第15話「代行使エリュシオン」
――聖都ルミナリア。
陽が昇るたびに、神の加護を示す白い光が天蓋を満たす――はずだった。
けれど今朝、その光は濁り、神殿の壁面に走る聖印が一つ、また一つと消えていった。
祈りの鐘が鳴らない。
代わりに、鋭い警報音が天井を震わせていた。
「……報告を繰り返せ! 神託システムに何が起きている!」
「上位命令群が――消えました! 神の声が、届きません!」
祈祷師たちは走り回り、聖布の裾が乱れる。
天井を覆う水晶管が明滅し、女神像の足元に設けられた《神託盤》が異常な速度で点滅していた。
浮かび上がるのは、見たこともない赤文字の羅列。
《Error:命令階層崩壊》
《Error:削除命令=反転処理》
《Error:理の優先順位、更新》
「理の優先……更新?」
その言葉を繰り返した神官の顔から、瞬時に血の気が引いた。
「まさか……“下界”から命令が入ったというのか!?」
誰も信じようとはしなかった。
神から人間へはあっても、人間から神への干渉など――あり得ない。
だが、水晶盤の光は揺るぎない現実を示していた。
そのとき。
大聖堂の扉が、軋みを上げて開いた。
背後から、強い逆光が流れ込み、白い光に縁取られた人影が現れる。
代行使――エリュシオン。
神に仕え、神の意志を伝える唯一の使徒。
「――静まれ。」
たった一言で、喧噪が止む。
その声は静かだったが、響きは鋭く、空気を貫いた。
「神の理にノイズが混入した。だが恐れるな。理は理であり続ける。」
淡々とした口調。
だが、その声にはかすかな“軋み”があった。
まるで、自身の中枢にエラーを抱えた機械が、無理に動こうとしているような。
彼の横顔を見て、祈祷師たちは息を呑む。
いつも無表情な代行使の瞳に、初めて“人間らしいノイズ”が走ったからだ。
その時、青い外套の青年――勇者レオンが一歩進み出た。
「……エリュシオン様。もしや、バル=アルドが――」
「修正された。」
静かな答え。
その瞬間、聖堂を満たしていた白光が揺らいだ。
天井に走る光脈が一瞬、暗転する。
「修正……それは神の御業では?」
「いいや。」
エリュシオンの瞳が淡く瞬き、揺らめくようにノイズを走らせた。
「“人間”によって、理が上書きされた。」
沈黙。
やがて、一人の祈祷師が震える声を上げた。
「そ、そんなはずが……! 神の命令に触れるなど――」
「存在した。」
エリュシオンはその言葉を切るように言い放った。
空気が一瞬で凍りつく。
彼の言葉には、怒りでも嘆きでもない――“確信”があった。
「……風間悠人。」
代行使が、その名をゆっくりと発する。
その声は祈りでも詠唱でもなく、まるで“削除不可能なファイル名”を読み上げるように冷たい。
「放流者。観測者。修理屋。……理の外の存在。」
レオンの拳が震えた。
「やはり……彼が。あの時の放流者が……!」
「彼の行為は、破壊と修復を同時に孕む。
神の理が完全でないとすれば、それを証明したのは彼だ。」
その瞬間、女神像の額に走る光が――ぱきりと音を立てて割れた。
白い粉が降り注ぐ。
聖堂の上空を流れる光脈が赤く染まり、次々に断線していく。
《警告:神託ネットワーク断裂。/本体接続――遮断》
「なっ……!」
祈祷師の一人が叫び、祈りの杖を落とした。
エリュシオンの体が一瞬ふらつく。
レオンが駆け寄る。
「エリュシオン様!」
「問題はない……いや、ある。」
その声が初めて濁った。
そして、彼の瞳に一瞬――“人間の痛み”が走った。
「……神が、沈黙した。」
その言葉が響いた瞬間、聖堂全体の光が消えた。
白い柱も、祈りの炎も、音も、すべてが吸い込まれていく。
祈りの国は、その夜――“神なき世界”となった。
◇
――暗闇の中。
瓦礫の上に寝かされていた俺は、ぼんやりと空を見上げていた。
空気はまだ焦げ臭い。
焼けた砂の匂いと、乾いた血の匂いが混ざっている。
《主、生体信号安定。意識復帰を確認。》
「……おはよう、リィム。」
《主の睡眠時間:二三時間。/過労状態のため、強制休眠を実施。》
「強制って言葉、ほんと便利だよな……。」
体を起こすと、筋肉が一斉に悲鳴を上げた。
腕はまだ痺れている。
意識の底から引きずり上げられるような倦怠感。
近くでは、焚き火の火が小さく揺れていた。
その傍らでミラがうとうとしている。
焦げた布を巻いた腕。土埃まみれの顔。
それでも、彼女は眠りながら微笑んでいた。
俺が動くと、彼女がぱちりと目を開けた。
「……あ、起きた! もうっ、バカ、どんだけ寝てんのよ!」
「二十三時間だって。リィムが強制したらしい。」
「スライムのくせに医者ぶりやがって……でも、ありがと。」
ミラは焚き火の明かりに照らされながら、ゆっくり笑った。
頬にまだ煤が残っているのに、その笑顔はあまりに綺麗で。
胸の奥に、何か熱いものがこみ上げた。
「みんな、生きてる。
あんたが直した町で、もう一度パンを焼いてる。
……匂い、してるでしょ?」
確かに、焦げた匂いの中に混じって、懐かしい小麦の香りが漂っていた。
「……そっか。いい匂いだ。」
息を吐きながら笑うと、リィムの体が小さく光った。
《追加報告:神域信号の観測、途絶。/神の干渉、停止中。》
「……神の沈黙か。」
《肯定。/主の行動により、神託系統の再起動不能。》
「つまり、俺たちの勝ちだな。」
《定義による。/ただし、“戦いの始まり”とも言える。》
「上等だ。」
焚き火の音に重ねて、低く呟いた。
痛みも、疲れも、まだ残っている。
でも――それが、生きてる証だ。
「……修理屋は、神様が黙っても働くんだよ。」
《了解。/次の修理対象を探索中。》
風が吹いた。
砂を撫でて、夜明けの匂いが流れ込む。
リィムの光が肩に落ち、ほんの一瞬、温もりのように感じた。
沈黙の神殿。
そして、目覚めた修理屋。
この世界の“再構築”は、ここから始まる。




