閉幕
「────」
覚醒。ゆっくりと心臓が脈打ち、巡り始めた血の匂いに痺れた視界が鮮明さを取り戻す。地に揺蕩い充満した濃厚な花の匂いには思わず咳き込みながら、覚束ない手で床板を持ち上げた私はどうにか重力に逆らい深い吐息と共に重い背を起こした。
「う……」
こめかみに走る酷い頭痛に堪らず呻き声が漏れ出て、その場にへたり込み頭を押さえままうっすらと開いた瞼の隙間から部屋を窺う。何……汚い、床にゴミがたくさん転がっている。片さないと……部屋が暗い。今は何時?
「え……」
刻み続ける時計の針にふと視線を上げて、そのまま思わず子供のように口を呆けた。私が起きていた頃はまだ昼だったのに……レース越しに差し込む月明かりが宵闇を指している。ゆらゆらと揺らめく水面が私の喪失した時間を嘲笑っている。
「ちょっと……無理しすぎたかしら。食事は、ちゃんと摂っていたのに……」
膝に手をつき、ゆっくりと立ち上がるその時間に合わせて周囲が活動を始める。まずは部屋を片付けないと……窓から離れるほど濃くなる闇にキッチンを振り向いて、────そこで。ようやく異変に気がついた。
何も指示を出していなかった。本来ならばそばにいるはずのあの子が、いない。
「……優?」
踏み出した足の裏が異物を踏み締め、もう一度部屋を見渡すと体温のないリビングを出て暗闇へと向かう。私たちを残して過ごす室内では、縊れ落ちた百合の花が月明かりを寂しく返していた。
「優? どこにいるの? かくれんぼはもう止めてちょうだい」
まるで魚みたいに。呼吸がうまくできない。喘ぐように声を上げながら胸元をきつく握りしめ手すりを掴むと二階に続く廊下を見上げるも、まるで今にも何かが飛び降りてきそうな闇の深さと静寂が恐ろしくなってすぐに視線を逸らした。
後ずさった白い靴下が背後からの仄かな光に照らされている。ぱっと振り返るなり突き出した腕で玄関の扉を押して、────ああ、まるで生きた心地がしなかった。
「そう、」
ぼんやりと浮かぶ暗い地面に一際大きな足跡が見える。それは私から逃げるウサギの足跡。私を誘う深淵への道標。そう、鬼ごっこなのね。
「時間がなかったの?」
ひんやりとした水の中、屋根の上の人形が屋敷から離れる私の姿をじっと見つめている。あなたも見なかったのね、あの子が逃げるところは。
月光が綺麗で辺りは酷く静かなはずなのに、肥大する頭の中は酷くごちゃごちゃして吐き気がするほど煩かった。心音に邪魔をされて呼吸の音さえうまく聞き取れない、耳鳴りと複数人からなる誰かの囁きに私自身の思考が消えてしまいそうになる。いや! いっそ何も聞こえなくなってしまえばいい。目の前のもの以外、私以外何も、
「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ」
虚ろな呟きが心臓と肺を冷やす。柔肌を引き止めるイバラの枷。踏みしめて尚湿る虚の中に落ちる体は浮遊感で、草木を掻き分ける私はリスと黄金虫のままにただそう暗闇を征く。何故? 息が整わない。気持ちが悪い。吐いてしまいそう。
見えていたはずの足跡が見えなくなり、遂にその場で膝に手をついた私は意味もなく叫び声を上げると辺りの茂みへと力任せに腕を叩きつけた。折れた枝が刺さり、途端走った激痛に心臓が萎縮して咄嗟の行動をさっそく後悔する。あああ私はいつもそう私はいつだってそう! いつも情けない、一つの痛みだって知りたくない、報われない少女のままの私は救いのないメアリィ・スー────。
「あれ?」
