真理の初恋と別れ、それを巡る男友達と女友達の心は?
お正月気分もまだ覚めない内にあいつは顔を変え、名前も変えて又やって来た。その名もオミクロンと言うらしい。矢張り年末のコロナの罹患者の減少は夢幻だった。それどころか今度の奴は物凄い感染力で、罹っている人の傍を通っただけで移るとか云うつわものだ、と言う噂!?
学校は冬休みも明けて、又日常の日々が始まる、勿論コロナの影に脅えながらだけど。前はコロナは若い人は罹らない、罹っても大したことないと言われたが、段々月日が経つにつれそうでもない、いや若い者が学校や職場で移って、家庭内に持ち込み広めるんだと、今ではコロナの手下扱いだ。
うーん、まあそうかも知れない、気を付けねば。
そんな折、じっちゃんが病院を代らなければいけないとの報告があった。何と、この世の中、どんな重病人でも3ケ月経つと強制的に転移させられるらしい。腹が立つけど金も力もない身ではこの悪しき制度に従うしかないのだ。ばっちゃんは近くの病院になれば良いと願っていたが、入院している所から指定されたのは、その病院よりもさらに遠い病院だった。
「自動ドアがね、スイッチが入っていなくて手でこじ開けなくちゃいけないのよ。電気代が勿体無いなら、初めから自動にしなければいいのに、非力のわたしや年寄りにはドアの所で座礁してしまうわ。特に北風が強くて、吹きさらしの中で奮闘するのは辛いなんてもんじゃないわ」
入院に当って必要な物を伝えるからと言われて、その病院に行って来たばっちゃんからの電話だ。
「帰りのバス停が見渡した所なかったので病院の人に尋ねると、その人はたちまち顔を曇らせ『あのう、此処は一方通行でして、若し、バスで帰るとなると・・・ズーと前の道を歩いて行かれて、大きな橋がありますから、それを渡ってさらに暫く行けばバス停があります』と言うじゃない。仕方無しに堅くて重いドアを開き、北風の中歩く事15分。やっと見つけたバス停は何も植えてないちっちゃな畑と、傾きかけた小屋だか家がある寂しい場所で誰も居ない、日は傾き始めている。どんどん寒くなっていく。でもバスは来ない。定刻はとっくに過ぎていたけども通る車は関係ない物ばかり。日はスッカリ呉れて、心細くなり、アー、これからはずっとこういう思いをしなくちゃいけないんだと覚悟したわ」
車の運転が出来ない身をこれほど嘆いたことはないとばっちゃんは言った。
始業式の日そうそうに山岡女史に呼び出された。ま、次の演劇の台本のことだろうと一応心積りはしているけど。
彼女から青い本を渡される。?わたしは女史の顔を見る。
「注文の多い料理店、宮沢賢治ですね。これを劇にするんですか、今回は」
「まあね、でもその中には他の童話のような、そうじゃないようなのが幾つか有るわ。それをひっくるめた劇が書けないかしら。どう、無理かしら」
「ひっくるめた物ですか?ふーん、わたしも小さい時、読みましたけど、印象に残ってるのは、山猫の料理店ぐらいですね。ま、でも、もう一度読み直してみます。何かアイデアが浮かぶかも知れません」
「そう、そうしてくれる。あなたの良い様にアレンジしていいからって、何時もそうだけど」
「凄く宮沢賢治から離れてしまうかも知れませんが、覚悟しておいて下さい」
ばっちゃんやじっちゃんのことは酷く気になるけれど、このわたしに何が出来ると言うのか、先ずはこの本を読み直そう。
先ず1回さっと読む。注文の多いレストランはユーモアと皮肉に溢れた物だから、これは台本にしやすいが、・・・うーんわたしは北国の冬を知らない。知らないから、彼やそこに住む人達の感性が良く分かっていないと思う。
もう1回読む。なるほど北国の冬は厳しいけど、彼等はその厳しさを、厳しい故に愛しているんだ。愛してはいるけれど、又悲劇も生まれる。
3回目を読む。仕方が無い、舞台を3つに分けよう。
1、北国の厳しい雪との戦い。
2、原作から少し(大分)離れるけど春から夏に掛けてのホッとする季節。
3、注文の多いレストランをモチーフにした秋の北国。
これを総勢14人で演じる事になる。まあ、今回は余り服装も背景も拘らなくて良いんじゃないかな?いや、雪国は雪国の服装もあれば、小道具だっているかも。甘い考えは止そう。
でも、それは後で考えよう、大道具、小道具、衣装の事までかかわっていられない。
そんな中、ばっちゃんからじっちゃんの転院の知らせが入った。
「そりゃあ酷いもんよ、主治医はまだ成り立てで、なんか頼りなさそうな感じ。代れるもんならわたしが代りたいくらい。今までの病院とは全く違って色んな事でお金を取るの。それで世話を良くしてくれるんなら良いけど、見た限りでは皆イヤイヤながらやってるのよ、あの態度を見れば誰にでも分かるわ」
ばっちゃんはどうやら見てはいけないものを見てしまったらしい。
母がばっちゃんを盛んに慰めなだめている。
しかし、ばっちゃんの悪い予感は的中した。転院から5日目の夜、じっちゃんは亡くなったのだ。
「あの医者は何だ、死因の所に老衰と書いたぞ。そりゃないだろう、あれはわたしより5歳も若いんだ。と言ってやったら、それじゃあ何で入院してたんですかって聞いてきたから、階段から落ちて入院してたんだと教えてやった。そもそも医者でありながら、何で入院してるのか分らないなんて話しがあるか?」
これはじっちゃんの兄さん、わたしの大伯父さんが怒って述べた言葉だ。本来死因を突き止めねばならない人が病人の親戚に尋ねて死因を書くなんて、これで良いのだろうか?大伯父さんならずとも奇怪に思い怒りたくなる発言だ。
じっちゃんの葬式はその後1週間後に執り行われた。外は冷たい北風の吹く日だった。じっちゃんが火葬されている間、ばっちゃんと一緒にその広い葬儀場を見て回った。
火葬されてる人達の写真や年齢が書かれたものが置かれている。
「じっちゃんが早くなくなったって言うけど・・・ほら、あの子は3歳で亡くなったのよ。親御さんは堪らないだろうな」
しみじみとしたばっちゃんの声、それはより辛いであろう人達に思いをはせる事で自分の悲しみ、喪失感を物の数ではないとするばっちゃんらしい思いの声だったのかも知れない。
でもばっちゃんは何時だって前向きだ。お店を休んだのはじっちゃんが亡くなった日と葬式の日だけだった。次ぎの日からニッコリ笑って、それがあたりまえ、否、より一層元気に働きだした。ばっちゃんに関しては、本の少しも心配なしだ。
心配なのは寧ろわたし、わたしの台本作り。山岡女史はわたしなんぞの悲劇には全く意に介していない。わたしのじっちゃん、愛するじっちゃんが亡くなったんだぞ、少しは労わりの言葉をかけてくれても良いだろうに!
「ねえ、構想、まとまったあ。3学期は短いのよ」と来た。
「構想は大体出来上がりつつあります。少し言葉が、わがんねえがら困ってるんだあ」
「あ、東北弁ねえ、わたしも分からないわ。標準語で押し通したら、聞いてる方も分んないだから」
「そ、そうですね。でも、原作の持つ味わいは半減しますよ」
「だったら、そうねえ、所々に入れるなんてどうかしら」
如何にも盗作まがいを推奨(?)する山岡女史の考えそうな案では有る。でも東北出身の知り合いが居ない以上その案に賛成するしかない。演劇を鑑賞する身にも屹度その方が良いかも知れない。
題は「北国 こぼれ話」
第一幕(これは一大悲劇だ)
一面の雪野原。ヒューヒューと唸る風の音
ナレーション
わたし達の暮らす北国では、色んな物をそんなにたあくさん持たなくても、林や野原を吹き抜けるきれいにすきとおった風をたべ、桃色のうつくしい朝の日光をのむこができます
みんなで歌う(松山君の出番だ)
堅雪かんこ、しみ雪しんこ、堅雪かんこ、しみ雪しんこ
ナレーション
わたし達は雪で凍った野原を愛し、そして子供達は歌を歌いながらそこを闊歩するのが大好きなのです
でも時には悲劇も生まれる事もあります。此処は北国ですから・・・
雪女が雪わらし3人を引き連れ姿を現す
雪女
さあさあ、今日は2月の4日だよ。わらし達、愚図愚図するでないよ。しっかり大雪降らすんだよ。ヒューヒュー、ほれもっとしっかり、どんどん降らすんだよ
雪わらし1 (脇に抱えた小籠から雪と見立てた小さく斬った白い紙くずを撒きながら)
ヒューヒュー、もっと積もれえ、もっと積もれえ。今日は2月の4日だよ
雪わらし2 (同じく紙くずを撒きながら)
ヒューヒュー、地面の下の水仙も凍る2月4日、春はまだまだ遠い空の彼方
雪わらし3 (紙くずを撒きながら)
ヒューヒュー、町も地平もみんな白い煙の中に消えていけ、今日は2月の4日だよ
4人は舞台一杯に「ヒューヒュー、今日は2月の4日だよ」と言いながら紙くずを撒きながらぐるぐる回る
雪女
あっ、人が来た。少し隠れて様子を見よう、お前達も隠れて
4人、舞台のすそに隠れる。
男の子が泣きながら右手より現われて、直ぐばったりと倒れる、
ならお(泣きながら)
とうちゃん、とうちゃん。足が痛いよう、足が痛いよう。父ちゃん父ちゃん迎えに来るって言ったのにい。我慢できなぐて家に帰ろうと来たけんど、もう足が冷だぐて歩けねえ。ほんど冷だぐで痛いよう
遠くから「ならお、ならお」と必死で呼ぶ声がする
ならお(大きな声で)
とうちゃーん、とうちゃーん。ここだよー、ここだよー
父親が左手より現われる。きょろきょろ見回し、ならおを発見
「ならおー」と叫びながら雪に嵌りながらも必死で近づく
父親
どうして一郎の家で大人しく待っていられなかったんだ。おめえ道まじがえたんじゃないか、一郎のぢがくの吾一にさっき出合って、おめえが先に帰ったと知らせてくれたんだ。おら、吃驚してここまで探してきただあ
ならお
だってさっきまで雪、降ってながったから。それにとうちゃん、夕方になったら直ぐ迎えにいぐって言ってただ
父親
わがったわがった。しかし酷い雪になっで困ただなあ。馬っこ連れてぐれば良がっだがな、こんなに雪がふがく積もってるとは考えてもみながった。さあとうちゃんがおぶってやるから、もうなぐな
父親、ならおを負ぶおうとする
隠れていた雪女と雪わらしが飛び出してくる
雪女
ひゅーひゅー、今日は2月の4日だよ、地下の水仙もまだまだ凍っている月だよ。ヒューヒュー、さあさあ、お前達雪をたあんと降らせてやるんだよ、ぼやぼやしちゃあいけないよ
雪わらし全員
ヒューヒュー、今日は地下の花もみんな凍る2月の4日、ひゅーひゅー、雪よ降れ降れ
雪女と雪わらしは雪を撒き散らしながら、狂ったように踊る。
父親は後手にならおをかばいつつ雪女達を暫し見つめる
雪女
ひゅーひゅー、おやおや人間か、早く二人とも凍らせておやり。ひゅーひゅーちっとも構いはしないよ
雪わらし達
ひゅーひゅー、遊びは終わりだ。ひゅーひゅー、早く雪の中に眠ってしまえ。ひゅーひゅー、雪の中の方がふかふかよーく眠れるよ
父親
何を言うか、ごのごはおかあがごの世にのごずただいずな一人むすごだ、おらあ絶対にすなせないぞ
父親、立ち上がって雪わらし達を蹴散らし、雪女と向かい合う
雪女
ふん、どんなに威張っても所詮人間、お前なんかイチコロサ。ひゅーひゅー、さあわらし達よ、遠慮は要らないよ、早く早くこやつ達を始末しておくれ、ひゅーひゅー
雪わらし立ち上がり「ひゅーひゅー」と言いながら、雪女と一緒に父親に向かって行く
父親
絶対にならおだけはお前だちの手にわだすもんか
5人の戦いが暫く続く
みんな疲れて、父親はならおの傍に駆け寄り覆いかぶさる。雪女たちは舞台より去っていく
ナレーション
その後も北風は一晩中吹き荒れ、やっと静かになり、寒い寒い朝が明けたのでした。
北風の音は止み、暫し静寂の時左の舞台下より村人の声
村人達
「清作ー、清作ー。ならおー、ならおー」
村人が三人登場 みんな倒れている二人の傍に駆け寄り、降り積もった雪を払いのける
村人1
清作、おい清作、すっがりすろ!
村人2
駄目だあ、清作はもうすっかりちめたくなっでいるだあ
村人3
待ってけろ、ならおの方はまんだ温けえだ
村人1
ほんどだ、ならおはどんやらたすがったみでえだな
村人2
清作が必死で守ったんだ
村人3
清作が命がけで守ったならお、おら達がだいずにそだででゆぐがらな
村人1,2
うんだ、うんだ
暗転
第2幕
遠くに黄緑の牧場、サイロなどが見える
ナレーション
北国にも遅いながらも短い春と夏がやってきます。遠い山々には未だ雪が残り、それが解ける頃には牧場には猫柳も伸び、おきな草、あ、ここいらではうずのしゅげって言うらしいです、その赤紫の花も散って銀色の房に変り、牧草は茂り燕麦が光るのです。勿論青い瞳のような蛍かずらの花も咲いていますし、ひばりだって飛んでいます。あ、四郎とかん子の仲良しきょうだいがやって来ますよ
四郎、かん子
ひばりはピーチク、うずしゅげポッポ。キックキックキック
ひばりはピーチク、うずしゅげポッポ。キックキックキック
狐の子が二人を見つけて傍に寄ってくる
狐、紺三郎
やあ今日は。確かこの間まで堅雪かんこ、凍み雪しんこって歌っていたんだよね
四郎、妹を後ろにかばう
四郎
今はお山の雪もスッカリ無ぐなってしまったからな
紺三郎
そうか、ひばりも舞い上がり、うずのしゅげの花も銀色の房に変ってもう直ぐ飛んで行く季節だもんね四郎
お前、かん子がお嫁に欲しいのか
紺三郎
おらはまだ嫁はいらないよ
四郎
狐こんこん、狐の子、お嫁がいらなきゃ餅やろか
紺三郎
四郎はしんこ、かん子はかんこ、お返しにキビの団子を、おらやろか
後ろにいたかん子が前に出る
かん子
狐こんこん狐の子、狐の団子は兎の糞
紺三郎(笑いながら)
いいえ、決してそんなことはありません。あなた方のような立派な方が兎の糞の団子なんか召し上がるもんですか。わたしらはいままで人を騙すなんてむじつの罪をきせられていたんです
四郎
そいじゃ狐が人をだますなんて嘘なのか?
かん子
狐は人をだまさないの?
