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<人形>  作者: c.monkey
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囚われの道化

 幻想郷のとある一角、陰気な瘴気渦巻く魔法の森の中腹にはそれぞれ二軒の家屋が建っている。その一方である魔法店へかつては足繁く通っていた一人の少年の姿を見かけることもあったが、彼はある日を境にぱたりとその消息を絶った。囁きあう妖精たちの独り言曰く、「少年は人形にされたのだ」と。

 ────カチ、カチ、カチ、カチ。静寂を許さず響き渡る無機質な秒針の残酷さに、手持ち無沙汰になってしまった両手を半ば空に浮かせたまま唇を震わせた少年が、無数の花弁に埋もれてぴくりとも動かず倒れ込んだ少女へ向けて見開いた瞳を静かに瞬かせる。

 細く繊細な小麦色の髪を締めつける赤いヘアバンド、生の名残さえ感じさせず無抵抗に地へと項垂れた華奢な手足。硬い木板に打ちつけられた骨の異音は未だ鈍く鼓膜の奥へと反響を残し、今やその流動をぴたりと止めた室内で唯一意志を持った少年は後ずさる。今この場において心臓に鼓動を起こし凍りついた時の静寂を破っているのは、端正に作り込まれたエプロンドレスを身に纏う黒髪の少年ただ一人であった。

「アリス……?」

 錯乱した気迫を恐れ竦めた肩から伸びた両手でやんわりと耳を押さえながら微かにその名を呼ぶ少年、柊木優。しかしながら倒れ込んだアリスが尚も微動だにもせず眠っているその様子を認めると、起伏すらない胸の鼓動を確認することもなく足早に踵を返し、仕事を終えまるで糸が切れたようにして無機質な瞳を投げ打った人形たちを横目に玄関へと駆け出した。

 日に当てられず白いままの皮膚の下には血管が張り巡らされ、そこには確かな血潮が通っている。柔肌は木製などではなく、その内臓は一秒足りとも休むことなく働き続け、限りある生を繋ぐためには食事も睡眠も必須である。彼は精巧な人形などではなかった。彼は、ただ友人に会うために森に通っていただけの一人の人間であったのだ。

「…………」

 逸る心臓を抑え音も立てず開いた隙間から鼻先を突き出すと、いつぶりか実感を伴った念願の外界へ恐々と視線を這わす。そうして木々に囲まれ孤立した周囲に人影がないことを確認した後、傷一つないメリージェーンでようやくざらついた砂利を踏み締めると優は翳り出した陽光に息をつきながら庇のかかる頭上を見上げた。恐らくは脱走者の監視と捕縛を任せられていたのであろう人形は、しかし彼の開いた扉のそばでアリスと同じように地に伏せりその長い髪を波紋のように広げて時間を止めていた。

 二度とは帰らぬ悍ましい悪夢の館を閉ざし、スカートの裾を掴み上げた優は足に纏わりつく布を翻しながら茂みを掻き分けて森に出る。この上ない生を実感し脈打つほど鮮やかな視界では葉の切れ目から覗く木漏れ日や今は遠く奥深い緑でさえもが手のひらと等しい情報量を以て脳を刺激し、僅かな葉擦れの音すらも追手と化して彼を責め立てる。何度も躓き半ば我を失ったような状態となりつつ、それでも息を切らし涙を飲んだ優は一足でも多く屋敷から離れるべくしてただ足を前へと動かし続けた。

 既に両手の指では足りぬ回数の日の出を監獄の中から見送っていながら、しかし現状の全てを理解するだけの情報を持ち得てはいない。唯一彼が把握しているのは、ある日突然面識のない少女に手を掴まれたかと思うと抵抗も意に介されずあれよという間に家へ連れ込まれた挙句、「人形である」ことを命じられ監禁されたという変えようのない事実のみである。