どくどくと温かな血潮を流す腕を大事に抱えながら、視界にひょこりと顔を出した新たな痕跡に目を見張り恐る恐る上げた足で邪魔な草木を踏み潰す。暗くてよく分からなかったけれど、この辺りは狩場の一つだわ。足跡が見える、血の跡、私以外の生きたものの証────「あっ」
糸が切れている。木の根元に横たわり無惨にも引き裂かれた布を身に纏いながら、頭部に二本の風見鶏を生やして項垂れる人形がひとつ。慌てて駆け寄りその頭を抱えると、乾いた赤黒いだけの体液を張り付けた白い頬は硬く、半開きになった目と口は虚ろでもう二度と私を見ることはなかった。
「優?」
ハンカチで顔を拭う。けれど、こびりついた赤いペンキは取れない。ああ、白くなってしまったから、塗られてしまったんだわ。だってこんなにも雪のよう。目も、首も、唇も。
「優、帰りましょう。優、返事をしてちょうだい。私の言うことが聞けないの?」
肩を揺さぶられ、ぐらりと撓んだ首はまるで骨がないように折れて私から視線を逸らした。人形。ねえ、これで満足なの、アリス? いいえ違うわ、私が欲しかったのは動く人形。自律人形。これじゃあいつもと同じじゃない、みんなと同じ……
「……みんなと同じになりたかったの?」
それでも優は答えない。細くずっしりと重たい無抵抗なその体を引き寄せると、私は夜の狩場から一つの獲物を連れ帰った。
これで全ての人形は揃った。明日からはまたいつも通りの毎日が始まる、いつも通り、人形たちと暮らす楽しい毎日が────。
「────おはよう、みんな。今日もいい天気ね」
心地のいい陽光を部屋に広げ、カーテンをリボンで留めた私はそう微笑みながら振り返る。朝食、洗濯、換気に、それから掃除。忙しなく部屋を出ていく人形たちにぽつりと取り残されたうちの一人、その滑らかな頬を手のひらで包むと鼻先を上げ、ほんのりと開いたままの唇に口付けた。睫毛が触れあうほどの距離、にも関わらず焦れったくも視線は交わらない。頬に垂れた髪を耳にかけ、額を合わせて私は密かに囁きかける。
「おはよう、優。今日は何をしましょうか。でも、まずは……そうね、朝食を摂らないと。時間はたっぷりあるんだもの、ね?」
膝の上に揃えられた柔らかな指先を絡め、髪を掻き分けた傷一つない額にも唇を落としてから優を抱き上げると、私たちは鼻歌混じりに一階のリビングへと向かう。
要望に応えられないのは残念だけど、他の人形たちと同じにはなれないわ。だって貴方は特別なんだもの。掃除、洗濯、炊事、雑用、戦闘、その他諸々。中でも貴方は、この家の中でしかその役目を果たさない代わりに唯一の特別を担っている。
「私を受け入れる役割を自ら選んでくれたのね」
中からじゅわりとシロップの染み出るパンケーキにフォークを沈めその甘い果肉を頬張りながら、正面に座した優の姿を見つめる。人形にも役割がある、当然のことだわ、一人として必要のない人形はいない。そして優はその役割を乗り変えたというだけのこと。
心配しなくていいわ、役者の数は減りもすれば増えもするのだから。貴方が担っていた役目はいずれ他の人形が請け負うでしょう。それより今は貴方がここにいること、それだけが全て。
物語において必要な要素はいろいろあるわよね、しかしその中でも最も尊くて激しく燃え上がるような熱情を伴う痛々しいもの、即ちそれは、愛。貴方が私の愛を受け入れてくれる分、それに応えて私も貴方に愛を与える。愛の受容もそれすなわち愛情表現の一種でしょう? 人形は私を裏切らない。貴方は、決して私の愛を否定したりなんかしない。
身を乗り出し、胸元のリボンを紅茶に浸しながら伸ばした手で貴方の頬に触れる。こうして私たちは一つになる。
「愛してるわ、優」
心から。舞台の上の私たちに、観客たちはぱちぱちと手を叩いて祝福してくれた。