紺三郎
嘘ですとも、それも最もひどい嘘です。だまされたという人は大抵お酒に酔ったり、臆病で自分で妄想してしまった人です。面白いですよ、この間の月夜の晩、ジンベエさんは酔っ払って、わたしの家の前で一晩中、うたを歌っていましたよ、本とに夜が明けるまで。それで決まりが悪くて、狐に騙されて一晩中藪の中を歩き回された、なんて言ってるんですから
そこに他の狐たちが3匹、柏の葉っぱの器に団子を盛って現われる
誘われるように皆座る
狐1
さあさあ、わたし達が作った黍団子ですよ
狐2
わたし達が種を撒き、収穫して作りました
狐3
砂糖もかけてありますよ、ささ召し上がれ
四郎とかん子は顔を見合す
かん子
わたし、狐さんを信じるわ
四郎
おらも・・・やっぱり信じるよ
二人は団子を食べる
四郎、かん子
うまい、ほっぺたが落ちそうだ
みんなで大笑い
みんな立ち上がり歌を歌い、輪になって踊る
ひるはカンカン日のあかり
よるはツンツン月明かり
たとえからだをさかれても
狐のこどもはうそ言わない
キック、キックトントン、キックキックトントン
ひるはカンカン日のひかり
よるはツンツン月明かり
たとえこごえて倒れても
狐のこどもはぬすまない
キックキックトントン、キックキックトントン
ひるはカンカン日のひかり
よるはツンツン月明かり
たとえからだがちぎれても
狐のこどもはそねまない
キックキックトントン、キックキックトントン
暗転
背景、秋の木々が立ち並ぶ
ナレーション
楽しかった夏も過ぎて秋が来ます。猟師たちは獣や鳥を撃って家族を養います。この山には鹿や兎、狐、山鳥等多くの生き物たちが住んでいますが、怖い熊はもっと奥の方を住処にしています。
勿論、山猫も沢山居ます。でも一口に山猫と言ってもどんぐりの諍いを収めたりする、気の良い山猫もいれば、チョイ悪な猫もいるのです
猟師、小十郎(大きな犬を連れている)
はー、おらは畑もないし山もない。こうやって毎日獣や鳥を殺して日銭を稼ぐしが、ばっ様を頭に7人の家族を養うてだでがねえんだ。ほんどに因果なしこどだあ。なあ小虎
小虎(しっかり主人の顔を見て
ワン、おらは小十郎さんについていくだ。おらあ小十郎さんを誰よりも好きだし、尊敬してるだ
小十郎
そうかそうか、お前は本とに律儀な奴だ。頼りにしてるがらな。
小虎
ワン、あっちから誰か来るよ。大きな白い犬を連れてる二人連れだ
小十郎
東京から来た二人連れだ。遊びで獣や鳥を撃つんだと言ってるだ。何が罰当たりな事におらあには思えるけんど、熊の出ねえ、鹿が一杯ウロチョロしてるところに案内してくれと頼まれたんだ
小虎
鹿が一杯いるとこは熊も一杯いるとこさあ
白い大きな犬を夫々連れて、鉄砲を担いだ立派な身なりの男が二人現われる
紳士1
やあ、小十郎さんだったかな。で良い場所はありますかな?
紳士2
熊に遭わなくて鹿が一杯居そうなとこ。早く鹿の黄色い横っ腹なんぞにタンタアーんとやって見たいもんだ
紳士1
ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒れるだろうねえ
紳士2
鹿でなくてもいいんだ、鳥でも兎でもなんでもいいから早くタンタアーンと撃ちたいもんだ
小十郎
ここを少し山を分け入りますと兎や山鳥、狐、鹿が居ますだ。たんだみんな警戒心が強いから、十分気をづけねえと直ぐ逃げられてすまいますだよ。ではおらあここで待ってるから、きい付けてな
小虎、2匹の犬に
なあお前たち、初めてのようだが、しっかりご主人様を守るんだよ
2匹の犬
ありがとう、俺達しっかりとご主人を守ろうと心がけます
二人の紳士と犬が左手に去っていく
暗転
右手の方にレストランがある、西洋料理店、山猫軒の看板
紳士1
随分山奥に来たけれど、鳥も獣も一匹もいやがらん
紳士2
なんでもいいから早く撃ち殺したいなあ
紳士1
でもさあ、随分来たぜ。僕はもうそろそろ戻ろうと思う
紳士2
僕も寒くはなったし腹は空いてきたし戻ろうと思う
紳士1
もうクタクタだ。腹はペコペコ、もう歩きたくない
紳士2
獲物はさっきの猟師に分けてもらえば面子もたつ
紳士1
兎でも山鳥、何でも良いよ。あー腹減った
紳士2
お、あそこになんか建物が見える
二人、建物の前に駆け寄る
紳士1、紳士2
レストラン、西洋料理店、山猫軒
紳士1
こんな所にこんな立派なレストランがあるなんて
紳士2
ちょっと不思議だけど何か食事ができるんだろう
紳士1
早く入ろうじゃないか。僕はもう何か食べたくて倒れそうなんだ
そのとき中から声が聞こえる
山猫1
どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません
紳士2
こいつはどうだ、きょう一日なんぎしたしたけれどこんないいこともある。このうちは料理店だけどただでご馳走するんだぜ
紳士1
どうもそうらしい。決してご遠慮はありませんと言うんだから
山猫2
ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします
紳士2
君、僕らは大歓迎されているんだって
二人は「入ろう、入ろう」と言いながら犬を残して右手のドアから入っていく
白犬1
なあ、お前、おかしいと思わないか。こんな山奥にレストランなんて
白犬2
全くおかしいし、怪しい。ちょっと忍び込んで様子を見てみよう
2匹も忍び足でドアを少し開けて、そっと入って行く
暗転
背景は何もなし、舞台上に3つの仕切りがある
紳士1
どうも変な家だ。どうしてこんなに戸が沢山あるんだろう
紳士2
これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなこうさ
山猫1(一番奥の部屋から)
とう軒は注文の多い料理店ですから、どうかそこはご承知ください
紳士1
中々はやってるんだ。こんな山の中でねえ
紳士2
東京の大きな料理店だって大通りにはすくないだろう。こんな辺鄙な所にこそ名店があるんだよ
山猫2
注文は随分多いでしょうが、一々こらえて下さい
紳士1
一体全体、これはどういう意味なんだ
紳士2
うーん、これは注文が多すぎて手間取るけど、そこをこらえて下さい、と言う意味じゃないか
山猫1
お客様方、ここで髪を整え、履物の泥をよおく落としてください
紳士1
これはもっともだ。山の中だと思って、玄関のとこで見くびって、泥を落とすのを忘れていたんだよ
紳士2
作法の厳しい家だ。屹度偉い人たちが、たびたびやって来るんだ
山猫2
鉄砲と玉を籠にお入れください
紳士1
なるほど、鉄砲をもって食事をするという方はない
紳士2
いや、よほど偉い人が始終来てるんだ
山猫1
どうか帽子と外套と靴をおとり下さい
紳士1
どうだ、とるか
紳士2
仕方が無い、とろう。少し寒いが
二人は服と帽子は籠に入れ靴はそのまま脱ぐ
山猫2
ネクタイピン、メガネ、財布、その他金物類、ことに尖ったものは、みんなその箱に入れて下さい
紳士1
何かの料理に電気を使うのかねえ、金気のものは危ないらしい。おや、チャンと鍵まで置いてある
紳士2
ふうん、して見ると勘定はここで払うのだろうか。あ、今日はただでご馳走になるんだっけ
二人はメガネやネクタイピン、財布を外し箱に入れ鍵をかける
山猫達
次のお部屋へどうぞ
紳士達
ヤレヤレこれで、やっと椅子と食い物にありつける
次ぎの部屋へ二人は入って行く
山猫1
目の前の平たいビンに入ってるクリームを顔や手足にすっかり塗って下さい
紳士達コッソリクリームを舐めてみる
紳士1
お腹が空いてるからこのクリームがえらく旨い。でも体にクリームを塗れとはどういうことだ
紳士2
これはね、外が非常に寒いだろう。部屋の中があんまり温かいとひびがきれるから、その予防なんだ
二人は顔や手足にクリームを塗りたくる
山猫2
クリームを良く塗りましたか。耳にも鼻にも忘れずに
紳士1
あ、僕は耳には塗らなかった。ここの主人は実に良く気がつくね
紳士2
僕は鼻だ、でも、鼻にひびがきれるかな。それより早く何か食べたいよ
山猫1
料理はもう直ぐ出来ます。15分とお待たせは致しません。直ぐ食べられます。早くあなたの頭に瓶の中の香水を振り掛けてください
二人、香水の瓶を頭に振り掛けます
紳士1
この香水はへんに酢くさい。どうしたんだろう
紳士2
間違えたんだ。給仕が風邪でも引いて間違えていれたんだ
山猫2
色々注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうか体中に、壷の中の塩をたくさんもみこんでくだい
紳士1
どうもおかしいぜ。沢山の注文というのは向こうがこっちへ注文してるんだよ
紳士2
僕の考えるところでは西洋料理店というのは、来た人に食べさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして食べる家ということなんだ。つ、つ、つまり
紳士1
その、僕らが、うわあ、どうしよう、
紳士2
早く逃げなくちゃー
山猫1
いや、ワザワザご苦労様です。よおく塩をもみこんで、ささ、おなかにお入りください
紳士達、「うわあ」「うわあ」といいながら反対のドアを開けようとするがびくともしない。二人とも泣き出す
山猫2
だめだよ、もう気がついたよ。塩をもみこまないようだよ
山猫1
あいつらがここへ入って来なかったら、それは僕らの責任だぜ
山猫2
そりゃ不味い、ボスが怒るよ。早く呼ぼうよ。お客さん方、早くいらっしゃい。いらしゃい。いらしゃい。お皿も洗ってありますし、葉っぱももうよく塩でもんで置きました。後はあなた方と、葉っぱをうまくとりあわせて、真っ白なお皿にのせるだけです。はやくいらっしゃい
山猫1
へい、いらしゃい、いらしゃい。それともサラダはお嫌いですか。そんならこれから火を起こしてフライにして上げましょうか。ボスがナプキンかけて舌なめずりお客様を待っていられます
山猫2
いらっしゃい、いらしゃい。そんなに泣いては折角のクリームが流れるじゃありませんか。
さらに奥左から声
山猫ボス
未だか、俺様はさっきから腹が空いて、腹が空いてたまらんぞー
山猫1,2
ハ、ハイ、ただいま。じきに持ってまいります。さあ早くいらしゃい
山猫ボス
早くしないと、お前たちを食ってやろうか
最後の扉が開きかかる。
白い犬たちが右手よりドアを蹴散らしながら走ってくる
白犬1,2
ワンワン、ワンワン。お前たちの勝手にはさせないぞ、山猫達目
犬と山猫達の決闘
暗転
元の木の生える背景、風の音、紳士二人がガタガタ震えながら経っている。
白犬2匹が右手より駆け寄ってくる
白犬1,2
二人ともご無事で良かった、良かった、ワンワン
紳士1,2
あ、ありがとう。た、助かったよ。お前たちのお陰だ
左の方から声
小次郎
おーい、おーい。旦那ー、旦那ー。大丈夫かー
紳士1,2
おーい、ここだー。ここだー
小次郎小虎を連れて現れる
小次郎
帰りがあんまり遅いので来てみただよ。でもなあんもなぐでよがたあ。黍団子だけんどたぶっか
紳士1,2
ありがたくいただぐだあ
黍団子を食べ、脱いだものを見につける
小次郎
ここいら気の良い山猫もいるが、中には人を襲う悪い山猫もいるだ。それをゆうのを、はあ、忘れでいただよ。でもまんず無事でよがったよがった
小虎 白犬達に
お前たちが主人を守ったんだな、偉い偉い!わんわん
白犬たち
あなたから言われた通り、二人をしっかり見守っていました。わんわん
小次郎
さあはやぐ、くらぐなる前に山、ぐだるべえ。獲物はおらのを下で分けてやるがらすんぱいいらねえ
紳士たちも犬たちも小次郎の後を付いて左手に去る
幕
アー、疲れた。自分勝手に書ける物なら、こんなに気を使わなくて良いのに、人、増してみんなご存知宮沢賢治、何を隠そうわたしも尊敬する宮沢賢治先生の本を劇にするなんて、気を使わない方がどうかしている。おまけに東北弁など全く知らない身、それを厚かましくも自分勝手に四捨五入して台詞にしてしまう後ろめたさ、御免なさい岩手の人たち。間違っていてもそこは一々目を瞑ってけろや!
今日はどたりと倒れて、さーもう寝よう。
そんなわたしの気苦労を知ってか知らずでか、山岡女史はペラペラ捲る。
あー、こりゃ全然解ちゃいないねえと、思いつつ、彼女の読み終わるのを待つ。
「そうねえ、まあ3つに話を分けたのは良いとしてちょっと話が長すぎるんじゃないの」
「そうは思いましたが、この3つのどれを欠かしても、北国に生きる人の心は伝えられません」
「3学期よ、短い期間に出来るかしら」
「シンデレラの時と違って、それ程背景もコスチュームもそんなにかからないととおもいます。まあ3幕目に少しお金がかかるかなあ。外套とか鉄砲とかに
「うーん、こうしましょう。鉄砲はダンボールでそれなりに作りましょう」
「へっ、ダン、ダンボールで作るんですか」
「あなたのお母上に頼んで、それらしく出来ないかしら」
「母は今、じ、じゃなくて、祖父の死で凄く落ち込んでいます。そんな時にダンボールの鉄砲だなんて、とても頼めません」
「困ったわねえ、・・・まあそれなりに見えれば良いんだから、じゃあ男の子たちにそれらしいのを作らせましょう」
流石、盗作まがいの山岡女史、決断早い。
「そうねえ、外套かあ・・・うーん・・・外套ねえ。解った、借りよう、知り合いに貸衣装屋があるんだ
昔、お世話になったけど、今度も格安で頼んで頼んで、頼み倒そう」
うーむ、山岡女史に頼み倒されて勝つ奴は居ない。
「ついでにおんぼろ猟師の服も借りよう」
「じゃあ、雪女や雪童子の白い服も頼めないですか」
「うーん、雪女の着物のほうは捜せばあると思う。童子の方はそうねえ、上は自前の白いシャツにして、下が問題よね、白い安い布とゴムで何とかならないかしら。これはヤッパリ裁縫部に頼むしかないか。直ぐにお願いしに行くわ。少しでも立派に、少しでも部費を使わないようにするには、あっちこっちに頭を下げて回るしかないわ」
「先生、た、頼もしいですね」
「そう、そうよ。何しろ演劇部の責任者なんだから。所であなたのお母さん、幾ら落ち込んでいるとは言いながら、プロの絵描きでしょう」
「はあ、まあ。そうですが・・」やな予感。
「この第2幕目の背景。遠くに牧場が見えるって書いてあるわね、これ頼めるかしら」
「ええっ、母にですか。勿論画家としての料金いただけるんですよね」
「冗談は言わないで。こんな貧乏劇団に有名画家に払えるお金が何処にあると言うの」
「うーん、母は本当に落ち込んでいるんですよ。みんなで描いたらどうですか、鉄砲みたいに」
「仕方ないわねえ、じゃあ又、美術部に頭を下げるか。そうそう雪わらしやならおは北国独特の雪避けの帽子見たいのを被っているわよね、これはラシャ紙で作れるわ。自分たちで作りましょう」
「3幕の木は幾つか在庫がありますよね。それからドアは矢張りダンボールの力を借りれば何とかなりますでしょう」
やれやれ、どうして部長でもないわたしがこんなに何から何まで首を突っ込まなくちゃいけないんだ。
次は配役だ。今度の劇は殆どの主役は男が占めている。ところが今度入部して来た1年生を入れても総勢6名、後は女がやるしかない。誰にも文句は言わせないぞ!
