部屋を白く染めた。
リィムのホログラムが一瞬、ノイズを走らせる。
《……命令検出。/危険度:高。/対象=主。》
エレナは唇を噛んだ。
「……神は、また命じるのですね。」
その声は震えていた。怒りか、哀しみか、判別できない。
《質問:命令に従いますか。》
「分かりません。
でも――放流者が何を壊したのか、私は自分の目で確かめたい。」
リィムの光が淡く揺れた。
まるで、“理解”という言葉を形にしたように。
《了解。/あなたを、観測します。/沈黙が更新される、その時まで。》
◇
夜明け前。
俺は屋根の上で、微弱な光を見ていた。
東の空に、かすかに走る白い線。
リィムが低く呟く。
《検出:神託網、部分再起動。/沈黙の解除進行率=一二%。》
「来るか……。」
風が、砂を巻き上げた。
まだ誰も知らない――“次の更新”の音。
けれどその中心には、確かに“人の息づかい”があった。
俺たちは、まだ生きている。
だから、直し続ける。
たとえ神が再び沈黙を破ろうとしても。




