第21話「滴と契約」
――朝の空気は、砂より軽かった。
広場に木の台が三つ。リィムの小型投影器をその上に置く。
今日は“滴”を街に回す初日だ。
《起動確認/ローカルノード三基/同期率九七》
「よし。――画面共有、オン」
《共有モード開始》
青い光が薄く広がり、空中に小さな盤面が三つ浮かぶ。
《水》《灯》《共同作業》のアイコン。
住民が集まってくる。子どもが最前列で背伸びして、ミラは腰に手を当てて満面の笑み。
「さあ諸君! 本日より“滴”発行開始! 働いたらもらえる、暮らしたら使える、街の血液だ!」
「血液って言い方、ちょっと生々しい」
「分かりやすいじゃん!」
笑いが走る。
ジルドは列の最後尾で腕を組み、目だけで頷いた。
ノアは人垣の端で、静かに見守っている。
「順番に“滴カード”を配る。名前と世帯、得意仕事を登録してくれ」
《登録窓口を三列に分岐/待ち時間予測表示》
列が動き出す。
俺は一番右の窓口に立ち、カードを渡しながら最低限の説明を繰り返した。
「水や灯を使う時にこのカードを当てると、少しずつ“滴”が減る。公共の仕事に入れば“滴”が増える。余ったら誰かに渡していい」
「渡していいのか?」
「いい。家族でも、近所でも。――でも“見える形”で渡そう。トラブル防止だ」
《譲渡ログ機能オン》
子どもが両手でカードを掲げてはしゃぐ。
「おれ、もう滴ある?」
「まだない。でも掃除を手伝えば入るぞ」
「やる!」
ミラが身を乗り出す。
「よしキッズ班、広場の砂かきを“共同作業”に登録!」
《共同作業:広場整備/参加者五/完了見込四五分》
わっと歓声。
……ここまでは順調だ。
ただ、制度は人間に触れたところで本当の顔を見せる。
昼前、最初の“引っかかり”が来た。
痩せた老人が、列を抜けて俺の前に立つ。目が怒っている。
「おい、放流者。俺は昨夜、井戸の番をしてた。獣除けにな。だが“作業ログ”に出てこねえ」
「番は誰かに頼まれたか?」
「頼まれちゃいねえ。町のためになると思ってやった」
《非登録作業を検知/付与可否は未定義》
周囲の空気がザラつく。
若者が一人、手を挙げて口を挟んだ。
「すみません親父さん。ログにないと評価できないんすよ。みんなが“やった”と言い張ったら、どうやって見分けるんすか」
正論。けど、冷たい。
老人は唇を噛み、カードを握りしめた。
「俺は嘘は言わねぇ」
静かな重み。
俺は息を吸う。
「……分かった。ルールが足りなかったな」
ミラが不安げに俺を見る。ノアは目を伏せ、祈りかけて――やめた。
俺は台の上にカードを置き、リィムに指示を飛ばす。
「“約束”を作る。二者以上の“相互承認”で価値を記録する枠だ。依頼と引き受け、確認を押したら成立。見える化は必須」
《新機能案を受理/契約モジュール生成/試験運用に移行》
若者が眉をしかめる。
「つまり、誰かと“見てた”“頼んだ”って合意があれば、ログ外でも価値にするってことですか」
「そう。“滴”は作業の証。契約は“信頼の証”だ」
ノアが顔を上げた。
青い瞳が、風に揺れる光をまっすぐ拾う。
「祈りに似ています。――神ではなく、人に向ける祈り」
「うん。“お願いします”“やりました”を同じ場所で結ぶ線だ」
俺は老人に向き直る。
「今夜の番、もう一人つける。二人で“契約”して、朝に互いに確認ボタンを押す。それで付与する。“嘘つけない仕組み”でね」
老人が黙って頷いた。
隣で若者が肩をすくめ、照れ笑いをする。
「なら俺、今夜一緒にやります。眠いけど」
「よろしい。眠い価値を滴に変えよう」
《契約テンプレート生成/夜間井戸警備 二名/一回一滴/相互承認必須》
空気が少し和らぐ。
……が、次の波はすぐ来た。
布のエプロンの女が手を挙げる。腕には赤子。
「保育は? 日中ずっと子を見るのも“作業”です。誰と契約すれば?」
「保育は“街との契約”にする。個人じゃなく、共同体で承認する」
《自治契約モードを追加/評議承認で有効化》
ジルドが口を開く。
「相互契約と自治契約を混ぜるのは難しいが……骨組みは悪くない。責任の所在をはっきりさせろ」
「そうだな。――“誰が預かり誰が返すか”を明示して、公開台帳に紐づける」
《公開台帳リンク/契約一覧ビュー作成》
ミラが勢いよく手を叩く。
「よーし! “交換契約”も作ろう! “配管修理↔温室の野菜ひと束”とか!」
「それは個人間で。――ただし“見える場所”でね」
《掲示板モード起動/交換契約テンプレート十種生成》