まずは一幕目だ。ならお(変な名前だ)と清作、これは松山君とあっちゃんにやってもらおう。後は雪女だが、これはやりたがる女性が大勢居るだろう。特に篠原女史にいたってはこの役じゃなくちゃ、やだやだと我儘を言うに決まっている。だがこの冷徹な真理様はバッサリとそれを切り捨てる。
「これは、今度から我々を率いる2年生にやってもらいます。ついでに雪わらしも2年女子に任せましょう。夫々の役は2年に任せます」とね。
次は・・・2幕目ね。思索しているわたしの後ろに人の気配。
「?」後ろを振り向く。
「東村君!」
「ヤア、何考えているの」
「新しい劇の配役を考えているの。みんな良い役やりたいと願っているでしょう。でも3学期は時間がないから、ここはわたしの独断でと云う事に決めたんだけど、中々ね難しいの」
「何やるの?」
「宮沢賢治の『注文の多い料理店』の本に出てくるエピソードを参考にして書き上げた物だけど、呼んでみる?」
山岡女史がパソコンで打って本にしたものだから、汚いわたしの字が見られる訳じゃないから、正々堂々と渡せる。東村君熱心に読んでる。
読んだ後も何か暫く考えていた。
「何か変?」
「いや、とても良く出来ているよ。で、もう配役決めたの?」
「ううん、まだ1幕目しか決めてないわ」
「君が僕に前、言ってただろう、演劇部に入らないかって。あれ、まだ有効?」
吃驚して東村君のエーゲ海の風のような顔を見つめた。
「も、勿論よ。あなたなら何時だって有効よ」
「長く在籍出来るかどうかは分からないけどさ、居る限り精一杯頑張る積りだから、入部して良い?」
「本とに、本とに入部してくれるの、嬉しい。解らない事有ったら何時でも聞いて頂だい。何ならわたしの所まで押しかけて来ても良いわよ」
勢いで言ってしまったけど、後からとんでもない事を言ってしまったと後悔と恥かしさで赤くなってしまった。
早速、山岡女史に報告。
「えっ、あのピカ一の東村君が演劇部に。勉強の方大丈夫なのかしら、親御さんが煩いらしいわよ」
「長く在籍出来るかどうか分らないと本人も言ってました」
女史、少し上を見つめて考えていたが、何を思ったかすくっと立ち上がった。
「ちょっと先生、彼と話してくるわ、彼何処?」
「は、はい、まだ教室の方に居ると思います」
「そうね、彼にわたしの所に来るように伝えて頂だい、急いでと」
何やらただならぬ気配、いぶかしくは感じたが又教室へ。
「どう?山岡先生に報告してきた」
「ええ、でも先生、あなたに話したい事があるんですって。しかも急いで伝えるようにって」
「そう、何だろうね」と彼は言ったが何か思い当たる事があるのか、さほど驚いた様子もなく立ち上がり職員室の方に向かって行った。
暫くすると彼が戻って来た。
「僕さあ、今度の劇の2幕目の紺三郎の役をやるように言われたよ。それから島田さんはかん子をやるようにって、先生がそう言ってた」
「え、先生が配役を・・でも、他に何か言ってなかった?あなたの勉強の事とか」
「まあ、それも少し。でも島田さんが心配するようなことは何も無かったよ」
そうは言われても何か心に引っかかる。しかし日にちが無い演劇の事を考えることが最大重要事項だ。早く他の配役も決めなくちゃあ。
そう2幕目、これはきわめて短い、正しく北国の春と夏を現しているようなエピソード。原文ではこれも冬のエピソードになっているが、真理の中ではうすしゅげのエピソードと併せて、春から夏の物としたかったのだ。重苦しい北国の(住人はそうは思っていないのかも知れないが)空気がぱっと明るく軽くなるのを、冬の後に入れたかったのだ。
紺三郎とかん子は決まった(決められた)後は四郎・・これは2年の上原君にしよう。卑しくも劇の中でわたしの兄になるのだ。彼こそ2年の男子の中では一番男らしく、かっこいい、ピッタリはまり役。他に女狐3匹はわたしと北山さんを除いた1年女子。篠原さんは怒るかも知れないが先生が決めたこと、わたしには責任ない。
さあて次、3幕目。これは喜劇だし、読んだ事のある人も多いだろう。これになめとこ山の猟師、小十郎さんを絡めて見た。その小十郎さんには残りの2年生町田君にお願いしたい。如何にも素朴、垢抜けない要望といいドンピシャリといったところだ。さあて、この舞台の成功はこの二人にかかっていると言っても良い位重要な役、紳士二人。これは南都君岸部君の一年コンビにやって貰おう。思いっきり顔にクリームを塗りたくってくれたまえ。残りは犬と山猫だ。小虎は・・ここはわたしがやろう。白犬2匹は1年の林さんと村中さん。最後の山猫、親分には声だけの出演だが北山さんに、子分には2年の梨本さんとカラス繋がりで篠原さんに決まり。
ナレーションだがオール北山さんにお願いしようかなとも考えたが、篠原女史の事を考えて、一幕目は篠原さんに任せよう。悲劇の幕開けに相応しい口調でお願いします。
残りは北山さんに明るい軽やかなテンポで頼みます。
さあ決まったぞう。誰にも文句は言わせない。言うならわたしの居ないとこで言って頂だい、お願い!
じっちゃんの転院騒動から死亡、葬式、忙しかった1月。でも、チョッピリ嬉しい東村君の入部。そういったものゼーンブひっくるめて乗り越えたわたしの今。役柄を決めたからには後はみんなに(わたしも含めてだけど)バトンタッチだよ。ああすっきり!
と言う訳で、久しぶりのお隣、武志君だ。でも、彼もそろそろ3年生、こんなわたしに付き合ってる暇はあるのかな?しかしだ、今日は特別、なんてたって煩わしい台本作りや配役決めから開放されたんだもん
ノンビリ武志君となんも考えず話をしたい。それから又真理、頑張る。
「お前、念願かなってあの東村、演劇部に入ったんだって」
「そう、そうなのよ。只何時まで居るか分からないんだって。山岡女史も勉強大丈夫か心配してる」
「ふうん、そうか。何時までいるんだろう」
「でわたしね、思わず、分んない事あったら何時でも聞きに来て、何ならわたしの家まで押しかけて来て良いよって、言ってしまったの。後から恥かしくなって、穴があったら入りたいなんてさ。ま、後の祭りだわ」
「若しかして今日当たり来るかも知れない」
「えー、わたしの部屋、すっごく散らかってるの。だって今まで兎に角忙しかったから」
「ハハハ、忙しくなくっても散らかってるよ、い・つ・も」
「うーん、そりゃあね、武志君には立派なお母さんが居て、少々散らかっていても片付けてくれているから良いわよ。わたしのマ、じゃない母はわたしがどんなに散らかっていても、『あらすごく散らかってるのねえ』でおしまい。本一つ片付けてくれないんだから」
「ハハハ、君のお母さんこそ立派だよ、アンタの自立心に任せて居られるんだから」
「そうかな、単に部屋片付けるの、嫌いなだけなんじゃない。うん、こうしてはいられない、うちに戻って部屋片付けよう。ありがとうね、大事な勉強の時間、わたしの話に付き合ってくれて。この後存分に勉強、してくれたまえ」
吃驚顔の武志君を残し、隣の我が家に戻る。
「夕食出来るまで、わたし、少し部屋を片付けているわね。夕食出来たら呼んでね」
「まあ、雨でも降らなきゃ良いけど」母の声を背中で聞いて、自分の部屋に篭る。
うひょひょよ、まあ散らかってるよな。今までシナリオ作りに夢中になって気にもしなかったが、若しここにあのエーゲ海の君が来たら、どうすりゃ良いのよ。ま、取り合えず段ボール箱に入れらるだけ詰め込んで押入れの中に隠すしかないな。
それから、ビニール袋を持ってきて要らない物を捨てよう。古くなったお菓子でしょ、それに空っぽの袋
に、これは何じゃ、良く分んないけど、取り合えず今は用無しだからハイ捨てましょう。あ、ないと思ってたソックスの片割れも出て来たが、もう相棒はとっくに焼却処分の身、お前もゴミ袋行きだ。
ここで母の声あり。どうやらご飯の準備が出来たらしい。
「どうお部屋、少し片付いた?」
「もちよ、後は掃除機をかけるだけよ」
「ふうん、真理が部屋を片付けたか。感心、感心」
「その気になれば、チャチャット出来るのよ」
「誰かお客さんでも来るの?」
ウヌヌヌ、流石母上、否女の感は鋭い。ここはすっとぼけるしかない。
「そ、そんなことないわよ。一応台本も仕上がったことだし、区切りをつける意味でね」
「今度は宮沢賢治のを取り上げたのかい」
「まあ、少し変えたところがあるけど、おおむね賢治の世界を取り上げた積り」
「後から父さんにも読ませて欲しいな」
「うん良いよ、本にもうなってるから読みやすいよ」
「真理ちゃんが書いたままだったら読むの苦労するからね」
母といえども怪しからぬ発言だが、事実だから致し方ない。ここはみんなで笑って食事としよう。
稽古に入った。ま、その前に少々揉めたけどね。それより、みんなにショックを与えたのは、東村君の入部だ。彼が第2幕目の準主役紺三郎をやるのも、男性諸君にはやや不満の声が上がる。
篠原女史がわたしの耳元で囁く。
「あなた、良いわね、好い男たちに囲まれて」
山岡女史の咳払い。
「時間がないの、色々意見は有ると思うけど、今回はこれで行きましょう」と言う山岡女史の鶴の一声で直ぐにそれは鎮火した。
予想した通り、松山君とあっちゃんは息もぴったり、女史も満足そう。
雪女は2年の古株。これから松山君と共に我々部員を引っ張っていかねばならぬ大黒柱、小栗さん。その思いが彼女を成長させたのか、それとも永沢さんと云う輝く重石(?)の存在がなくなったゆえか、抜群に演技に深みと迫力が増していた。
「みんな聞いて頂だい。雪女や清作、ならおみたいな大役なら遣り甲斐があって一生懸命に取り組むだろうが、村人とか犬だとか、取るに足りないような役なんて居れば良い様なもんだと、思っていない。とんでもない、お芝居なんてね、その取るに足りない人たちが居てこそ成り立つのよ。味も出るし、深みも増すの。二つは両輪、主役も大事、脇役も大事。ここのところをしっかり心の中に踏まえてやって頂だい」
名指さなかったが村人達の演技が余りにも雑だったので、山岡女史の黄金の楔。これで今から犬や狐を演じる人達にも楔は効く筈である。
次が上原君とわたしの登場。それに続いて東村君。多分本格的にお芝居をやるのは初めてだろう。入部を勧めた身には一抹の不安と緊張が走る。でもまだ本読みの段階だからこれは難なく切り抜けてくれた。ここで又山岡女史の発言あり。
「えー、本来狐や犬には立派な尻尾がありますが、財政上、時間上、無視します。それに犬も立ったまま演じる事にします。その分演技でカバーするように。分りましたか」
オオー、何と云うこの割り切りよう。でも仕方が無い、女史に従おう。
「それから雪女と雪わらしの雪を振りまく所や、父親との格闘シーンはみんなで話し合って、格好良く決めて頂だい。四郎や狐達の踊りもみんなで考えてね。あ、良かったら松山君、又ここの所の歌、メロデイ付けてくれないかな、わらべ歌風にね」
松山君了承。でも今度は盗作まがいを入れなかったぞ。
次3幕目。わたしは今度は犬、小虎だ。立ったまま演じる犬、これは楽だけど難しい。せめてご主人の傍に居る時は座ろう。白犬も同じだ。これは女史にも承認された。
後はおいおい考えよう。
紳士を演じる一年生コンビ。でももう直ぐ2年生になるんだ、頑張って大いに観客を笑わせてくれ。
山猫組も女史の言葉が効いて、2年の畠山さんも1年の篠原女史もコミカルに、時には心配げに演じる。
次は舞台での出番は全くない山猫ボス。
「北山さんの出番がなくて御免なさい」
わたしはたった2つしか台詞のない山猫ボスをやる北山さんへ謝った。
「ううん、ナレターもやれるし、わたし、とても満足よ」
北山さんは篠原女史と違って、我儘も言わずとても素直で大好きだ。
「初めてにしては良く出来たわ。今日はここまでにしましょう。家に帰ってからもう1度自分の役についてよーく考える事が大事よ、分った?」
1日目はこうして無事終わった。
「本とにあなた、どうして東村さんを入部させるのに成功できたの」
ホレ、早速篠原女史が稽古が終わるなり聞いてきた。
「うーん、分んない。彼がいきなり入部できるかって聞いて来たのよ。それだけ」
篠原女史が疑惑の眼差しをわたしに向ける。
「それに、何時まで続けられるか分らないけどとも言ってた」
「何時まで続けられるかですって。それを良く山岡先生が承諾したわね」
「何か先生と彼、話し合ったみたいなんだ。彼勉強の方もあるからね」
「あの人勉強、すっごく出来るじゃないの」
「出来るのよ、だから問題なのよ」
「どうして、どうして勉強できる事が問題なのよ」
「そうねえ、彼は将来、多分外交官かそこいらを狙っていると云うか、狙わされてると云うか。そのレールの上を走っているのよ。それを山岡先生も知ってるから、劇なんかやってて良いのか聞いていたんじゃないのかな。わたしとしては短い期間であっても是非彼に演劇の楽しさを味わって欲しいの。屹度この後思い出して、アーあの時は楽しかったなあと言う日が来る。勉強だけの中学時代なんて、寂しいとは考えない?」
「そうか、人それぞれに色んな問題を抱えているんだな。でも単純に島田さんが好き、だから演劇部に入ろう、なんて、その方が中学生らしくて良かったのに。残念!」
今日は塾の日、早く帰らなくちゃあ、まだ2月の初め、日は短いし、気温は低い。何と言っても風が何より冷たく、おまけに強いと来てる。
「行くぞ、早くしろ」と武志君にせかされて我が家を出て塾に向かう為エレベーターに乗り込む。
何と、そこに東村君がいた。
「今晩は、先ほどはどうも」東村君の方から先に挨拶された。
「あ、今晩は。これから塾?わたし達もだけど」
「そう、ボデーガード付なら帰りも安心だね」
「何なら代ってやっても良いんだぜ」
珍しく武志君が彼に絡む。
「何を言ってんの、武志君。彼は只安心ねって言っただけじゃない」
何となく気まずい空気になりそうだったが、ありがたいことにエレベーターが1階に着いて、ドアが開いた。ヤレヤレだ。
三人、仲良く(?)自転車置き場から自転車を引っ張り出し塾へ向かった。
「月見はここいらよりもグッと気温が低くて寒い所」とばっちゃんが言ってたけど、成る程今夜の風は特別冷たく厳しい。
塾の帰りは特別エリートコースの東村君はまだ勉強の時間があって、何時もの通り武志君と二人っきりだ。
「さっきはさ、少し変だったよ」わたしはポツリ漏らす。
「少しあいつをからかってみただけだよ。あいつも焼いていたしね」
「うそー、どうして彼が武志君に焼くのよ」
「真理ももう直ぐ中2だよ、も少し大人に成らなきゃ・・そしたら」
「そしたら、どうなるの?」
「いや、いいよ。なんでもない」
「変なの」
帰ったら、マじゃない母に聞いて見るか。
稽古は順調に進んでいて、もう立ち稽古に入っていたし、例のわらべ歌(?)も松山君によって仕上がっていた。後はわらべ歌に併せてどう踊れば良いか考えるだけ。まあ、シンデレラの時と違ってそんなに大袈裟な物ではないから、単に手を繋いで歌に併せてぐるぐる回れば、それで良いのかも知れないが、あと少し何か欲しいと感じたのはわたしだけではないはずだ。
衣装のほうは、雪わらしと白犬の下半身を包むもんぺは同じ物を使いまわす事に決定。狐は私服だが狐らしい物を着用。でも狐らしいって一体どんな服?
