第27話「勇者領の影」
――金色の空。
祈りの粒子が風に乗って舞い上がる。
勇者領の首都〈セレオス〉は、まるで神の心臓の中にあるような街だった。
白亜の塔が幾重にもそびえ、街全体が“祈り”を燃料に動いている。
歩くたび、石畳が微かに発光し、頭上を金の光糸が流れていく。
その一本一本が、神託網――世界を貫く信仰回線だ。
「……また異常値か。」
中央塔〈神託塔〉の制御室。
十数名の技術官が並ぶ光のホールで、次々と赤いウィンドウが立ち上がっていた。
《異端フラグ:未消化。/上位命令:不承認。/神託回線:逆流検知。》
ざわめきが広がる。
若い技官が震える声で報告を上げた。
「……上位命令を、拒絶しました。排除命令が“跳ね返されて”います!」
「神託命令が……拒絶だと?」
「そんなこと、今まで一度も――」
ざわめきが止む。
床の中心、円形の光陣が展開し、そこに一人の女が歩み出てきた。
銀の鎧を纏い、白いマントを肩にかける。
背筋はまっすぐ、瞳は冷たい水晶のよう。
勇者の副官にして、〈神託騎士団〉第二隊長――エレナ・グランツ。
「報告を。何が起きているの?」
「エレナ隊長! 排除対象《観測体リィム》、排除不能! 神託網の一部が遮断されています!」
エレナは無言で歩み寄り、光端末を手に取った。
淡く浮かび上がる信号。
そこに記されていたのは、見慣れないタグだった。
《排除フラグ:無効化。/修正実行者:風間悠人。》
わずかに眉が動く。
「……風間、悠人。放流者のひとり、ね。」
室内の祈祷官たちがざわめく。
「放流者? 神の召喚から漏れた、“不完全データ”のことですか?」
「そんな者が、上位命令を無効化したと……?」
「あり得ません! 神の言葉を、誰が覆せるというのです!」
エレナは静かに息を吐いた。
――その瞬間、天井の聖印が光を放つ。
空気が変わり、重力が一瞬だけ“神の方向”に傾く。
光の柱が制御室の中央に降り立ち、
そこから、白い影が現れた。
《代行使エリュシオン》――神の代理存在。
姿は人、声は光。
表情がなく、言葉が直接脳に響く。
《報告を聞いた。観測体リィム――神の断片、コード名G-Λ-RM。
放流者の介入により、秩序を逸脱。》
声が響くだけで、空気が震えた。
祈祷官たちは一斉に膝をつく。
エレナだけが立ち続け、まっすぐにその光を見据えた。
「……命令を、お願いします。」
《勇者領第七監査局に告ぐ。
観測体リィムを封印せよ。
放流者風間悠人を拘束し、バル=アルドを“神の管理下”に戻す。》
命令は、絶対だった。
だが、エレナの眉がわずかに揺れる。
光の影が消え、静寂が戻る。
彼女はそっと呟いた。
「……勇者様なら、どう言うだろう。」
周囲の空気がはっと凍る。
彼女が口にした“勇者様”――天城颯真。
神が選んだ、唯一の勇者。
けれどその彼は今、辺境遠征の任務中でこの地にはいない。
エレナは目を閉じ、昔の記憶を掘り起こす。
――まだ颯真が、ただの高校生だったころ。
「神の声より、人の涙を信じろ」
そう言って笑った少年の声が、耳の奥で微かに響いた。
「……神の命令が、必ずしも正しいとは限らない。」
彼女は静かに立ち上がり、背を向ける。
従者が恐る恐る尋ねる。
「エレナ隊長……行かれるのですか?」
「神の声が言う“異端”が、本当に異端かどうか。
確かめに行く。それが、私の務め。」
装備棚から、長剣〈セラフォス〉を取り出す。
白刃が反射し、聖印の光を散らす。
その刃には、祈りではなく――決意が映っていた。
◇
出立の朝。
勇者領西門。
金属の街を背にして、砂の風が吹く。
白銀の馬車型機械〈セラトランスポーター〉が静かに駆動音を鳴らす。
背後では副官たちが整列し、報告書を差し出した。
「副隊長、調査隊の編成完了しました! 同行者に“旧勇者候補・レクス・ヴァルド”を追加しております。」
「レクス……? 生きていたのね。」
「はい。彼は“神の沈黙事件”以降、神殿を離脱していましたが、今回の任務に自ら志願を。」
エレナは一瞬だけ思案し、頷いた。
「構わない。彼には“ノア・フェルディナ”という元同僚がいる。
――彼女がどう生きているか、知る必要があるだろう。」
部下が不安げに問う。
「……ですが、相手は神に逆らう者です。
彼らを救うことなど――」
「“救う”なんて思ってない。」
エレナの声が鋭く遮った。
「ただ、確かめる。神の声が本当に“真実”なのかを。」
馬車が動き出す。
白亜の街が遠ざかる。
彼女は振り返らず、ただ砂漠の地平を見据えた。
その視界の端で、塔の頂が一瞬だけ明滅した。
神託塔が再びノイズを発していた。
《未知信号検出。発信源:砂の町バル=アルド。タグ:“修正完了”。》
通信官が叫ぶ。
「再び同じ信号です! 内容は――」
スピーカーから、わずかな音声が流れる。
ノイズ混じりの声。
けれど、それは確かに“人の言葉”だった。
『……仕様変更完了ってとこだな。』
エレナは、わずかに笑った。
その笑みは氷のように静かで、けれどほんの少しだけ温かかった。
「――神に逆らう修理屋、ね。
どんな顔で、“世界を直してる”のかしら。」
白銀の髪が、朝の光を受けて揺れる。
彼女の瞳はもう、迷っていなかった。
《観測ログ:勇者領使節団、出発確認。/追跡信号:発信中。》
神の塔の上層で、目に見えない“何か”が起動する。
リィムがまだ知らない“神の本体”が、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。




