第16話「夜を照らす灯」
――夜の砂漠は、静かすぎる。
昼の熱が嘘みたいに消え、空は群青から黒へ沈んでいた。
二つの月が寄り添って浮かび、風が砂丘を撫でていく。
街の明かりは、まだほとんどない。
給水塔のランタンと、焚き火の赤だけが夜をかすかに押し返していた。
《観測:外縁部・北西方向に生命反応。状態:極度衰弱。/残存体温=32度以下。》
「……見間違いじゃないな?」
《否定。/反応安定中。距離=二・二キロ。》
俺は工具袋を肩に掛け、外套を羽織った。
夜風が頬を切るように冷たい。
「リィム、ナビ頼む」
《了解。/ルート描画開始。》
砂の上に淡い青いラインが浮かぶ。
それを追い、俺は砂漠を歩いた。
――やがて、月の光に照らされた岩陰に、
白い影が見えた。
倒れていた。
膝を抱くようにしてうずくまり、外套は裂け、髪は砂に濡れている。
近づくと、微かな呼吸音。
「……おい、聞こえるか?」
少女だった。
けれど、その第一印象は“人間”というより――“祈りの形”だった。
月光を反射して、髪が淡く光っている。
銀でも雪でもない、青の気配を帯びた“聖灰色”。
細い糸のような髪が砂の上に広がり、まるで夜の砂漠に落ちた星屑のようだった。
顔立ちは静かすぎるほど整っていた。
頬の線は滑らかで、まつ毛は長く、閉じられた瞼の下から淡い影が伸びている。
その肌は陶器みたいに白く、冷たく、触れたら壊れてしまいそうだった。
外套の隙間からのぞく布地は、俺の世界では見たことのない織り方だった。
金糸が縫い込まれ、胸元の紋章は微かに光を放っている。
リィムがその模様に反応して、淡い警告を出した。
《解析:信仰系構文/古代神語に準ずる装飾。》
風が吹く。
その瞬間、少女の髪がふわりと舞い、首筋がのぞいた。
薄く刻まれた模様――祈りの痕跡が、光の粒となって消えていく。
冷たい。
それなのに、見ているだけで息をするのを忘れるほど、どこか“神聖”だった。
「……大丈夫か……?」
その問いに、少女の唇が微かに震えた。
かすれた声が、砂の夜に溶けるように流れる。
「……レクシ・オルム……イリス……」
言葉の意味は分からない。
けれど、その響きは――まるで祈りの残響だった。
祈り。
どこかで聞いた響き――いや、リィムが翻訳していたことがある。
《解析中……古代神語。/訳出:“神よ、沈黙を赦します”》
俺は息をのんだ。
「沈黙を……赦す?」
それは“信仰”の残滓。
この世界では、神の名を口にすること自体が嘲笑の対象なのに。
「リィム、体温を保てるように――」
《発熱モード起動。/接触補助開始。》
青い光がスライムの体から広がり、少女の頬を包んだ。
少しだけ血色が戻る。
俺は外套をかけ、そっと抱き上げた。
軽い。
砂と冷気と、祈りだけがまとわりついている。
◇
バル=アルドの修理屋の一角。
簡易ベッドの上で、少女はまだ眠っていた。
焚き火の光が、銀髪をほのかに照らす。
ミラが椅子に腰掛けて、心配そうに覗き込む。
「見つけたって……この子、放流者?」
「違うと思う。……服の材質も、装飾も俺たちのとは違う。」
リィムが光を発した。
《解析結果:旧文明ルミナリア製。/信仰系装束。》
「ルミナリア……?」
《補足:神召喚システムの原初文明。勇者理論の発祥地。》
「つまり、神の時代の生き残りってことか?」
《確率:五四%。ただし異常な時間断層の痕跡あり。》
ミラが難しい顔をした。
「何言ってるか分かんないけど……つまり、過去の人?」
「そうかもしれない。」
俺は眠る少女の手を見た。
冷たい指に、淡い光の痕――祈りのコード。
それが微かに、リィムの光と共鳴した。
《警告:干渉波発生。/信仰コードとの共鳴率=三五%。安定中。》
「リィム、どういうことだ?」
《解析不能。/未知の信号形式。/ただし敵意ナシ。》
「……ならいい。」
ミラが俺を見上げる。
「ねぇ悠人。この子、どうするの?」
「……助けるさ。棄却者だろうが過去の人だろうが、放ってはおけない。」
「やっぱり、そう言うと思った。」
ミラが笑った。
その笑みが、焚き火の明かりで柔らかく揺れた。
◇
翌朝。
少女は目を覚ました。
灰青の瞳。
静かな湖面のように、底が見えない。
目が合った瞬間、かすれた声が漏れた。
「……ここは……聖域では……ないのですか?」
「聖域? 残念だけど、砂漠のど真ん中だ。」
「……神は……いらっしゃらないのですね。」
その声には、失望とも安堵ともつかない響きがあった。
俺は少し考えて、言った。
「神なら、たぶんサーバー落ち中だ。」
「さ、さーばー……?」
《補足:主の比喩表現。“神のシステム障害”を意味。》
「なるほど。翻訳ありがとう。」
少女は目を瞬かせ、俺を見た。
「あなたは……この世界の人ではないのですね。」
「まあな。――俺は、壊れた世界を直してるだけだ。」
沈黙。
そして、かすかな微笑み。
「……あなたは、神を直せる方なのですか?」
「神までは無理だ。でも、水くらいは流せる。」
少女の瞳に、少しだけ光が戻った。
その瞬間、リィムの体が微かに震えた。
《新タグ生成:信頼。/対象:ノア。》
「ノア?」
「……はい。ノア・フェルディナ。かつて……神に仕えた巫女でした。」
その言葉を聞いた瞬間、ジルドが息をのんだ。
「神の巫女、だと……?」
バル=アルドに流れた新しい風が、
やがて――“理”と“祈り”を交差させる嵐へと変わっていく。
俺はその風の中心で、
ふと空を見上げた。
二つの月が、重なって光っていた。
《観測ログ更新:新変数登録。“ノア”/信仰値:高。感情タグ:希望。》
「……おい、リィム。タグが増えるたびに面倒になるんだけど。」
《仕様。削除不可。/観測継続。》
「ほんとに、お前はバグだよ。」
リィムがぷるんと震えた。
その光は、朝日の中でやけに温かかった。