さあて、小虎はどうする。茶色のもんぺがもう1枚必要だ。どうやら裁縫部にお願いするしかないが、それには山岡女史の頭の下げ具合と、その弁舌にかかっている。後から聞いた所によるとお菓子の手土産と、裁縫部協賛ではなく、裁縫部改め衣服部にして、演劇部、衣服部発表会とする事にしたらどうかと提案したらしい。勿論裁縫部改め衣服部も考えたあげく山岡女史に賛同(せざるを得なかった)
これで費用も大幅に少なくなるし、この先衣装の事でそれ程悩まされる事も少なくなる。
ヤレヤレ、女史のこの素晴しきアイデア、これで一件落着と安心したのも束の間、そこで黙っていないのは美術部だ。そこでさらに、演劇部、美術部、衣服部3部発表会と言う事になった。
何かとんでもなく大袈裟な事になったわい。とは言うものの、天晴れ山岡女史、褒めて遣わす。
お陰で最初の雪のセットも牧場も狐や犬の尻尾、レストランやその中の内部のドアもみーんな美術部がやってくれる事になって、そりゃ大助かり。美術部様様、拝みたいくらいだ。
「もう何も心配することはないわ。わたし達は演劇に情熱を注ぎ込むだけで好いのよ。分った、今まで以上に頑張るのよ」山岡女史の檄を飛ばす声も何か誇らしげである。むべなるかな。
わたし達の踊りの所も足を上げたり、手を叩き合ったりするのを入れる事によって、大分楽しげに見えるようになって来た。
「あの、新入りでこんな案出していいでしょうか?」
それまで発言一つ言わなかった東村君が口を開いた。
「もちよ。良い案なら新入りも古株もないわ。どうぞ言って頂だい」
わたしが促す。他の4人も同調する。
「あのう、ここで、紺三郎とかん子が腕を組んで真ん中に踊り出たらどうでしょうか。その方が一層人と狐が仲良くなったと思わせるし、楽しそうに見えると思うんですが」
「それはそうね、ついでにわたしと上原さんも踊りましょうか?」
篠原女史が次に提案して、その間、他の2匹の女狐は、その場で手を叩きながらくるくる回る事として皆了承した。
後で篠原女史がコッソリわたしに呟いた。
「あのまま、アンタと東村君だけが踊り出たら、後で二人の事何と噂されるか。ここは上原さんとわたしも一緒に踊れば、みんなに怪しまれないでしょう」
ふーむ、口さがない人々が多い世の中だ。篠原女史の言う事に一理あり。
でもでもだ、これで2幕目は如何にも楽しく明るい舞台になったと思う。
稽古が終わり、珍しく帰りも一緒に成った東村君。あっちゃんも勿論一緒。
「あら、今日はもう用はないの?」と東村君に尋ねた。
「うん、もうテニス部には一応退部届けは出したから。これからは大体一緒だよ」
「そう、健太じゃなくて、山下君何か言ってた」
健太は若しかしたら東山君を引き抜いたこと、怒っているかもなあ。
「うんん、演劇部頑張れよって言ってくれた」
「へえ、健太がねえ」
「健ちゃん、本とは優しいんだよ」
これはこれはあっちゃん。
「まあ睦美ちゃんが敬愛する健太様だから、そう言う事にしておこう」
「じゃ、僕ここで。塾で又会おうね」とあっちゃんが消えて行く。
「君達、羨ましいくらい仲良いんだね。お隣さんとは分るけど、山下先輩とも谷口君とも」
「みんな幼馴染だからね」
「それでさあ・・うーん・・」
「なあに、早く言いなさいよ」
「あ、そうそう、塾の先生が言ってたんだけど、島田さん、君は普通コースじゃ勿体無いって。もっと上級コースにすべきだって」
「あらそんな事。塾の先生に頼まれたの?塾の先生は煩く勧めるけど、わたし本当は塾にも通いたくないんだ。家で詩作に耽っていたいんだもの。ま、みんなが通っているから仕方なしに行ってるの。惰性よ惰性」
「家の人、何にも言わないの?」
「ハハハ、そうねえ、塾に行ってるだけで、屹度満足してると思うわ、母はね。父は真理の好きなようにしたら良いと考えているから」
「そう、そうなんだ。君には凄い才能があってそれが世の為に役立つとしても、君の考えは変らない?」
「ふうん、今は多分このままが良いと思うの。その内人の考え方も変るから、そしたら立ち止まって、もう一度よーく自分を観察してみるわ」
東村君の顔を見つめた。少し寂しげに見えた。
「僕も立ち止まって自分をよーく観察して見たいよ。そんな事してる暇はないって、言われるだけだろうな、屹度」
「人は夫々だから、自分にあてがわれた環境の下、精一杯生きるしかないのよ。勿論それを打ち壊して生きて行く人も沢山居るわ。どっちが正解か死ぬまで分んないけど自分が選んだ道、正解と思いたいな」
「ねえ、今度、君の家、行っても良いかな」
「い、良いわよ。わたしの母は絵描きなの、だからあなたが来ても何にもお構いなしよ。それに父は哲学科の助教授。でも決して小難しいことは言わないけど、おべんちゃらも言わない。それで良ければ来て頂だい待ってるわ」
彼は少し笑って「勿論オーケイだよ。藤井さんも同席なんてのは御免被りたいけどね」と言った。
武志君が同席する訳がないじゃないの。でも又少し散らかり始めた部屋を片付ける必要はある。なんて考えつつ自分の家に戻る。
「今日は塾よね、そこに用意してある物を食べてから行きなさい」母の声。
「ハーイ。今日はスパゲッテーか、少し堅くなっていない?」
「あら、そう?だったらレンジで1分ほど暖めれば、出来立てほやほやになるわ、本とよ」
スパゲッテーとレタスの上に盛られた卵とポテトサラダ。それにこれもレンジで温めること推奨のオニオンスープを一人寂しく(?)頂く。
「武志君、もう帰ったかしら」
聞いても無駄なのは分っていても、一応母に声をかける。
「そうねえ、ここにいては全然分からないわよね。電話してみたら」
電話してみた。武志君が出た。
「何だ、真理か」
「真理様でなかったら誰なのよ。あ、分った、美香姫とでも思ったか?残念でした、真理様しかいないの
この時間にあなたに電話してくるの」
「で、何の用」
「塾行く時間だよ」
「お前には先口あるだろう。もう俺さ、お払い箱にしたんじゃないの?」
「ええっ、何言ってんの。誰がお払い箱なのよ」
「さっきさあ、二人して仲良く帰ってきてたじゃないか」
「二人仲良く?ああ、東村君の事言ってるの?あれはねえ、彼に人生について思うところを述べていただけよ。別に塾に一緒に行こうなんて話はこれっぽちも話題に上っていない」
ここまで言って,[うん?」と思った。若しかしたらわたしが上級クラスに行ったら、彼が行き帰りのお供をしてあげようと彼は考えていたのかも知れない。
「ほうら、思い当たる事があるんだな。お前って本とに人の気持ちが分らない奴だよな」
「でもそれはわたしが断ったの、わたしは今の儘が良いって」
「真理ちゃーん、時間よ。塾遅れるわよー」母の声。
「ハーイ、武志君が訳の分らない事言ってるから」
「誰が訳の分らない事言ってんだよ、あ、内もだ。とにかく塾行くか、仕方が無い」
両方の母親に急かされ、言い合いは暫しお開きに。
急いでエレベーターで下に降り、自転車に飛び乗り塾を目指す。
塾が終わり、又先生に呼び止められた。
「ねえ、島田さん。アンタも4月から中2、君は運動部も入っていないし、も少しレベルアップ計ったらどうかな。勿論今のままでも十分学力はあるけれど、上級クラスに入ればもっともっと力つくし、苦手に思っているらしい英語の方も自信が持てるようになると思うよ」
ウムムム、わたしの弱いとこ突いてきたな。流石プロだ。なんて感心してる場合か、如何にしてここを切り抜けようぞ。
「ハイ、もう1度よーく考えて考え抜きまして、結論を出したいと思います。今日の所はこれからしなくちゃならない事がありますので、申し訳ないですが失礼致します」
塾の外はめちゃ寒い。
「少し、待たせたわね、御免なさい」
「お前さ、上級クラス、勧められているんじゃないのか?運動苦手の子には学力だけが武器だもんな。遠慮は要らないよ、移りなよ、その方がお前の為だよ」
「良いの、わたしは塾、本当は嫌いなんだから。今のままで良いの」
「俺も4月から中3だろう、だったら終わるのが大体上級クラスと同じになるんだ。だから心配要らないよ、一緒に通えるよ。まあ3月までは東村に帰りはお願いすることになるけど」
吃驚して武志君の顔を見つめた。
「焼いていたのは俺の方だったなと反省してたんだ、授業中。ハハハ」
「何を焼いていたのよ。なーんにも焼く事なんか起こってもいないのに。この頃武志君、少しおかしいんじゃない?」
「あいつがさ、3学期に入ってからさ、お前に猛アタックして来たからさ、俺も、沢口も、おちおちしてられないのさ」
「東村君の事?彼はわたしに猛アタックして来たんじゃなくて、単に劇をやりたいだけなのよ、多分」
「そんな事あるかよ、本とにお前って奴は子供だなあ。あいつはぎらぎら燃えてるぜ、目を覚ませよ」
マンションに着いた。ドアに手をかけながらつい言ってしまった。
「今度ね、本とに東村君、内に来るかも知れない。来ても良いかって、今日彼に聞かれたから、何にもお構いする人いないけど、それで良ければどうぞって」
武志君の手が止まった。武志君がじっとわたしを見つめる。
「彼、それは構わないけどあなたの同席は御免被りたいって」
「あ、当たり前だろう、そんなの」
「一応報告しておかなくちゃあ、後からもめられちゃ迷惑だから」
「誰がもめるんだよ。お前のとこに誰が来ようと知った事じゃないよ。ばんばん呼びな、東村だって西村だって、北だって南だって呼べば良いさ、ハハハ」
そう云うと武志君はドアを開け、バタンと消えて行った。
世の中は今は冬季オリンピックと、コロナで賑わっている。コロナの賑わいは全く歓迎しないが、冬季オリンピックは運動嫌いの真理だってすこーしは歓迎。特にフィギアは唯一無二の楽しみだ。
でも、女子の場合、このロシアの女の子達、毎回毎回違う顔ぶれのようだ。前回活躍し、天才と言われたあの子達はどうしたのって聞きたくなる。今度もマタマタ出ました大天才。ウン、本当に凄い。天才だと感心してたら何だか少しおかしい噂。ドーピング疑惑、いや疑惑ではなく、彼女曰くお祖父さんの飲み薬を間違えて飲んでしまったらしい。ふーむ、それが事実とすればそのお祖父さんが責任を負わされて可哀想だが、誰もそれを信じちゃいない。
寄ってロシアが1位になったため、団体のほうは表彰式とメダル授与なし、が結果はそのまま?で終ってしまった。
日本は始めて団体で3位になり、メダル獲得できたというのに。
女子個人はその子がフリーで崩れてしまった為、表彰式が執り行われ、渡されるべき選手にメダルはそのまま渡されるようになった、良かったね、坂本選手。
男子は米国のネイサン・チェンが圧倒的演技で優勝を飾り、日本の鍵山2位、宇野は3位になった。宇野のファンであるわたしには少し残念な結果だが、それなりに彼は頑張ったと思う。世界選手権もあることだし。
一方、コロナは一向に治まる気配を見せず、あっちの学校で出たと聞けばこっちでも。郵便局も出たし、スーパーでも出たらしい。まるで幽霊騒ぎのようだが、もうコロナはそこまで迫っているという危機感がみんなを包んでいる。
稽古も今まで以上にマスクは2枚がけ、間隔は今まで以上に空けて演じる事となった。
そんな中の土曜日、終に彼はやって来た。
ドアのチャイムの音で彼だと分かった。なぜって、それは内緒。
「東村です」わたしの声に少し安心したらしい彼の声。
「今開けるわ、待ってて」
「だーれ、武志君なの」母の声。父は今日も所謂教授とのデートでいない。
「ううん、同じクラスの東村君よ、このマンションの7階に住む」
「ああ、あのイケメンの子ね。武志君は一緒じゃないの?」
「一緒じゃないよ、多分」と言いながらドアを開ける。
彼のにこやかな顔。
「お邪魔します。これお土産」
「お土産って何処に行ったの?」
「いやあ、ちょっと用があって東京へ出かけたついでに買って来ただけだよ」
「ありがとう。あ、これ、今評判になってるお店のケーキ。わあ嬉しい」
「早く上がってもらったら?紅茶入れるからダイニングルームで話してて良いわよ、わたしは直ぐ消えるから、心配無用、フフフ」
「あのう、良かったら僕にも画を見せて貰えませんか?とても素晴しい画を描かれると伺った物ですから是非、お願いします」
「あら、画、好きなの。若しかして才能有ったりして」
「いえいえ、見るのは大好きですが、描く方はそれ程上手くありません」
そう言えば、彼は画の方も結構上手だったんだ。わたしと同じくらいに。
「それ程と言うのが、怪しいわね。だれに比べてなのか不明なんだから。まあ、あなたを美術界に引きずり込むことは置いといて、じゃ、紅茶タイムが終わったらわたしの部屋に来て頂だい。何時でも良いわよすっごく散らかってるけど」
母はそう言うと、紅茶を出してから自分の部屋へ戻って行った。
「君も画、すっごく上手いよね。よく美術部から声掛からなかったね」
「ハハハ、中学入るなり篠原さんから強引に演劇部に入部させられたのよ。何とか抜け出そうとしたんだけれど、山岡先生に完全に阻止されちゃった。お陰で谷口敦君もとばっちりで入部してきたのよ」
「なんか、面白そうだね、当時のバトルをリアルで見たかったなあ」
「他から見たら、屹度笑えたでしょうね。でもわたしとしては必死、何しろ体操音痴のわたしでしょ、それが地獄の体力増強演劇部なんて噂があって。どうして最初にそれを教えないんだと、武志君に文句言ったら,あっちゃんに、お前が行って守れみたいな事言って入部させられちゃたんだ。ところがあっちゃん、初めての入部説明会の時、顔真っ青で、反対にわたしがあっちゃんを守らなくちゃいけないと、真剣に考えたわよ。あ、3学期は時間が無いので、その地獄の体力増強と言うのが取り止めになってるけど」
「僕は平気だよ、君と一緒に運動場、走りたかったな。2学期に入れば走れたのに、後の祭りだね」
「新しい学年になれば又走れるわ、新1年生を鍛える為にもね」
