夏妃
私は夏の香りがする。夏の灼熱の太陽が畑にもたらす焼いた土の匂いだ。真夏に生まれた私を両親は「夏姫~なつひ~」と名付けた。女の子の名前にしてはまあ許容範囲だ。隣の家に住む「ゆきひょう」とは幼馴染だ。彼の名は父親が名付けた。親戚中の猛反対を浴びたらしいが結局「雪豹」ではなく「ゆきひょう」とすることで落ち着いた。
父の願い通り、彼はネコ科の猛獣のようなしなやかさと身軽さそして孤高の佇まいをもつ。本物の雪豹との違いはしんしんと降り積もるボタン雪のような物静かな佇まいをしているところだ。ゆきひょうは冬の香りがする。
ゆきひょうと私は聖双葉学園という私立高校に通っている。恋はまだしたことがない。ゆきひょうもそうだ。その証拠に私たちは毎朝一緒に登校する。聖双葉学園は家から十五分ほど歩いたところにある。世間からすると家柄、成績、品性の三拍子そろった子が通う伝統ある学園という評判だがそんなことには関心がない。この学園のいいところは大学までエスカレーターというところだ。無駄な受験勉強をする必要がない。授業も大学の先生が大半の科目を担当しており、それぞれの専門分野を好きにやっているといった感じで興味深いものが多い。十五分というのは言葉を交わすにはちょうど良い時間だ。ゆきひょうと話すのは退屈しない。それは、ゆきひょうの口元からこぼれてくる魔法のような言葉に起因している。例えば
今朝の会話はこんな風だ。
「罪の償いはどれが相応しい?銀の聖杯の酒に入れられし毒による死。銀のナイフで心臓を刺され消滅。コキューストに封印」
「何の罪?」
「自分を裏切った恋人を天に還した罪」
「それなら、銀のナイフ。消滅による魂の浄化が相応しい」
「僕は毒。そうだな、毒はアルカロイドがいいな。ストリキニーネ、クラーレ、リシン・・・。そうリシンがいい。ゆっくりと効いてくるから、死ぬまでに何かできるからね」
無論、言葉遊びだ。私もゆきひょうも猟奇的な趣味は持ち合わせていない。部活動もバレー部といたって健全である。ゆきひょうは交響楽だ。オーボエを吹いている彼の横顔は美しい。決して美少年ではないのだが、彫刻のようなギリシャ系の顔とは正反対とでもいおうか、名前のごとくネコ科の顔つきだ。目はくりっとして大きく、唇は少し上にしゃくれている。キスをせがんでいるかのようだ。ネコ科の赤ちゃんは愛らしく、成長するにしたがって獲物を狙うスナイパーのような精悍な顔つきとなっていくが、ゆきひょうは、ちょうど愛らしさから精悍さへの変幻の真っ盛りにある。容貌とともに魂の居所も様々な色の絵の具を混ぜたように多彩に変化していく。一歩足を踏み外すと奈落の底に落ちそうな、天空に張られた一本の綱のうえにたつ緊張感がゆきひょうとの言葉遊びにはある。私はそれが大好きだ。
そうこうしているうちに学園が見えてきた。創立百年になる学園は古いレンガでできており、中央に大きく伸びた中世の宮殿を思わせる塔に掛けられている大きな時計が、生徒たちの歩みを支配する。大正時代に造られた校舎は数回の手直しを受けているものの、キリスト教の影響を受けたゴシック風の佇まいを権威とともに保っていた。中央にある入り口の上に四枚のステンドガラスが幾何学的に並び、その上部に大きな装飾窓、さらに上部は中央に三角の屋根、その左右に円錐形の屋根が並び、頂点のところに十字架が施されっている。
「おはようございます」朝の挨拶は吹き抜ける涼風だ。私とゆきひょうも風を浴び風を返す。扉をくぐり校舎に入ると古い木造の階段が続く。古の檜は靴音を心地よく響かせる。
「ドリアードの誘惑。精霊の言霊の色はなに?」ゆきひょうの今日最後の言葉遊び。
「木の精霊の言霊の色は緑。誘惑は樹皮を切りし代償としてその若さで償われる」
ゆきひょうはこちらを向き満足げに微笑む。
教室に入ると席に着く。私はうしろから二番目の列の窓際の席、ゆきひょうは一つ前だ。ホームルームを告げる重厚な鐘が響いた。
聖双葉学園の男子の制服はごくありふれたブレザーだが、女子は日本唯一のものだ。上は普通の白のブラウスに漆黒のリボンだが、下はピンストライプのズボンなのだ。イートン校を模したものだ。もっともつい最近までありふれたプリッツの入ったツートンのスカートだったのだが、アイドルグループの影響で無粋なミニスカートが流行った際、聖双葉といえども多少の影響を受けた。イートン校に憧れる私にとって、千載一遇のチャンスだった。生徒会長である私は副会長のゆきひょうと結託し、生徒会の意見を取りまとめた。聖双葉の品格を護り、子を生む可能性を持つ女性の身体を冷えから守る、説得力は十分だった。私の目論見は結実し、イートン校のイメージも手伝って生徒からも特に不満は出なかった。
