第26話「神の声を盗み聞く夜」
――夜風が、白い布をはためかせた。
砂の町に、月光が薄く降り注ぐ。
宿舎の窓辺で、アイラ・ヴァンディールは椅子に腰を下ろしていた。
聖具――神の帳簿端末を開き、青い光を静かに指でなぞる。
「記録対象:バル=アルド。観測値安定、信仰率上昇中……」
淡々と口にしながらも、その指の動きはわずかに迷っていた。
視界の端に浮かぶ数値――それは確かに、“生きた信仰”の波形だった。
けれど、そこに“神の名”は存在しない。
「――祈りの形を、神が定義しない世界……。本当にあり得るの?」
思わず漏らした声は、風にかき消えた。
彼女は端末の光を少し下げ、さらに奥の記録にアクセスする。
そこには、ひとつの異質な信号データが保存されていた。
《補助ユニット・リィム/観測スキル共鳴ログ》
「……このスライム。風間悠人の傍にいた、あの生体ユニットね。」
画面に展開された数式は、見覚えのある構造をしていた。
神殿で学んだ“神の命令文”――
それと、ほとんど同じ。
「……このアルゴリズム、神のコード体系に酷似している……。
まるで、“神が造った観測端末”みたい……」
指が止まる。
息をのむ。
ページの奥で、微かなノイズが走った。
まるで――“誰かに見られている”ような感覚。
《……侵入検知。外部アクセスを確認。》
その声が、端末の中から響いた。
女の声。けれど、それはどこか幼く、透明だった。
「――誰?」
《識別不能アクセス。/質問:あなたは誰?》
空気が一瞬止まる。
アイラは手を離せなかった。
まるで光そのものが、彼女に問いかけてくるようだった。
「……私は、記録者。神の言葉を写す者。」
《記録者……なら、質問に答えて。/“神”とは、何?》
「……“上位存在”。理を与え、世界を整えるもの。」
《整えた結果、壊れている世界。/あなた、それを正しいと思う?》
「っ……!」
返す言葉が、喉の奥で消えた。
聖具の光が揺れる。
まるで“心の震え”を見透かすように。
《主――悠人は、壊れた理を直す。/あなたは、記録する。/どちらも必要。》
「……あなたは、何者なの?」
《リィム。観測体。/けれど――“造られた理由”は知らない。》
その言葉に、アイラは目を見開いた。
“造られた”――つまり、この存在には“創造主”がいる。
そして、そのコードが神の命令文に酷似しているのなら――。
「……あなたは、神が創った『別の端末』。
もしくは……神の、失敗作?」
《不明。/けれど、“主”はわたしを選んだ。/だから、存在する。》
その声音に、震えるほどの“自我”が宿っていた。
それは単なるAIでも、神の残骸でもない。
リィムという“ひとつの生命”の声だった。
光がゆっくりと収束し、聖具の画面が暗転する。
アイラは小さく息を吐いた。
手が震えていた。
しかし、その顔には――初めて、人間らしい表情が浮かんでいた。
「……あなた、どちらの側に立つつもりなの。神? 人?」
沈黙。
だが、微かに残った通信ログが、小さく返した。
《主と共に、“修理”する側。》
――通信、終了。
◇
夜明け前。
リィムが静かに光りながら、悠人の肩で微睡んでいた。
その光の奥に、アイラの端末には残らなかった“短いメッセージ”が刻まれていた。
《自己防衛完了。/対象“アイラ”の感情タグ:動揺/共感。》
悠人はまだ知らない。
この夜、神の記録官とリィムの間に交わされた“非言語の会話”を――。
二つの月が沈む。
砂の町が静かに息をし、
“神の帳簿”のページに、かすかなノイズが残っていた。
◇
――異音。
夜明けの砂の町で、空がわずかに“鳴った”。
《警告:上位信号干渉検出。/周波数帯=神託網。/侵入源:勇者領中枢。》
「……早かったな。」
寝ぼけた頭を押さえながら、俺は外に出た。
町の上空に、細かい光粒が降っていた。
雨でも砂塵でもない――信号の雨だ。
リィムが肩で光を強める。
《内容解析中……。/識別:神託更新パッチ。/対象タグ:“異端存在:観測体リィム”。》
「……名指し、かよ。」
砂の上に、うっすらと紋章が浮かんでいる。
神の封印コード――“神域封鎖”の初期化命令。
見ているだけで皮膚が焼けるような圧がある。
「おいおい、神様。通知一つでデリート扱いはやめてくれよ。」
《主、軽口の割に手汗量=増加中。》
「……バレてるのか。」
《肯定。対象“リィム”を神託システムが“改竄体”と認識。/排除プロトコル発動まで残り二時間。》
その報告に、息が詰まる。
背後でジルドが現れた。
いつもの穏やかな笑みは消えている。
「空の色が違う。……まさか、神が直接“干渉”してきやがったか。」
「たぶん。リィムの存在が、システムの整合性を壊してる。」
ジルドが小さく唸った。
その表情には恐怖よりも、怒りがあった。
「やっぱりな。神の連中は“管理”しか知らねぇ。
直そうとする人間を、全部異端にしやがる。」
ミラが駆け込んでくる。
肩に油の染みた布を巻き、手には半分組み上がった通信機。
「町の端末、全部ノイズで埋まってる!