それまでにこやかだった東村君の顔が曇った。そして寂しい笑顔を浮かべた。
「あ、そうか。3学期だけなんだ、演劇部に籍を置くの」
「まあね。その代わり紺三郎、一生懸命頑張るよ。御免ね」
「良いわよ、謝る必要は全然無いわ。人は夫々歩くべき道を歩んでいくんだから」
「僕にもう少し勇気があれば、違う道を歩いていけるのにと思うよ」
「蝋燭の画で有名な画家さんがいたの、彼は家族の期待を裏切れず、医学部を卒業したけれど、医者にはならず、画の道に邁進したのよ。そりゃあ酷い貧乏暮らしだったけど、彼は幸せだったのかそうじゃなかったのか、本人にしか分らない。わたし達が決めることではないわ。只、彼が描いた画は素晴しいと云う事だけは言えるわ」
「僕も彼の話は聞いた事あるよ。僕には出来ないな、親を裏切る事も何もかも」
「当たり前よ、普通は。彼も途中まではそうだったかも知れないわねえ。最後の最後まで悩んだかもしれないわ。でも画家になりたいという気持ちが段々大きくなって行ったんだと思うわ」
飲み終わった紅茶茶碗やケーキ皿を一応流しまで運び水を張る。
彼はベランダに出て外の景色を眺めていた。
「あなたが住んでる方が、高いから眺めが良いでしょう?」
「このくらいの高さが丁度いいよ、六色沼を見るのには。余り高いと肝心の沼の景色その物が小さく見えて結構つまらないよ」
「まあ、そんな物かも知れないわね。母のアトリエ、行ってみる?物凄く散らかってるよ」
「行こう行こう。河原崎多恵さんの本物の画が見れるんだ」
こいつ、若しかしてわたしの所と云うよりも母の画に引かれて、我が家に着たんじゃないだろうかと一瞬疑った。何しろ父という、母の画に心を奪われた人間の見本が居るんだから。
「入るわよ」先ずわたしが声をかける。
「お邪魔します」次に東村君。
「どうぞ、遠慮なくと言うか、遠慮するような所でもないけど」母の声。
ドアを開ける。油絵特有のにおいが立ち込める。換気をすれば良いのだけど今は冬、そんなに換気ばかりはしてられない。
彼はそんな事気にもしてないみたいで、目を輝かせて母の画を食い入るように見つめる。
「アー、今はコロナで大手を振って、画を描きに出かけられないでしょう。だから近場の秩父なんかを描いてるのだけど、その前に行った長野や北海道の大雪山系、熊野なんかはほらそこのとこにまとめて立てかけてあるわ。大きいのは貸し倉庫を借りて預けてあるの。画家は大変なのよ、描いた物が右から左に売れればいいけど、そう言う事は絶対に無いから、気に入ったものは預ける所を探し、それ程じゃない物は泣く泣く処分しなくちゃならないの。それが厭ならうんと田舎に引っ込んで、広い家を借りるか買うか、それしかないわね」
母の話を聞いているのか、聞いていないのか、彼はその立てかけてある画の所に行き、座り込んで画に見入っている。
「素晴しいですねえ、本当に。ここに立てかけて在るだなんて勿体無いですよ。この沼も素敵だな、何かこう心の中に問いかけられてるようだ。
「嬉しいわ、あなたのような若者にそのように言って貰えるなんて。張り切って画が描ける原動力になるわね」
「そうよ、わたしの友達、沢山来たけれど、誰一人として母の画に興味を持ってくれた人は誰もいなかったわ。母が絵描きである事さえ知らない人が殆ど。画が置いてあるのを見て、画がお母さんの趣味なんだ、それにしても随分あるなあ、て言う位よ。酷いもんでしょ」
「大人だって同じ。画を描いてると言うと、あら、良い趣味持ってるのねえ、と言われるの。ガッカリするわ。こっちは命を懸けて描いているのに」
「良いじゃないですか、判る人にはチャンと伝わっているんだから。でも、本当に素晴しい。これを見て趣味だなんて言う人の方が、どうかしているよ」
「あなたのご両親も画に関心持たれてるのかしら。そうじゃなければそれ程絵画に興味を持つ若者は殆どいないわ。真理の友達の方が正解だと思う」
「ハイ、実は僕の両親も好きで、本当は自分達の画が欲しいとは思っているですが、ずうっと海外住まいで、それに何年かしたら他の国に移らなくちゃいけないんです」
ガーン、そうか彼のお父さんは外交官なのか。長い海外生活だから、英語が抜群に上手いし、彼が外交官を目指すのも分るというものだ。
「そうお父さんは外交官なのね。東村君は物凄く英語が上手い、逆立ちしても適わないって真理が言ってたけど、それも少し関係あるのかな」
「ハハハ、大いに関係あると思います。御免、色々間違った情報をそのままにしてて」
彼がわたしに謝った。
「で今はご両親は?」
「今もアフリカの小さな国に赴任中です。僕だけ今後の事、心配した母が日本に居る親戚に相談して、取り合えず、母の伯父、この上に済んでる伯父の所へ来させたんです。コロナとか色々在って少し遅れましたが、無事こうして暮らしてます」
「成る程ねえ、これで大体分ったわ、謎の住人東村君の事。7階に住んでるって真理が言うけど、東村なんて人見当たらないもの。お隣の藤井さんと話してたのよ、彼は4次元の世界からやって来て、そう言えないから7階に住んでることにしたんじゃないかって、ハハハ。そんな訳無いか」
「東村君って、伯父さんとこの居候だったの?あ、ご両親がたんまり養育費だしていたりして」
「ハハハ、そこの所は僕には分らないな。只伯父の所には子供がいないから、僕の事、昔から本当の子供のように接してくれていたから、僕も何の気兼ねも無くいられるんだ」
「でも、さっき、取り敢えずって言ってたけど、若しかして他に行く案もあるのね」
母は鋭い。彼が今のままの生活を続けていくのかどうか、切り込んでいく。
彼はたじろぐ。顔が曇る。
「そう、そうですよね。伯父の所はあらゆる意味で天国です。でも・・それが父や母には気掛かりなのかも知れません。東京には父の実家もありますし、他にも父の伯父たちだって住んでいますから・・」
「東村君、だから、演劇部何時まで出来るか分からないけどって言ったのね」
「まだ決まった訳ではないからさ。僕はここに居たいんだよ。伯父や伯母は優しいし、ここは環境も最高だから、何処にも行きたくないよ、本当に」
彼は母の画を何枚か無言のまま見入っていた。
「僕が画を買える様になったら、きっと買いに来ますね。何時か必ず」
「そう、嬉しいわ。もっともっと今以上に心を打つような画が描けるように、精進する事を誓います」
「その時は、東村君立派な外交官になってるのね」
「君は立派な詩人、それとも劇作家?」
「分らないわ。若しかしたら全然違う道を選ぶかもね、お祖母ちゃんの夢を引き継いで、ノーベル賞を目指す化学者に成ってるかも知れない」
「そう、人は変るものね。立派な化学者か・・・」
「ハハハ、おばあちゃん、言ってた『化学者に成るのには英語が話せなきゃ駄目だわよ』って。だからお祖母ちゃん、今度生まれ変わったら、今度こそ踏ん張って化学者の道を全うする為に、今来世の為、英語を勉強してるんだって。おかしいよね、生まれ変われないかも知れないのに、その為に英語を勉強してるなんて」
「そんな事無いよ、人は一生懸命念じたら、思いは通じるって言うから」
「ありがとう、お祖母ちゃん喜ぶよ。でもお祖母ちゃん、やりたいことが一杯あって、わたしの書いた劇にも、本のチョイ役で良いから 出てみたいですって。昔は演劇少女だったらしいわ。でもチャンスが無くて、巡り巡って化学をやろうとしたけど、純粋にそれを学ぶところは彼女の住んでいる町には薬学部しかなかったんだって。でも念願かなって化学者の卵にはなったものの、色々在って挫折せざる得なかったの。だから今は薬屋さん。それも漢方のね。でもお祖母ちゃん、今はそれにどっぷり浸かって、漢方と心中しても後悔しないと言ってる。只、そのお店の前を目が不自由な人が通ると『ああ、漢方ではどうしても治せない物がある。わたし達化学者がもっともっと、一生懸命に研究して、せめて目や耳の不自由な人を治してあげなくちゃいけないんだ』と自分を責めさいなんでるんだ。だから来世はそう云う人を治す方法を研究するんだって言ってるの。でもお祖母ちゃんのが学者として、克服できない弱点がもう一つあるんだ。若い時は解剖が怖くて怖くて、医学部を諦めたけど今はそれは平気なの。じゃあ何が弱点かと言うと実験に使う兎やネズミ、モルモットを殺せないの。最初の頃は生簀の魚を目の前で取って裁くお店があるでしょう。周りの人が美味しい美味しいって喜んで食べているのに、ばっちゃん一人、可哀想で可哀想で、とても食べれない。吐き気すらする。だから今は概ねのベジタリアンなの。段々それが酷くなって、この頃は自分で貝さえ料理するのが辛いんですって。ふとアサリのお味噌汁美味しそうねと思って買っては来たものの、いざ料理するとなると心が痛くて痛くて、お経を唱えながら、涙を流しながらやるんですって。増して幾ら病気を治す為とは言いながら、何の落ち度も無い他の動物たちを殺すなんて事はとても考えられないのねえ。目や耳を良くする薬の前に、心が冷徹になる強力な薬が必要になるわねえ、お祖母ちゃんには」
「そうか、だから君がお祖母様の代わりに化学者になって、頑張ろうと思っているのか。少し残念だな君なら文学の道に進めば、屹度素敵な花を咲かせられると思っていたんだけどね。でもその祖母様の話を聞くと、簡単に反対は出来ないなあ」
何故か彼は寂しそうな表情を見せた。
「ありがとう、わたしの文学の才能、高く評価してくれて本当に嬉しい。このまま演劇の世界に突っ走るかもしれないし、全然違う方向に行くかもしれない。道はあっちこっちに伸びていて、どれにするか決めようが無い。困ったもんだね、お母さん」
「そうね、色々迷うわよね、わたしも迷ったわ。だけど画を描くのが一番わたしには向いてたと思ったの
両親も自由にさせてくれたし」
「一番あった道か」
「わたしは東村君、とても外交官に向いてると思う。あっちこっちの国に行き、日本を代表して日本をアピールする仕事。素晴しいと思うわ。頑張って」
「君にそう言われたら、頑張るしかないし、張り合いも出るよ。ありがとう、来た甲斐があったよ」
彼は去って行った。[お邪魔しました。じゃあね、さようなら」と言う言葉と共に。
「又来ても良い?」とも尋ねなかったし、「又来てね」とも言わなかった。
「彼、まるでお母さんの画を見に来たみたいだね」
「ううん、彼はそれに言付けてあなたに本当の事を言いたかったのよ。本当はあなたの近くにずーっと居たいんだと伝えたかったの、でもそれじゃ、露骨過ぎるからわたしの画を間に挟んで、あなたに伝えたい事を言うチャンスを狙っていたのよ。彼の気持ち分かってあげなさい」
兎も角、東村君がわたしの傍に、じゃ無く、このマンションに、わたし達の学校に居る事が風前の灯であることが分かった。
塾に行く日がやって来た。
「東村、来たんだって?」
「誰に聞いたのよ」わたしは誰にも言ってないし、彼も言うはずがない。
「うん、お袋がそんな事聞いたって言ってた」
「もう、内のお母さんね、おしゃべりめが」
「はっきり聞いたわけじゃないよ。ただそうじゃないかって。内のお袋も7階に東村なんて住民は居ないんで不思議がっていたから、あいつが母方の親戚の所に住んでるっておばさんが教えただけなんだけど、女の感は鋭くてしかもよく当るから」
「仕方が無いなあ、来たわよ、でも殆どお母さんの画を見てた。『僕が画が買えるようになったらきっと買いに来ますね』なんて調子の好いこと言ってさ。だからわたしも『そのころはあなたは立派な外交官』って言ってやったのよ。そしたら『君は立派な詩人か劇作家だね』と言うの。だからわたし、そんなの分らない、化学者に成ってるかもって言ったのよ。彼少し寂しそうだった」
少しの間、武志君は沈黙したままだった。わたしも勿論黙ったまま自転車をこぐ。
「お前なあ、分かっていないなあ」
「え、なにを?」
「あいつの心だよ、心」
「へっ、彼の心をどう分るのよ」
「屹度買いに来るって事は・・屹度お前に会いに来るって事じゃないか。そのときお前がうだつの上がらない詩人とか、作家だったら、お前を支えてあげようと言うメッセージが込められていると、俺は思うよ可哀想だよな、人の気持ちの判らない奴を恋する人間は」
「ふうん、そう、そうなんだ。でも、それまで何年かかると思うの?人の気持ちってころころ転がって行くものだから、そんな何年も先のこと言われたって、分らないわ」
「そりゃ、あいつにもそんな事分ってるさ。でも言いたかったんだと俺は感じる、それがあいつの今の気持ちなんだと」
塾に着いた。武志君と別れる。何時もの普通コースの教室へ向かった。
クラブの練習が今日も始まる。もうみんな、殆ど台本無しで、と言うか、自分なりの考えで演技の世界に没頭していた。キラキラみんなの顔が輝き、空想の世界が現実の世界として甦ってくるのだ。
山岡女史も調子に乗っている。
「ほらほら、そこの所、もう少し雪わらし達、早く走って。そうそうもっとぐるぐる回って」
まるで彼女が雪女のようだ。
それに合わせる松山君も負けてはいない。雪わらしにも、勿論雪女にも、彼女らに立ち向かって行く。
一幕目の大きな大きな見せ場だもの、みんな必死だ。
女性扮する村人の番。言葉が最初は中々上手く行かなかった。女史が何処からか岩手の人が喋っているカセットを持って来て、わたし達に聞かせたものだから、関係のない3幕目の紳士達までが、ついつい東北弁のアクセントになって仕舞うほどだった。
2幕目。
「紺三郎は堂々としててね。でもあくまでも狐であることを忘れちゃ駄目よ。狐の代表なんだから」
うん、中々難しい要求だ。でも東村君、臆する事無くそれに答えている。彼、役者としての能力も十分ありと見た。
「ほらほら、女狐たちも負けていちゃあ駄目。もう少し狐らしくやれないかなあ。少しすまして、にやけていないで」
初めはお面を頭に着けるだけだったが、美術部と衣服部の合作でみんな立派な尻尾をつけるようになり、