広場が一気に賑やかになる。
誰かが誰かに声をかけ、手振りで条件を伝え、青い板にポチポチと印を付ける。
ノアがその光景を見て、胸の前で手を重ねた。
「……繋がっていく」
俺は頷く。
“税”という硬い言葉は、内側から“滴と契約”に溶けていく。
街が自分で自分を支えるための、細いけど確かな毛細血管。
《稼働状況レポート/新規契約三四/自治契約ドラフト一/交換契約一一》
「いいペースだ。――ただ」
俺は声を少しだけ張る。
「契約は“呪い”にもなる。約束を破った人をどう扱うか、同じくらい決めなきゃいけない」
静けさ。
ミラが口を結び、ジルドが目を細める。
ノアは小さく息を呑んだ。
「まずは“やり直しの余地”を。――初回違反は是正、二回目は停止、三回目は評議。あくまで“戻す”ための段階を踏む」
《違反時の段階処理ルール案を提示》
若者が手を挙げる。
「罰するより直す、ってことっすか」
「そう。ここは“修理国家”だ。人も制度も、壊れたら直す」
その言葉に、思わず自分でも笑ってしまう。
広場のあちこちで、くすっと笑いが起きた。
《拍手強度=中/賛同割合七一》
「拍手の数、出さなくていい」
《仕様》
「仕様やめろ」
昼下がり。
掲示板には“配管修理↔パン二つ”“温室見回り↔水一桶”“荷運び↔読み書き教室”が並び始める。
目に見えなかった“助け合い”が、青い文字になって浮かぶ。
価値が形を持つ。
それを、人が覗き込み、笑って選ぶ。
夕方、ひと段落。
ジルドが俺の隣に座り、工具袋で背を支えた。
「……悠人。契約を入れたのは、でかい」
「怖さも入れましたけどね」
「怖さがあるから、約束には意味が出る。破った時のルートを用意しておくのは、修理屋の仕事だ」
「ですね、先輩」
ジルドが鼻で笑う。
「先輩はやめろ。俺はただの修理屋の爺さんだ」
そのやり取りの最中、広場の向こうで小さな歓声。
ミラが走ってくる。
目がきらきらして、汗が額で光る。
「見て見て! “保育自治契約”の初回が成立! 保育班が交代制で回すって! 滴も公平に分けるって!」
「早いな。――よし、掲示板の上段にピン止め」
《自治契約を優先表示》
「それとね、“読み書き契約”も。若者が夜に教室やるって。“滴”は少し、代わりに明日の配管をみんなで手伝うって」
「最高。循環が始まってる」
ノアが静かに近づき、俺の隣で夜の始まりの空を見上げた。
「契約の灯りは……祈りに似ています」
「違いは?」
「祈りは一方的。契約は、手と手で結ぶ。――だから、温かい」
胸の奥で、ゆっくり熱が広がる。
リィムが肩で淡く光った。
《観測:街の騒音指数→快音化/幸福度指標→上昇》
「快音化って何だよ」
《雑音が笑いと会話に置換 という観測》
「……いい観測だ」
その時、外縁の門で口笛。
砂の外から、旅の商人が小荷物を担いで入ってきた。
広場の空気がわずかに緊張する。
商人は掲示板を眺め、目を丸くして笑った。
「へぇ。“滴”の街か。物は……水と、野菜、読み書き教室? 変わった品揃えだな」
「ようこそ。外の通貨は受け取る。こっちの“滴”は街の中だけだ」
「なるほど血液か。……悪くねえ。ただの紙切れより“できたこと”が並んでる方が、信用できる」
商人はぽん、と掲示板を叩いた。
「“読み書き教室↔外の情報”はどうだ? この先の市の噂、持ってる」
「契約しよう」
《外部者向け一回限り契約テンプレート生成》
……うん。
“外との心臓”は別に作る、だったな。
滴は内側の血。外は、顔と顔で繋ぐ。
夜。
広場の灯が順に点く。
井戸のそばでは、老人と若者が並んで座り、欠伸を我慢しながら談笑していた。
“夜間井戸警備 二名/一回一滴”。
その契約の青い枠が、静かに点灯する。
《契約進行中 相互承認待ち》
ミラがパンを抱えて戻ってきて、俺の腕にぎゅっと押し付ける。
「修理長、今日の“賃金パン”。食べよ!」
「語感がやっぱり微妙なんだよ、その呼び方」
「でも似合ってる!」
ノアがくすりと笑い、パンを千切って俺に差し出す。
「契約成立の祝福です」
「……ありがたく」
噛む。
小麦の甘さが、ゆっくり広がる。
街の笑い声が、灯に溶ける。
《ログ:本日の新規契約六九/自治契約二/違反ゼロ/滴流通開始》
「――修理完了、とは言わないぞ、リィム」
《了解。表現修正:修理継続中》
「よろしい」
夜風が、青い掲示板をそっと揺らした。
“税ではなく、信頼でつながる”。
その言葉が、数字の向こうで確かに息をしている。




