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春の山の幻影

作者: 黒森牧夫

 「高山植物を守る会」の気の合う仲間数人と水晶山へ出掛けた時のことだ。雪解け水で水量が増した川はまだ手がかじかむ程冷たかったが、季節はもうすっかり春の始まりに入っていて、残雪の消えた山はどちらを向いても萌え盛る緑だった。その前の月の初めにはまだスキーが出来て、雪の上の兎の足跡もはっきり見分けることが出来たし、朝のまだ日の昇り切らない内は黒々とした土に軽く霜が降りたし、少し強い風が吹くとやや肌寒い位の心許無い陽気ではあったが、全てが余りにも穏やかで、目覚めと芽吹きが齎す生き生きとした予定調和に満ちていて、凡そ地上に存在しているもので目に入って来るあらゆるものが、光と熱を求めて外へ外へと手を伸ばし、新しく開かれて行く世界の感触を、言葉などで表現するのが不粋に思われる程の喜悦で以て、全身全霊を上げて愉しんでいた。空は幾つかの層雲の断片を交えて晴れ渡っていたが、冬の時の様な厳しさは既に無く、土はしっとりと湿り気を帯びて温かく輝き、大気の中には長いこと眠り込んでいた様々な雑多な匂いが仄かに涌き上がって来ていた。少し前まで荒れ寺の様だった杉や樺の木々も新たな色を全身に纏おうとして秘かに、しかしじっくりと深く呼吸を始めていて、うっかり思い出したように散在する貧相な葦の茂みさえ、自分達には根があったことに気が付いて頭を擡げ始めていた。そして、涌き水の様に流麗に大暴発する何百種と云う木、草、花、虫、苔、茸、黴………!

 頂上で握り飯とゼンマイと漬け物とほうじ茶とで一息吐いた後、下りはリフトに乗ることにした。別に既に老いを自覚し始めていた自分達の体力に自信が無かった訳ではない。そうではなくて、下りの時間を切り詰めれば、日が暮れる前に別のルートへ寄り道して帰って来られるだけの余裕が出来るだろうと踏んだからだった。他に登山者は殆ど居なかったので、私達は二人掛けのリフトに一人ずつ腰掛け、ガタンゴトンと揺られつつ、歩かなくともひとりでに後ろへ退がって行く新緑の風景をのんびりと楽しんだ。私は、乗り込む前に靴の紐が解けてしまい、それが軍手を嵌めた儘では結び直せなかった為、他のメンバーから二つ三つ空けた後の席に乗り込んだ。私達は皆元からお喋りな方ではなかったし、その時間に言葉など不要だった。私達は満ち足りた沈黙の中で、春の息吹きを凝っと全身で受け止めた。何処か遠くでヒヨドリが啼いていた。私は手摺りに軽く体重を掛け、流れ行く平和そのものの生命いのちの風景を、見るとも無しに眺めていた。

 不図気が付くと、私の隣の空いている席に、私の姪が座っていた、ハッとしてそんな莫迦な、とよく見てみると、やはりそこは空席の儘で、只の空間しか有りはしなかった。雨風に晒されて色褪せ、端の方があちこち欠けている時代懸かった木の板切れの上には、何も、何者も、存在してはいなかった。それは春の日が見せた錯覚、一時の幻影だったのだ。だが、そうと分かっても尚私の瞼の裏には、その彼女の姿がありありと焼き付いていた、彼女は腿の上に両手を揃え、顔を少しだけこちらへ傾け、大きな瞳は私の目をやや上目遣いに覗き込み乍ら、目の下にあの見慣れたぎこちない翳りを湛えつつも、口許に僅かな微笑みを浮かべていた。年の頃は十四五六、私の家に居た頃の姿をしていた。目には見えなくなっても、そこに彼女の面影がまだ残留しているのが私にははっきりと分かっていた。

 その間違え様の無い認識に続いて、急に何処からともなく胸を刺す様な痛烈な喪失感が襲って来た。おかしなものだ! 確かに彼女が東京の大学へ行ってからは滅多に会うことも無くなったし、彼女が結婚して結局あちらに居を構えてしまってからは、益々距離が遠くなった様な気もしないでもないが、別に死に別れた訳でもなし、会いたくなったらいつでも会えるのだし、家に帰って電話を掛ければ、直ぐに声だって聞くことが出来るのに。

 だがそんなことは問題ではなかった。その時に意味を持っていたのは、今、この場所に彼女が居ないと云う事実であり、その一事こそが、少なくともその瞬間の私にとって肝心なことなのだった。そしてその痛切な自覚が胸の奥に滲み出て来ると同時に、彼女が竟に私を理解することが無かったこと、そして私もまた竟に彼女を理解することの無かったことが、残酷なまでに明晰に啓示されて来た。確かに私は彼女を失った。いや、彼女をずっと失って来たのであり、それと共に、彼女と共存出来たかも知れない世界もまたそっくりその儘失ってしまっていたのだった。私が私であり続ける限り、この底無しの溝は決して埋まることが無いのであり、畢竟、彼女が私の隣に座ることは永久に無いのだ。認識の峻厳な冷徹さを思い出してしゃんとしようとしたが、無理だった。愕然とした私を置き去りにした儘、私が実の娘と思って愛情を注いで来た、いや、そう努力して来た筈の彼女の幻影は、それを溶かし込んだのどかな春の山の光景と共に、無慈悲にも後ろの彼方へと過ぎ去って行った。

 この辺では珍しい雲雀が、天高く駆け回り乍ら盛んに啼き立てていた。リフトは丁度大きな瘤をひとつ越えたところで、眼下に騒々しいまでの緑が麓まで広がっているのが一望出来た。だが私は私を誘い、眼前に迫って来て、傍らを通り過ぎて行く景色を見てはいなかった。顔がくしゃっと歪むのを感じた。泣きたいと思った。泣くべきだと思った。

 だが涙は一滴も出ては来なかった。

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