一目で狐だと分るようになったけど、女史の要求に手加減はない。
3幕目。
猟師の着物や紳士たちの外套等は、女史の知り合いの貸衣装屋さんからの借り物の予定だが、わたしや他の犬達の衣装は、やはりありがたいことに美術部と衣服部により作られることとなっている。
でも立っている事が多く、それを犬らしく見せるのは難しい。しかも狩猟犬だ。主人に従順で、それでいて眼光鋭く賢い犬。それを自分に言い聞かせる。まずは心から行こう。うん、誰かがわたしの事、心の分らない奴と言ってたぞ。でも今は犬だ、犬になった積りで小虎を演じよう。
でも出番が少ないせいか、女史は煩く言わなかった。
それよりまだ入部して日も浅い1年の二人が演じる紳士の方が気がかりなのだ。
「ああ、そこはもっと軽薄そうに言って頂だい。軽薄で、自分が如何に残酷な事をしているか分らない人間。だからこそ、後の料理店で自分達が食べられる方に回ってしまう事がおかしくて笑えるんだから」
「そうそう、そこはもっとは腹ペコの雰囲気を出して」
「本番では本物の生クリームを泡立てて使うわよ。だから思いっきり顔や頭に塗りたくって頂だい。この劇の一番笑いを取れる所なんだから、一応このおかしい要求に対して、その如何にも納得しきった理屈をつけて塗って行く二人」
「そうねえ、も少し大袈裟に震えてくれない。舞台でしょう、客席から震えているのが分らなくちゃ、困るから。ぶるぶるとかガタガタとか擬音を入れてもいいから。3幕目は喜劇なんだから、それくらい許されるわよ」
山岡女史の指導は続く。
その日の稽古は終わった。ヤレヤレみんな、お疲れ様でした。
みんなと帰る。一人減り二人減りして、何時ものようにあっちゃんと東村君、わたしと3人になる。
「あっちゃん、本とに上手くなったわねえ。ならおの雪に脚をとられて歩くとこなんか最高よ」
「作者に褒められて嬉しいよ」
「いや、本とにあそこに雪があるみたいだったよ。見てる人がああ、雪国って大変なんだろうなと思わせる演技だよ」
「東村君だって、入部したばかりなのに、如何にも狐然として演じてるんだもん、大したもんだよ、ねえ真理ちゃん」
「ウン、本とに狐が化けて出て来たみたいだったわ」
3人で笑った。
あっちゃんが分かれて行った。
「この間は御免なさい。わたしって気がきかない上に強情だから」
「え?どうして君が謝るの、何も謝る事なんかしてないじゃないか。反対に僕が君のお母さんの画にばかり夢中になって、気を悪くしてないのか心配してたよ。馬鹿だよな、君と話がしたくって君の家に行ったのに、後から考えたら君とは殆ど話していないような。反省してるよ。今度は君の詩の世界について話して欲しいな」
「書いた詩は山程あるの。でも字が元々下手な上、頭に浮かんだ言葉を直ぐ文字にしなくちゃならないでしょう。だから益々字がぐちゃぐちゃになって、自分でさえ何を書いたか分らないことがあるの。そう言う事で、あなたに見せても、頭脳明晰なあなたにも、それはきっとちんぷんかんぷんだわ。清書すれば良いと人は言うけど、清書する事によって、なんかこう、その時の感動や思いが変化していくような気がするの。それに綺麗に書くってとても疲れるんだもん」
「僕はちんぷんかんぷんでも読んでみたいな、君が書いた山のような詩を。そしたらもっと君の事が分ることが出来るだろう。僕は藤井さんや谷口君みたいにずっと君と付き合っていないから、君の事が分らない。今だって付き合ってるなんてとても言えないくらいだし、せめてもう少し君の事を知りたいよ」
わたしは立ち止まって東村君の顔を見つめる。日暮れが遅くなって来た今日この頃、周りは随分明るくなった。でも空気は冬だ。彼の顔にはこんな日差しではなく、もっと明るい春そのものの日差しが似合うと思う。
「春の日差しの中で、東村君の顔をもう一度見てみたいな。4月か5月の初めの頃の陽気の中でね」
「努力するよ。伯父たちも僕の見方だし・・頑張るよ」
しかしその声には力が無かった。
エレベーターの扉が開く。4階だ。
「東村君が内のお母さんの画を買いに来る日を楽しみに待ってるね」
降り際にそう言うと振り返って、彼にニッコリ笑って軽く手を振った。彼も笑った。
これで良いんだ、彼は直ぐに去って行くだろう。若しかしたら約束も忘れるかも知れない。でもそれでも
この一瞬が、時という流れの中で、本の僅かであっても輝いたと云う事は真実なのだから。
稽古は順調に進んだ。これならもう何処へ行っても、誰の前であっても恥かしくないと思えるレベルに達したと、みんなが自負(多分)していた。
そこでやって来ました学期末試験。
「3学期はラッキーな事に中間テストがありません。その代わり、チャンスは1度きり。寄って何時もよりしっかり準備をして、けして慌てたり、勘違いをして間違えないようにしましょう。良いですね、演劇部の部員として恥かしくないように頑張りなさい」
何時ものように山岡女史のありがたい激励の言葉を受けて、演劇部は学力増強部へと変身。
その頃、コロナは下火になったのか?イヤイヤとんでもない、多分手綱を緩めれば前々回のようにわっと又大流行しそうな気配は、こんなわたしにでも察せられる状況。でも経済界はやって行かないらしい。
何時の間にか蔓延防止条例が解かれたらしい。
常識ある人はまだまだ心の内に蔓延防止を張り続けているとわたしは思うが、コロナがはやり出して余りにも長い時間を過している身には、あきも起これば、油断も生じる。
それにもう一つ心配な事が。ロシアがウクライナに、何にもしていないウクライナに攻め込んで来たという。昨日まで平和で幸せなな日常が、一瞬で壊されて行く。
わたしが神様だったら,漫画かそういった類のヒーローだったら、悪の親分を許しておかないのに!
残念ながらわたしには何の力も無い。そう云う力の有る人も彼の心を入れ替えさせることが出来ないのだもの。しかも、その親分の周りに居る人々は、親分が怖くて何もいえない。真実を言えば自分の身が危ないからだ。
今日も多くの人が犠牲になり、建物が壊され、逃げ惑う人々。幼い子供とて彼は容赦しないのだ。
わたしに出来る事は、毎朝六色沼に平和が、ウクライナの人々の上に明るい日常が戻ってくるように祈る事だけなのだ。
勿論六色沼は何にも答えてくれない、神様も何もしてくれない。そんなの分っている、分っているけど祈らずにはいられない。弱い人間は何かに祈らずに入られないなのだ。
ああ、強い人間になりたい、増して苦難の下にいる人達はなおさらだろう。今直ぐにでもわたしは強くなってみんなを救いたい!
「強い人間になりたい。強い強い人間に」思わず呟いた。
「お、お前もやっとお前んとこのおばさんを見習おうて気になったか?」
朝練の無い時は一緒に武志君と学校に行く。今は試験中だから朝練も無いのだ。
「違う違う、もっともっと、強い人間になって悪い人間をとっちめる、そんな人間になりたいんだ」
「お前、何かヒーロー被れしてないか?この間まで宮沢賢治被れだったのに」
「あれはねえ、台本書くために被れていたの。と言うか、全然被れていなかったよ。それにヒーロー被れもしてないよ。只、この世の中、どうして悪い人間がのさばって、弱い人間が悪い事もしてないのに追い詰められたり、死んだりするのを聞いたり見たりしていると腹が立って、腹が立って仕方ないの」
「マア、だからヒーローもの見てさあ、弱い人間は溜飲を下げるのさ。うん、これでみんながヒーローものを好きかというのが分ったぞ。現実には自分ではどうすることも出来ない悪い奴をせめてテレビや小説、漫画の世界でバッサリとねえ、ヒーローに一刀両断にやっつけて欲しいんだよ」
かくして弱い者同士の朝の会話は進むのであった。
試験が終わった。武志君は来たるべき3月の春の中学対抗体育祭に備えるべく、朝練に戻り、わたしは勿論、演劇部の最終仕上げに戻っていった。
美術部のほうも背景の方は勿論、小道具なども立派に仕上がりつつあったし、衣服部のほうも中々のものだった。
最初、ある物を使おうとしていた雪女の衣装は、それを着るとどう見ても雪女には見えず、みすぼらしい幽霊のようだったが、衣服部がそれを利用して作り上げたものは、どうしてどうして立派になりすぎて、何処かの奥方さまかと見間違うほどになった(少し、大袈裟かな)
清作初め、ならお、村人の蓑や雪避けの蓑笠もそれらしく美術部のてによって作られ、これで悲劇を悲劇らしく演じられると言うものだ。
東村君やわたしが出る第2幕目は四郎とかん子は私服、紺三郎もそれなりの服があると言うので、これも私服。残す3匹の女狐は尻尾付のモンペが準備された。
3幕目は猟師も紳士の服も本物の貸衣装店から借りてきたので(サイズ合わせが大変だった)これは誰が見ても、本物らしく見えるはず。犬は先に使われた白と茶色のモンペに犬の尻尾をつけたもので間に合った。
3年生はもう卒業式は終わっているけれど、どうしても参加したいという。そりゃそうだろう、名残惜しい気持ちはよーく分かる。そこでオブザーバーとして参加する事に決まった。ま、どうしても助けたいと言うのなら、擬音係をお願いしよう。
最後の稽古が終わり、何時ものようにみんなで帰る。
一人去り、二人去りして、何時ものトリオになった。
「いよいよだねえ」東村君がしみじみした声で呟く。
「東村君、これで演劇部やめるの?」あっちゃんが尋ねる。
「多分、最後だろうな、どっち道。楽しかったよ、演じる事もだけど、それを作り上げていく過程も。美術部も衣服部も自分達が出るわけでもないのに、一生懸命になって参加してくれた。感謝しかないね」
「わたし、舞台の最後に美術部と衣服部のみんなにも上がってもらうよう、山岡先生に提案してみるわ」
「あ、それ良いね、彼等も僕達と同じように努力してきたんだもの」
「でも残念だなあ、君が演劇部やめるって。真理ちゃん、前から言ってたんだ、君が演劇部に入ってくれたら、君をイメージして素晴しい台本が書けるのにって」
「ありがとう。本当に辞めたくないんだ。でもそれが出来ない。出来たらどんなに良いだろう」
「良いのよ、もう。あなたは十分答えてくれたわ。若しこれから先、機会があって、演技をするチャンスがあったら、昔、狐の紺三郎をやったなあ。ダンスもした。みんな、楽しそうに演じていたなあ。そして若かったな、あの時はって思い出してくれたら、わたし達、とても嬉しいわ」
「何だか東村君、遠くに行ってしまうような言い方だね」
「・・・」東村君は黙ったまま、傾く夕陽を見つめている。
「そう、そうなんだ。東村君、行ってしまうんだ。折角入ってくれたのに残念だよ。それに僕達の友達の会からも出て行くんだね。何もかも最後だなんてとても悲しいよ。そ、それに・・・それじゃあんまり、あんまり、真理ちゃんが可哀想じゃないか」
「厭だ、あっちゃん。そこの所、悲しいとこなのに駄洒落入れちゃって」
思わぬあっちゃんの言葉に、涙ぐみながらも笑いを入れた。
二人も泣き笑いしていた。
「僕さあ、明日、君の選別代わりに精一杯、演技するよ。見てて、本当に本当に心を込めてならおをやるよ」
そう言うと、あっちゃんも去って行った。
「谷口君って、優しいんだねえ。良い人なんだ」
「なあに、今頃気付いたの。あなたが友達の会に入りたいと言った時、例え僕一人でも友達になるって言ってくれたんだよ。でも、みんな良い人だよ、わたしの友達は。武志君も健太、健太様も。そういい人ばかり。そうだ、お別れに桜ももう直ぐ咲くだろうから、六色沼で友達の会で花見と別れの会を開こう」
東村君の顔を見る。何となく笑顔が寂しい。
「桜が咲くまではいられないのね?」
「今度行く中学は男子校なんだ。それに競争が激しいらしい。僕は終業式の次の日に父方の祖父の家に越さなくちゃ行けないんだ。そう明後日。明後日から僕は殆ど自由が無い日々を過していかなくちゃあいけないんだ」
「そう、でもそんな考えはよそうよ。自由が無いなんて、自分が今やってることの中に喜びを見つけて、
只管、努力すれば、屹度青空が見えるよ、輝く星も見えるよ。わたしは信じているよ、あなたがその大空目指して飛びたって行くって」
「そうだねえ、君のお母さんの画を早く買いに来なくちゃいけなかったんだ。落ち込んでる場合ではないよね」
「そう、早くしないと、良い画から売れて行くからね」
4回のエレベーターの扉が開く。
「さよなら、又明日ね」と小さく手を振った。暫く扉は開いたままだったが、やがてドアは閉じ彼は消えて行った。
後何回彼にさよならが言える?後1回だけ。若しかしたら、もう明日は言えないかも知れない。人生何があるか分らないんだもの。その気持ちを抱きつつ我が家のドアを開ける。
「只今ー」「おかえりー」何時もの母の声が聞こえた。
翌朝、武志君がわたしの家のドアの前に立っていた。
「あら、今日は朝練ないの」
「まあな、お前にちょと話があってさ」
「何の話?今日の劇の話なの。もすこし色っぽくやれとか。あ、でもそれは無理。一つ目はまあだ幼い子供だし、そのために小学校時代のスカートを引っ張り出して、母に無理言って、ウエスト部分を直してもらったんだ。それにね、二つ目はもっと色気なし。何しろ茶色の猟犬で雄犬と来ている。残念でした。所でさ、今回もビデオ宜しくね。今回は初めて女の子をやるんだから、色っぽくは無いけど、杉並のじっちゃん、ばっちゃんが楽しみにしてるんだ。それなりに可愛く撮ってよ」
彼がビデオのカメラの入ったバッグを持ち上げて見せた。
「昨日さ、敦から電話があって、東村の事聞いたんだ。あいつ、直ぐいなくなるって本当か?」
「ええ、直ぐよ。明日には東京に行ってしまうの。競争の激しい学校に行くんですって。自由がなくなるって落ち込んでいたから発破掛けてあげた」
「明日あ!何にも出来ないじゃないか、あいつを送る会」
「わたしも桜を見る会をかねて送別会をやろうと提案したら、こういう話なの」
