第29話「協定の座」
――朝の砂漠は、音が柔らかい。
太陽が岩壁を撫で、風がまだ熱を持たない。
その静けさの中で、バル=アルドの広場に長い机が設けられた。
布を張った簡易の天幕、木製の椅子。
町にある最上の“会議室”だ。
「緊張してる?」
ミラが小声で言った。
俺は肩をすくめる。
「まあな。国同士の交渉なんて、人生初だ。」
《主の心拍:上昇中。/推定感情:緊張+期待。/提案:深呼吸。》
「リィム、そんなログ取らなくていい。」
スライムが小さく震えた。
透明な体が太陽を反射して、まるで光の玉みたいだった。
彼、あるいは彼女の姿が少しでも見えると、緊張がほんの少し和らぐ。
机の向こうには、エレナと数名の随行者。
勇者領の紋章を刻んだ外套は砂漠の光に眩しい。
その隣には、ノアとジルドが座る。
ミラは俺のすぐそばで腕を組んでいた。
彼女の表情はいつものように率直で、守る気満々といったところだ。
リィムが宙に青いパネルを浮かべた。
《会議モード起動。/議題:バル=アルド=勇者領間の相互承認協定。》
エレナが立ち上がる。
声は落ち着いていた。
「まず――私は、あなた方を“異端”とは見なしていません。
ただ、神の理から外れた存在として、危険視されているのは確かです。
この街が今後も存続できるか、それを見極めたい。」
「いいっすね。じゃあこちらも条件をひとつ。」
「条件?」
「はい。――“神の加護がなくても生きられる”って、証明させてください。
俺たちは信仰を否定する気はない。ただ、命の管理権を返してほしいだけなんです。」
その言葉に、エレナの瞳がわずかに細められた。
彼女は椅子に腰を下ろし、静かに頷いた。
「理屈は理解しました。
ですが……神が定めた秩序を無視することは、同時に世界を危うくすることでもあります。
あなたは“修理屋”だと名乗りましたね。
修理する者が、壊す側になってはいけません。」
ノアが口を開く。
「神は完璧ではない。
それを受け入れるのも信仰だと、私は思います。」
その声は優しく、けれど芯があった。
エレナは彼女をじっと見た。
「……ノア・フェルディナ。あなたはまだ祈るのですか?」
「ええ。祈ります。
でも、その祈りは――目の前にいる“生きている人”に向けて。」
沈黙。
机の上の風が止まったように感じた。
その静寂を、ミラが破る。
「難しい話は置いといてさ。
要は“こっちは生きる”“そっちは見に来た”ってことでしょ?
なら、一緒に見ればいいじゃない。」
ミラは胸を張る。
真っ直ぐな瞳。
理屈より先に感情で動くその姿は、どこまでもこの街らしかった。
エレナは目を細めて、微笑した。
「……あなた、面白い人ですね。」
「ありがと。でも私は真剣。
神様がどうとかより、“今、生きてる人たち”が笑えるかどうかで判断してる。」
ジルドが笑う。
「そうだ。ここじゃ“笑顔”が一番の信仰だ。
あんたも見ていけ。砂だらけの希望の町をな。」
リィムが青い光を広げた。
町の水路、畑、工房、子どもたちの笑顔。
映像が空中に流れる。
まるで“神の視点”が地上に降りたようだった。
《共有表示:環境安定率七六%→七八%上昇中。/幸福指数:推定+十二%。》
勇者領の随行者たちは息をのむ。
「……こんな高度な魔導演算、神殿でも不可能だ……!」
エレナの表情が動く。
それは驚きでもあり、敬意でもあった。
「これが――あなたの“理”ですか。」
「そう。俺の〈観測〉と、リィムの〈補助演算〉。
神の理を模倣してるだけの、人間製のシステムです。」
「模倣……。けれど、恐ろしいほど正確だ。」
「それでも、完璧じゃない。
だからこそ、俺たちは一緒に“生きながら修理する”。
――神様みたいに、沈黙しないで。」
その言葉に、エレナが目を伏せた。
風が、天幕をゆっくりと揺らす。
やがて、彼女は口を開いた。
「……いいでしょう。
私たちはここに暫定的に滞在し、観測を続けます。
あなた方の“理”が神の敵ではなく、人の希望であるかどうか――確かめたい。」
《記録更新:交渉結果→協定仮承認。/滞在期間=未定。/関係タグ:“観測同盟”。》
「……よし。じゃあ、契約成立ってことで。」
悠人が手を差し出す。
エレナはためらい、そしてその手を取った。
指先が触れた瞬間、リィムの光がほのかに強くなる。
《共鳴波検出。/感情タグ:共感+緊張。》
その瞬間、何かが確かに繋がった。
理でも信仰でもない、“人の意志”という名の回路が。
◇
夕暮れ。
エレナは宿舎の屋根で、町の灯を眺めていた。
どこからか焼いたパンの匂いがする。
遠くで子どもたちが笑っていた。
風の中に、微かな電子音。
――リィムの観測ログ。
《観測データ送信。対象:エレナ。/内容:主の発話“理より人”の記録。》
エレナは静かに笑った。
「……あなたたち、本当に“神を模倣してる”のね。」
《否定。/模倣ではなく、更新。/神より、少しだけ人間寄りの理。》
「人間寄り……か。
――それ、悪くない言葉ですね。」
砂の夜空に二つの月。
その光が、彼女の銀髪を優しく照らしていた。