 魔法の森に足を踏み入れること自体彼にとってはさほど珍しいことではなかった。だが、後にも先にも優にとっての魔法使いの友人とはたった一人の人間の少女でしかなく、そこに向けられた意識の中に木陰から彼を見つめていたもう一つの視線は存在すらしていなかった。そうして入れられた横槍により斬り裂かれ打ち破られた“日常”は、彼の心に大きな困惑と衝撃を与えるに充分な代物であったのだ。

 しかしながら────他方彼女にとってはそれこそが当然のことであり、その行いに矛盾や躊躇いはなかった。いや、そのような考えに至るまでもない衝動に突き動かされ、気付けば手中にあった新たな家族を歓迎するために思考の方向性を切り替えてしまっていた。元より優の眼前に叩きつけられたものと、アリスが見つめているものは決して同じ存在ではなかったのだ。

 彼女にとって優は当然のことながら人形であり、そこには所有権が存在し、であるからには自分こそがその所有者であるのだと。玩具に一目惚れをした子供がそれを掴んで持ち去るように、全ての自由と権利を奪われた彼はその手綱をアリスに握られた生活に身を置くことを余儀なくされたのである。

 不本意な拘束に伴い生まれた抵抗は、しかしアリスの目に宿る狂気さえ帯びた光を認めたその瞬間からなりを潜め、言葉を呑んで項垂れた彼の意識を離れていった。対して疑う余地のないアリスは彼女が望むままの像を優に押しつけ、その型に沿うように言動を操ることだけを目指していた。そこに一人の人間としての意思や判断は不要であり、ましてや望まぬ抵抗など雑音以外の何物でもない。彼女が求めていたのはただ、彼女の手を離れてでもその夢の続きを演出する“生きた人形”でしかなかったからだ。

 幕を開けた“日常”のうち、支配者アリスはほんの片時も優から目を離すことを許さず、それは月が高く昇る就寝の時間でさえも例外ではなかった。他の人形たちと同じように並べられただ項垂れて朝を待つだけの間、月明かりの届かぬ暗闇に佇んだ人形のような彼女の視線が絶えず注がれていることを優は知っていたのだ。また人形たちに変化がないことを確かめ続けるその間、彼女はガラス玉の如き瞳を渇きという理由の他に閉じようとはしなかった。

 そして彼が魔女の家に囚われた時と同じく、運命の日は突然に訪れた。癇癪と不調の合間に突拍子もなく差し出された彼女の手に従うまま、ぎこちないワルツに乗せて足を動かしていた────その最中。予備動作もなくふらりと肩に落ち込んできた頭の重さに驚き咄嗟に出した手は、しかし取られることもなく流れ少女の肉は餞の花束へと沈んでいった。糸の切れた人形たちの中に、たった一人自分の足で立つ少年のみが取り残される。人形たちの主人は、その身を操る支えを自らもが失って暫しの休息に意識を閉ざしたのだ。

 しかしながら同時に、それは優にとって最大のチャンスであると言えた。これを逃せばもはや二度と自由に空を仰げる日など来ない程度には、まさに千載一遇とも呼べるまたとない機会だったのだ。

 手足に絡みついた糸を振り払い、元いた限りある自由の場へと戻るため彼はただひたすらに森を駆ける。葉を擦り、枝に阻まれ、強引に引きつけた布が引き裂かれて尚息を荒げた彼の足は止まらなかった。変わり映えのしない木々の先には待ち望んだ解放があるものと信じて疑わなかった。そう、それは────森の中に点在する魔法糸に、一介の人間でしかない彼が気付けるはずもなかったその事実と同等のもので。

 既に最大まで高められていた圧が断ち切られた糸のうねりを合図に解放され、殺意を持った脅威は短い破裂音を立てて空を切る。僅かな異音に気付き、息を切らしながらも前方から視線を逸らした彼の視界に飛び込んだもの、それは────罠にかかった獲物を仕留めんとする狩人の一撃、その白銀の切先だった。

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