「ふうん、今日しかないんだ、あいつを送り出すのは。考えてみるよ、健太や沢口の知恵も借りて」
「連絡は」
「それが一番難しい。まあ演劇部以外の女子には、劇の間に紙で連絡するしか方法はないだろうなあ。演劇部の三人には、劇が終わった後、用があるから暫く待つようにって言ってくれ」
「分った、そう言うわ」
「お前、大丈夫か、敦がお前の事、相当心配してたぞ。俺はお前の事だから大丈夫だって言っておいたけど。でも、矢張り心配だよ、折角上手く行きかけてた所だっのにさ」
「ハハハ、人生、そんな事ぐらいでおたおたしてたら、立派な大人には成れないぞ。真理は強い、心の強い大人に成るんだもん」
「そうか、真理は強い大人に成るのか。でも時には弱くても良いんじゃないか?」
「そんな事言われると・・泣けてくるじゃないか。これから、わたしは劇をやるんだぞ、わたしの出番は2幕目と3幕目。どちらもお涙頂戴は無いの。見てて、明るく楽しく、そして凛々しくやり遂げて見せるから」
学校に着いた。武志君と別れ、教室へ向かう。
「いよいよだね、今回わたしの見せ場は無いけれど、脇役に徹してやる積りよ」
篠原女史が傍にやって来た。彼女は東村君のことは何も知らない。
「その意気で頑張ってちょうだいな。あ、そうそう、劇が終わってもちょっと待てて呉れる。少し用があるの。若しかしたらその後、沢口君と会えるかもよ」
「えー、本当、嬉しい。何か友達の会でやるの?まだ桜は3部咲きだけど、桜を見る会とか」
「3部咲きか、そのくらいが当っているかも。うん、言えてるかもね。ハハハ」
「何よ、何が言えてるのよ」
「良いの良いの、忘れて。わたしの独り言」
篠原女史をそのままにして東村君の所へ。
「今日、劇が終わって少し時間ある、出来たらあなたの送別会をやりたいの。急な事だから特別なことは何も出来ないけれど、みんなであなたを送り出したいの。折角友達の会に入ったのに、こんなに早く送り出さなくちゃいけないなんて、ちょっぴり寂しくて残念だけど仕様が無いわ。せめて陽気に送らせて欲しい」
東村君は暫く黙ってわたしの顔を見つめていたが、最後に笑顔になって言った。
「ありがとう。送別会、やってくれるんだ。嬉しいよ、僕も陽気に分かれて行こうかな」
始業式が始まった。
校長先生ももう観念したらしく、今日は話もずっと短めに済ませたみたい。
いよいよ演劇部、美術部、衣服部合同の発表会だ。
第1幕目の幕が開く。
篠原女史の声が流れ、、卒業生たちが引き受けてくれた音響係りによる雪の吹雪く音が流れる。
あっちゃんの出番だ。上手い。今までで一番上手い。本物の雪がそこに降り積もっているようだ。
雪女も雪わらしも衣服部の努力のお陰で本物(わたしは見たこと無いが)そっくり。寄って、迫力満点。松山君との絡みも息を呑むばかり。
その間のあっちゃんはどうしてたか?死んだ振り、イヤイヤそうではない「父ちゃん、頑張れえー。父ちゃん頑張れえー」と言いながらガタガタ震えていたのだ。
村人に扮したみんなも東北弁にスッカリ馴染んだ口調で、しんみりと演じきった。
篠原女史はナレターから村人に変身だが、単に蓑と雪避け笠を着ければよいだけだ。
みんなの熱演のお陰で見るものの涙を誘った。
第2幕目。
篠原女史に成り代わり北山さんがナレーターを勤める。
「明るくね」と声をかける。
音響で雲雀の囀り。遠くの牧場の絵が抜群だ。
わたしと上原君の出番。そして東村君の登場。ウホホホ、かっこいい。気取り屋の狐にピッタリ。
みんなで歌うわらべ歌。それからそれに併せて踊る。初めは輪になって、次にわたしと東村君、篠原女史の狐と上原君、二組で踊る。
明るく明るく、これでもう二人で踊ることは無い。最後は笑顔で彼の演技を終わらせたい。
「息ぴったりだよ」健太の声。
「俺達も踊りたい」沢口君の声。続くみんなの笑い声。
そのとき東村君の手がわたしの手をギュウッと握り締めた。
わたしは彼に笑顔を向けて頷いた。
第3幕目。
ここも北山さんの名調子。
わたしは大急ぎで可愛い(?)女の子から凛々しい猟犬に変身。と言うか、全身茶色ずくめに変員した。
勿論他の犬役の二人も白ずくめに変身。篠原女史らがやる山猫は殆ど姿が見えないと言う事でへんしんなし。只山猫を描いたお面を、頭に頂いてはいる。
流石に貸衣装店から借りたものは全て本物で、これが最後であって良かったと、密かに山岡女史は胸を撫で下ろしているであろう。
新入りながらも散々指導を受けたお陰で紳士の二人も、如何にも憎憎しく、気取り屋で、尚且つ軽率でとんまな役を見事にこなしている。
それだからこそ、顔中にクリームを塗りたくるシーンで、観客が腹を抱えて大いに笑うことが出来ると言う物だ。
劇が終わり、北山さんのナレーションで美術部と衣服部が紹介され、拍手と共に壇上に上がる。一層の拍手が鳴り響いた。彼等も誇らしく感じているだろう。
わたしはアッちゃんの所に行った
「アッちゃん、昨日武志君のとこに東村君の事電話してくれたんだって。それでね、彼さあ、明日もう東京に行ってしまうんだって」
「え、明日にはいなくなるの」
「そう、だから、今日、みんなでお別れの会をやるしかないの。どういう風にやるのかは、他の男性3人に任せてあるから分らないの。でも兎に角、この後集まろうと言う事だけは決まっているからその積りでね」
「そう、分った。急な事で何にも出来ないよね。でも僕は東村君は君だけに送ってもらった方が、ずっとずっと嬉しいと思うよ」
「またまたアッちゃん、そんな事言って。でも、わたし達友達の会の仲間よ、彼もみんなに見送られたいと思ってるはず。彼はこっちの学校に来て間が無かったから、友達と呼べるような人が殆ど居なかったから、みんなで送ってもらえたら、どんなにか嬉しいか知れないわ」
「そうだね、僕達友達の会なんだよね。みんなで彼を笑って送り出してあげよう」
「それからもう一つ、今日のアッちゃんの演技素晴しい出来だったわよ。山岡先生も屹度満足してると思うわ。先生がそれを口に出すか出さないかは分らないけどね」
「ありがとう、ありがとう。台本書いた人にそう言われて最高に嬉しいよ。このクラブに入りはしたものの、体力ないし、台詞も言えないし、どうしようかと悩んだ事もあったけど、真理ちゃんの事を考えてさ自分に言って聞かせたんだ、真理ちゃんはもっともっと苦労しているんだって。そして今、入部して良かったなあって思えるんだ」
あっちゃんは今まで見たことも無いような誇らしい笑顔で答えてくれた。
舞台の後片付けもスッカリ終わり、解散の運びになった。
何とその片づけを友達の会のみんなも手伝ってくれたのだった。しかもその間に美香と千鶴は飲み物と食べ物(多分千鶴の内からの差し入れだ)を用意していた。
「さあ、行こうか、六色沼へ」武志君が叫ぶ。
「おう」と健太と沢口君が後に続く。
篠原女史が朝言ってた通り桜は3部か4部咲きというところ。でも今日の気温は四月の中旬を思わせる陽気となっていた。
皆で公園の中ごろまで進む。ベンチある。
「少し定員オーバー気味だけど、蔓延防止も緩和されたし、俺達、ノンアルコールだもんな。ま、間を空けてベンチに座ろう」
わたしを挟んで同じベンチに東村君と沢口君。あっちゃんを挟んで千鶴ちゃんと篠原さん(篠原女史には少々不本意だろうが)健太と睦美ちゃん、美香ちゃんと武志君という風に5つのベンチを占領した。
武志君が又立ち上がって演説を始める。
「えーと、何だっけ。そうそう、今日みんなに集まってもらったのは、ここに居る東村君が明日東京の家に行ってしまうと言う事なので」
「何ですって、東村君が東京に行ってしまうんですって。どうして、どうしてなの、彼この間ここに引越しして来たばかりじゃないの」
何も知らされていない篠原女史がわめく。
武志君が咳払いを一つ。それから又演説を続ける。
「本当に短い間だったけど、これも大人の事情と言う事で、仕方の無い、俺達子供というか中学生にはどうすることも出来ないと言う事で、彼はここから旅立って生きます。みんな、快く送り出してやってくれないか」
「わ、わたしは構わないけど、ええ、快く送り出してあげるわよ。で、でも、一人快く送り出せない人がいるんじゃない」篠原女史が食い下がる。
「それは分っているんだ。でも、それでも快く送り出してやりたいんだ。彼が将来、自分の人生を振り返った時、ああ、僕の中学時代にはあんな友達が居たなあ、みんな、温かく送り出してくれたなと思い出してくれる為に。快く快くだよ、篠原さん」
「それじゃあ、ジュースで乾杯しましょう」と美香が立ち上がってジュースを配る。
ジュースが行き渡る。
「じゃあ俺から」と健太が立ち上がる。
「乾杯の前にさあ、一言言わせてもらうよ」睦美が下を向いてくすくす笑う。
「今年の初めと言うか、始業式があった次の日に東村が真剣な顔して俺の所にやって来た。俺にテニス部を辞めさせてくれ、どうしても演劇部に入らなければいけないんだと言うんだ。だから俺は真理に誘われたのかって言ったんだ。そしたらこいつがそうじゃない、自分の意思でどうしても行きたい、行かなくちゃならないと決めたんだって。まあ真理をかばってそう言ってるんだと思ったよ。でもさ、俺だって真理が怖いからな、ここは気持ち良く快諾しない訳にはいかないだろう」
真理が怖いと言う所でみんな笑った。え、わたしが怖いですって、何処が?可愛くってさ、優しくってさ、少しオッチョコチョイかも知れないけどさ、気のいいわたしの何処が怖いの。反対に乱暴でガサツこの上ない健太の方が怖いと言う方があってるじゃないか?私自身は怖くは無いけどさ。
「と言う訳で彼は喜び勇んで真理の元へ、じゃ無く、演劇部の部員になったわけだ。今日も二人で意気ぴったりに踊ってた。ここまでは良いよ、俺も良いことしたなと、真理に褒められる事はあっても恨まれる事は無いとね。ところがさあ、明日には東村が東京に行ってしまうと言うじゃないか、こりゃあんまりだよな、酷いよなあ、みんな。でも武志がさ快く送り出してやりたいって言うから、俺も仕方なく快く送り出そうと決めたんだ。さあ乾杯だあ。うん?なんに乾杯するんだ、良い旅立ちにかそれとも・・ええい面倒くさい、兎も角なんでも良いから乾杯だ。じゃ、えー、乾杯!」
みんなジュースの缶を上げて「乾杯」と声をそろえた。
次に沢口君が立ち上がる。
「東村君とは本当に短い付き合いだったけど、ずっと気にはなっていたんだ」
「恋敵だもんね」篠原女史が口を挟む。
「そう、そうなんだ。彼は正真正銘の好い男だし、正真正銘の秀才だ。それに山下君によると抜群にテニスも上手い。適いっこないと半分諦めムードだったんだ。それが振って湧いたような転校の話」
「チャンス到来」これは健太の声。
「本当だよ、これで、ま他にもそう思っている奴が居ると俺はいると思うんだ。だから、心から喜んで送り出せるというもんだ。東村、あとは安心して東京の学校で勉強に励んでくれ。あそれから、今日の二人が踊っている時の写真、撮って佐々木美香さんにプリントしてきてもらったから、これを進ぜよう。何を貰うよりこれが一番だよなあ」
みんなで写真を除きこむ。
「あ、わたしも踊っていたのに一枚も無い」篠原女史が叫ぶ。
「アンタが写ってる写真を貰ったって誰も喜ばないよ」健太が言う。
「ひどーい、誰も喜ばないって」
「大丈夫だよ、写真部がチャンと撮っているって」優しいあっちゃんが篠原さんを慰める。
「二人とも楽しそうに踊ってる」千鶴ちゃん。
「心で泣いて顔で笑うって所よね」美香ちゃん。
「でも、これを恋敵に渡すのは、敵に塩を送るってことよね」睦美ちゃん。
「と言う事は、昔の武将の心意気ってとこだなあ、沢口」健太。
「さあ、みんなで集合写真を撮ろう。東村には後でプリントして島田さんに持って行かせるよ」
カメラマン沢口君がみんなを並ばせる。
「うーんと、俺も入らなきゃ」沢口君、きょろきょろ見回す。
そこに丁度早い花見客だろうか通りかかった人達。その一人を捕まえると、スイッチを押してもらうようにお願いする。通行人の彼、勿論快諾。少々アルコールが回っているみたいだけど。
「好いよ、みんな笑って、笑って。ハイチーズ」彼の言葉にみんなの笑顔がはじける。
おじさん、自信がないのか4,5枚ほど取り直した。
「みんな、本当にありがとう。日本に帰ってきて、友人が出来ない僕の友達になってくれて、とても嬉しかった。初めは島田さんと友達になれれば良いと思っていたけど、そうじゃない、みんなと友達になれることが大切なんだと思い直したんだ。だって本当にみんな、友達思いなんだもの。もっともっと早くみんなに巡り合っていたら、どんなに素晴しい事だったろうと思うよ。いい思い出をありがとう、感謝しかない。何の御礼も出来ないけど、何時か必ずここに戻ってくると誓うよ」
「うん、その日まで俺達がいるとは限らないけど、状況も変っているかも知れけど、それを覚悟して戻ってこいよ、必ずね」
武志くんの言葉がわたしの心に突き刺さる。若しかして武志君もいなくなる?今まで傍にいるのが当たり前だった、普通の事だった、その武志君までいなくなったらわたしはどうすれば良いの。
「じゃあ、おなか空いたでしょう、これ食べて、わたしからの差し入れ」
千鶴ちゃんがフライなどが詰まったパックを渡す。
「ねえ、真理ちゃんも何か喋ったら。お芝居で言ったらヒロインじゃないの。ヒーローが去って行こうとしてるんじゃないの、ここで言わなきゃ、言う時は無いのよ。何だか、ボーとしてて何時もの真理ちゃんじゃないみたい」睦美の声にはっとした。