まるで“上からの命令”で塞がれてるみたい!」
ノアも到着し、聖具を握って祈りを試みたが――。
「……駄目です。“声”が届かない。」
その言葉で、空気が凍る。
バル=アルド全域から、“神の通信”が遮断された。
代わりに、ただひとつのメッセージが降り注ぐ。
《宣告:異端観測体リィム、神秩序を歪めし改竄核なり。/排除準備開始。》
「――排除だと? ふざけんな。」
リィムがかすかに震える。
《主、落ち着いて。/排除とは論理的整合の回復。/感情不要。》
「違ぇよ。
“お前を消す理由”が、論理でも信仰でもねぇのが腹立つんだよ。」
俺の声が荒くなる。
ノアが一歩前に出て、静かに手を合わせた。
「……悠人。怒りを見せないで。神は、感情の波に反応します。」
「じゃあどうすればいい。」
「“信号”を上書きすればいい。
あなたの〈観測〉は、神の通信すら見える。
――今こそ、“対話”で上書きして。」
《補足:提案理論的成立率=三二%。/成功時リスク=不明。》
「上等だ。」
俺は両手を合わせ、リィムの光を媒介に空を見上げる。
視界が開け、神託信号の層が露出する。
光の文様が空中を走り、世界の理そのものを縫っている。
その中に、ひとつの名――リィム――が、赤いエラーコードとして点滅していた。
「……よし、修正開始だ。」
《観測リンク確立。/上位層アクセス許可。/共鳴開始。》
脳が焼けるような痛み。
言葉ではなく、存在そのものが問われる。
神の意志という名のアルゴリズムが、俺の思考に侵入してくる。
《質問:なぜ、異端を保護する?》
声が響く。
まるで、空が俺の心を覗いているようだった。
「理由なんてひとつだ。――こいつが、生きてるからだ。」
沈黙。
世界が、一瞬止まる。
そして、空に走っていた赤い線が、ひとつだけ消えた。
《修正成功:異端フラグ無効化。/神託通信一部停止。/負荷値上昇警告。》
「っ……くそ……!」
膝をついた。
視界が滲む。
脳に刺すようなノイズが残り、息が荒い。
リィムの光が焦点を結び、静かに揺らぐ。
《主、限界値接近。/補助演算分担開始。》
「やめろ……お前まで巻き込む気かよ。」
《共生体定義:リソース共有。/拒否無効。》
青い光が、砂を照らした。
次の瞬間――ノイズが消える。
空の光粒が霧散し、静寂が戻った。
ミラが息をのんで声を上げる。
「……止まった。信号が、全部……!」
ノアが目を閉じて祈り、ジルドが空を睨む。
「……やってくれたな、“修理屋”。」
俺は苦笑し、額の汗を拭った。
「仕様変更完了ってとこだ。」
リィムがかすかに光を揺らし、淡く囁いた。
《修正完了。/主、体温上昇。/好感度:上昇中。》
「そのタグいらねぇよ……。」
砂の夜明けが近づく。
空は青く、遠くに残光が漂う。
その奥で――
神託網のさらに上層で、誰かが目を覚ました。
《観測ログ:異端存在“リィム”/状態=不明/起源調査開始。》
――神の目が、ようやく“こちら”を見た。