「ああ、御免なさい。少し考え事しててぼんやりしてたわ。わたし、初め東村君が山岡先生の策略に乗って、提出した詩がみんなの悪評を買った時、彼が一人、褒めてくれたのがとても嬉しくて感謝の気持ちで一杯だった。次に気付いたの、彼がここいらの人達と違った雰囲気を持っているって。彼を主体にした台本が書けたらどんなに素敵だろうと。聞けば、何と健太、健太様が牛耳るテニス部にいるって話じゃない。どう考えたってこのわたしが居る演劇部の方が絶対に相応しい、是非演劇部に来て欲しい。でもその色よい返事は貰えず、年を越してしまった。彼から返事が貰えたのが今度の台本を書いた後。でも嬉しかった、とてもとてもね。ところがどうもおかしい、何となく彼がどこか遠くに行ってしまう雰囲気。それは見事に命中した、彼曰く、明日には東京に行かなくちゃならないと。正直に言おう、彼が行ってしまうのが、堪らなく寂しい、とても悲しい。そして何より残念。彼は我が演劇部の輝く星に成れたかも知れないのに、明日からそう言う事を振り捨てて、日本を代表する外交官を目指して行くんだって」
「もっともっと、本心を言わなくちゃ駄目よ。そうじゃなくちゃここに居るみんなが納得しないわよ」
篠原女史の声。
「そうだ、そうだよ。東村も真理も本心を隠したままで別れていくのか」
健太の声だ。うーむ、デリカシーの無い奴らめ。
「俺達は若いんだよ、まだ自分の心という物がはっきり見えていないんだ。だから、二人の話は真理が今話した事で十分なんじゃないか」武志君がフォローする。
「そうだよ、島田さんの話で十分だよ。これ以上何を聞きたいんだ」沢口君も賛同する。
あっちゃんも美香ちゃんも千鶴ちゃんも頷く。
「さあ、折角の千鶴ちゃんの心尽くしが冷めちゃうよ、早く食べよう」
あっちゃんの声を合図に一同、先程まで温かだったに違いないフライや天麩羅などを食べ始め、腹ペコのお中を満たして行った。
「ご馳走様、村上千鶴さん。そして僕のためにこうやって送別会を開いてくれたみんな、ありがとう。東京に行ってもみんなの事は忘れないよ。きっと、遠く離れた南米やアフリカの国に行ったとしても、決して忘れないよ。今までの事、今日の事、一つ一つが僕の宝物だ。良かった、みんなに出会え、友達と呼ばせてもらえて。僕は本当に幸せ者だと思う」
東村君の言葉を最後にお開きになった。夫々のゴミは夫々のゴミとして持ち帰る、それは常識。ゴミを持って夫々の家に戻って行く。
武志君と東村君、わたしは無言のままマンションへ向かう。
エレベーターに乗り込む。
「悪かったね、先日君に当る様な事言って。少し焼いてたのかなあ、君たちが急接近して行くのが」
武志君が呟く。
「いえ、僕は僕で藤井先輩が羨ましかったんです」
「じゃあ、あれはお互い様と言う事で、水に流そうか、ハハ」
四階だ。扉が開く。
「明日、何時に出発?」
「朝の9時にはここを出ます」
「そう、見送れたらマンションの入り口の所で見送るよ。じゃあな」
扉が閉まった。
「後で沢口が来たら、お前の所に行くから待ってろ」
「ああ、集合写真ね。良く映ってるといいね」
「あの時4,5枚は撮ったから、彼が酔ってたとしても、大丈夫だと思うよ」
武志君に何か言い忘れたような気がしたが、思い出せないまま玄関の前で別れた。
「東村君ね、明日9時に東京に出発するんですって」
自分の演じたものの衣装は自分で綺麗にして、演劇部の倉庫の中に返却するのが決まり。わたしは犬、小虎の着ぐるみ、それだけだ。一応それを洗濯籠に入れる。
母が遅い昼御飯を用意してくれた。
「焼きソバよ。それからサラダ菜とミニトマト、チーズのサラダ。飲み物は・・ルイボステーで好いかしら」
「あ、ありがとう。いただきます」
「いよいよ彼、引かれたレールの上を走り出すのね。彼なら屹度大丈夫、屹度立派になってわたしの画を買いに来てくれるわ。楽しみにしてるってわたしが言ってたと、若しもう1度彼に会うことがあったら、伝えて頂だい」
「ウン、でも、昨日わたしが言ったよ、母の画を買いに来るのを待ってるって。あ、そうじゃない、彼がお母さんの画を買いに来なくちゃいけないって言ったから、早くしないと好い画から売れちゃうと言ったんだ。ええっと、それを言ったのはもっと前、武志君に言われて、そう言われてから直ぐだ、彼に言ったの、お母さんの画を買いに来るのを待ってるって」
「そう、武志君が何か言ったのね・・・そうよね、あの言葉はわたしじゃなく、本当は真理に言いたかった言葉だったんだもんね。武志君って東村君の気持ちが直ぐ分ったんだ」
又そのとき何か大事な事を忘れていると頭の中を掠めていった。でもそれが何なのか形として姿を現さなかった。
「いいよ、お母さんも首を長ーくして待ってるて伝えておくよ。その方が彼、忘れないよ。美女二人の言葉だもん」
「美女って、真理とお母さん?」
「それ以外誰か居る?」
二人で笑った。
4時頃、玄関のチャイムが鳴る。武志君と沢口君が立っていた。
「写真プリントして来たから東村のとこに持って行ってくれ」
わたしは二人を見つめる。
「三人で持って行こう。その方が向こうもこっちも良いと思うな。余計な神経使わなくて」
「余計な神経使うよ。最後なんだぜ、もう二人きりに成ることはないんだぜ。本当は昼間、俺達が送別会なんてやらなかったら、二人で語り合う事も出来たろうに、残念ながらそれをさせることが出来なかったんだ。その埋め合わせに、せめて最後の最後、この写真を持って行って、最後の別れをさせようと云う心積もりなんだ。分ったらさっさと彼のところに持っていけ」
「武志君達の気持ちはよおく分かったわ。でも、良いの、二人の時間はもう終わったの。それに、彼の部屋には伯父さん伯母さんが居るのよ。二人きりにはどっち道なれないわ。さあ、分ったら三人で行きましょう!」
「分ったよ」武志君は説得を諦めた。
三人でエレベーターに乗り込む。
「山下の言ってたのは、本当だったんだな。半分冗談だと思っていたけど、あれは山下の真実の声だったんだ」沢口君が呟く。
「ああ、真理が怖いって話だろう。本当だよ、誰も適いっこない。クワバラクワバラ、ハハハ」
「何がクワバラクワバラですって。こんな可愛いか弱き乙女を捕まえて、失礼な」
7階に着いた。廊下側は斜面になっているから(4階も当然そうである)余り高いとは感じない。
南西の角に彼の伯父さんの住む処がある。
チャイムを鳴らす。
「はーい」女性の声だ。伯母さんに違いない。
「東村君の友人ですが、写真を届けに来ました」武志君が代表として答える。
「あ、ハイ、直ぐ開けます」
ドアが開く。東村君が出迎える。
「御免、三人で押しかけちゃったよ」
「いえ、どうぞ入って下さい」
三人、ゾロゾロと上がり込み、廊下を通ってリビングルームに行く。
この頃は4時と言ってもまだ明るい。流石にここから見るとはっきり4階と7階の差が分る。
見慣れた六色沼は遥か下に鎮座し、南から西へと、月見区中央駅から六色沼、遠くの春山公園、その先の先までよおく見通せる。
「ヤッパリ、7階は見晴らしいいなあ。4階とは全然違うよ」武志君が言う。
「うん、そうだねえ。違った印象だな。同じマンションなのに」沢口君。
「さあ掛けてください。先程はありがとう御座いました」東村君。
そこにさっきの声の主(多分)が紅茶とケーキを運んでくる。
「先程は勇一のために送別会を開いて頂いたそうで、感謝いたします。何しろ日本に来てから日も浅く、友達も出来なくて寂しくしていた時に、同じマンション住むよしみでお友達の会に入れてもらったばかりか、お別れの会まで開いてもらって、本当にありがとう御座います」
ああそうだった、東村君って勇一って名前だったのだ。まあプログラムの配役の所にキチンと書かれてはいたが、殆ど気にしてなかったので、今改めて彼の名前を認識する。
「イヤイヤ、お礼を言われるようなそんな大袈裟な物ではないですよ。ま、さよなら短い間だったけど、忘れるなよ、と言う程度のものですよ。な、沢口」
「ああ、本当に、ささやかなささやかな集まりです。だから記念品代わりに写真持って来ましたよ、ハハハ」沢口君が写真を取り出す。
「通りかかった人に頼んだけど、少しお酒が入っていたみたいだからちょっと心配だったけど、今頃のカメラは少々のブレではビクともしませんね、ほら、みんな、良く取れてます」
「まあ本と。良く撮れてるわ。勇一も、それから真理さんも」
伯母さんはわたしの事知ってた。武志君も沢口君も吃驚して彼女の顔を見つめた。
「ホホ、知ってますよ。勇一が真理さんの事を大好きだって事もね。真理さんが台本書いて劇をするのは、勇一よりもわたしの方が先に知ってましたよ、このマンションの住人なら、ええ、みんな知ってるんじゃないかしら。人の口には戸は立てられぬと昔から言いますもの、ホホホ」
「うーん、犯人は内の母だ」武志君が唸る。
「良いじゃないですか、けして悪口じゃなくて素晴しい話として広まったんですから。勇一がここに来てから暫くして、素敵な詩を書く子がいるって言うのを聞いて、ああ真理さんの事だなと思いましたよ。だから教えてあげたんですよ、真理さんのお母さんは河原崎多恵さんと云う画家さんよって。そしたら今度はお母さんのほうを調べて、スッカリその画のファンになって、河原崎多恵画伯の画が欲しい、何て言い出す始末。私共が買おうかと提案しましたら、絶対僕のお金で買いたいと言うんですよ。でも、その一方で真理さんにはドンドン引かれていったみたいです。仕方ないですよね、真理さんは本当に才色兼備のお嬢さんだから。何だか恋敵も何人か居るみたいで」
武志君と沢口君が下を見て苦笑い。
「御免なさい、若い人達の邪魔して。余りと言うか、全然と言うか、こんなに若い人と話す機会がなくてつい、浮かれて話し込んでしまったわ。じゃあわたしは向こうに行きますから、後は若い人達でやって下さいな」伯母上は台所の方へ消えて行った。
「東村君が居なくなったら、伯母さん寂しくなるわねえ」
「僕もそれが少し気がかりなんだ」東村君も頷く。
「そんなに頻繁には来れないけど、わたしや美香達で訪問してあげようかな」
「え、本当。伯父や伯母、とても喜ぶと思う。ありがとう島田さん」
「じゃあもう一つ。母からの伝言、あなたが画を買いに来てくれるのを待ってるって。わたしも先日伝えたって言ったけど、これは母からの正式な要望なのよ」
「美女二人から言われたんじゃ、忘れる訳にはいかないね」沢口君がわたし達の会話を聞いていたように付け加えた。
明日の朝、9時前にマンションの前でもう1度見送ることを約束して暇を告げた。
夜、母が聞いた。
「悲しくない?」
「ううん、どうして」
「東村君、行ってしまうのよ。素敵な男の子だったわ」
「彼は新しい出発をするのよ。寂しくはあるけど悲しくはない。何時かはみんな、夫々の道を選んで旅立って行くんだから。その門出を悲しいなんて言えないよ、夢をかなえて、出来たらもう1度だけでも帰ってきて欲しいとは言えるけど」
「旅立ちか。少し早い旅立ちなのね。大学の卒業式、本当にそれは夫々の道への旅立ちだった。もう一生会えないかも知れない別れだったわ。そうね、悲しくはなかった、その時は自分も旅立って、新しい道を歩いていくから、友との別れを悲しいとは全く思わなかったわ。でも後から、時々思い出すのよ、ああ、あの人はどうしてるかな、あの人は元気かしらって。会えないうちに若い命を散らしてしまう人も居たりして」
そこで思い出した。武志君のことだ。そのことがズーと気になっていたのに、聞くのが怖くて、はっきりさせる事が怖くて、記憶の向こうに押しやっていたのだ。
「あのさ、隣の藤井家って引越ししたりする?」
「何よ、唐突に」
「大きい会社って転勤があるのよねえ?でも今までは上手い事に東京や勾玉での転勤だったから、ここに居られるっておばさんが話していたのを、聴いた記憶があるんだ。若し、大阪や九州なんかに行く事になったら、みんなで引越ししてしまうのかしら」
「実はね、お隣は自分の家ではなくて、その会社のものなんですって。だから、おじさんが単身赴任したとしても、おばさんと武志君は別の家を借りて住まわないといけないのよ」
「じゃあおじさんが一都三県以外に転勤しないように祈るしかないんだ」
「ウン、でもおじさんも大分年が上になってきたから、偉くなって大阪や福岡の支店長なんて事も考えられるわね」
「厭だ、厭だよ。武志君が行ってしまうなんて、考えたくない」
「馬鹿ねえ、そんな話は今の所全然聞いていないわよ。東村君の時はあんなに冷静に受け止めてたのに」
「東村君とは話が違うわ、彼は飛び立っていくのよ、武志君はおじさんに引きずられて行くの。それに彼にはここに伯父になる人がでんと控えている。でも武志君はわたしの知らない所に行ってしまう。それに付き合ってる年月が違う、武志君はわたしの家族そのものなんですもの。おばさんも同じだわ」
「そうよねえ、長い付き合いだわねえ。あなたの乳離れが中々進まなくって困っていた時、ほんとにお世話になったわ。あの時二人に巡り合えなかったら、あなた、未だに乳離れしていなかったかも。ハハハ」
「まさか!でも今後、そう言う事がいつ起こってもおかしくないって、頭の隅っこに入れて武志君と接しよう」
その後、父も交えてその武志君が撮ってくれたわたしの出番の所のビデオを見て過した。
翌日、武志君と二人でマンションのエントランスに下りて行く。
暫くすると武志君が知らせたらしく、みんなも見送りにぼつぼつと集まって来た。
東村君も大きなバックを抱えて降りてくる。伯父さん伯母さんも一緒だ。矢張り手にバックを持っている。どうも一つでは収まりきらなかったようだ。
「みんな、わざわざ来てくれてありがとう。本当にみんなと友達になれて良かった、忘れないよ、何時までも」東村君が最後の挨拶をする。
「最後の最後まで、こんなに温かく勇一に接してくれて感謝の言葉もありません」
伯母さんの挨拶。
「では、行って参ります」伯父さんの言葉に3人は一礼をして駅の方へ歩き出す。
「さよならー」「頑張れよー」「負けるなよー」
みんな夫々に別れの言葉を発した。
3月の空は晴れ上がり、桜の花も一気に咲きそろい、満開に近づきつつあった。
次回に続く お楽しみに