生徒会の独立は完全に保証されており、その象徴として、教師といえども立ち入ることのできない豪奢な執務室が与えられていた。むろん生徒会役員4名すべてが使用する部屋なのだが、私は生徒会長の特権を利用して好きにコーディネートしていた。
窓際に無垢材のアンチークのデスクを置いた。上に滝山水の柄のついた万年筆が置かれてある。部屋中央に無垢材のテーブル。時折パンと音を立てて呼吸をする。壁にはマチスの金魚、ゴッホの向日葵、シャガールの七本指の自画像、レンブラントの夜警が輪を描くように飾られてある。
一限目の授業は音楽理論であった。平均律において一オクターヴは均等に十二分割される。数学に長けるゆきひょは、半音上がるごとに周波数は2の12分の1乗倍となることを計算していた。12音で2倍となるらしい。平均律の長所は転調にあると教わった。どの音を基底音としても同等の音階が得られるらしい。この辺りは私にはやや難解だ、私の魂は内なる世界に逃げる。意識の中でバッハの2声が響く。軽やかに高音部が逃げる。低音部がそれを追いかける。高音部は捕まらない。低音部は待ち伏せる。高音部は笑顔でそれをかわして見せる。インベンションは雨音と調和をなすように思う。
五時限目の授業が終了すると、ゆきひょうは交響楽に私はバレーボールへと向かう。オーボエを吹くゆきひょうの横顔の美しさについては前に述べたが、音色も趣深い。オーボエの音はホールを包み込むように流れるというが、ゆきひょうの音色はよく揺らぐ。極めて微小なものだが、聞いているものに放っておけないという母性を呼び起こす。
私のアタックは灼熱の日差しだ。生い茂る葉の隙間を射抜く一筋の光を頭に描きながらブロックの隙間を通す。その瞬間身体が弓のようにしなる。
「おはよう」という普通のあいさつからわかるように聖双葉はお嬢様学校ではない。共学であるが、私は宝塚的な人気があった。尤も、1学年上の『桜~さくら』とは比べるべくもない。彼女からは春の香りがする。咲き誇る桜の香りだ。演劇部である彼女はいつも騎士のような男役だ。同性からのラブレターの数は群を抜いている。「さあ、私の魂を天に還そう」昨年の学園祭で、銀色に光るサーベルを抱いて、こう語った時は失神者が出たほどだ。
「夏妃!」
その声で我に返った。私はボールをめがけて跳んだ。ボールを腕で高く跳ね上げるとそのまま前転した。全力でボールを追うのは気持ちがいい。
部活の後、執務室でゆきひょうと落ち合う。秋に行われる学園祭「双葉祭」の打ち合わせだ。他のメンバーはまだ来ない。私はバッハを部屋に流すとゆきひょうとソファーに腰かけてそれを聞く。
「音楽は人を殺せるか?」
ゆきひょうの言葉遊びが始まった。私はゆきひょうの膝に頭を乗せ「ごろごろ」と喉を鳴らして甘えてみせる。
「魂を震わすものは、毒にも薬にもなる。音楽は忘れかけていた記憶の扉を叩く」私はあいまいに答える。
「死は時に甘い誘惑。旋律は記憶の中の封印をほどく」ゆきひょうの答えだ。こつこつと廊下を歩く音がする。遊びの終わりを告げる鐘の音だ。私はゆっくりと身体を起こす
「二声の一番ですか」書記の「時雨~しぐれ~」が入ってきた。細く長く伸びた手足と栗色の少しカールした髪は彼が日本人であることを忘れさせる。時雨からは秋の香りがする。とげの中で実りを待つ芳醇な栗の香りだ。
「追いかけっこをしながら時折速度を緩めて相手の顔を見つめあっている感じがして、この曲好きですね」と時雨が言う。時雨は硬式テニス部だ。私は時折彼の相手をするが、細長い腕を空に伸ばして獲物を捕らえる瞬間をまつ姿は、レシーブの初動が遅れるくらいの美しさだ。
「あれ、私が最後?」会計の美沙だ。演劇部に所属する彼女は桜とは対照的なお姫様だ。あどけなさの残る丸みを帯びた顔に、ピンクの額縁の眼鏡。段カットの髪は頭の部分をカチューシャで止めている。ともあれ役者はそろった。
聖双葉の学園祭は芳香を放つ。若さと傲慢さと無責任さの入り混じったターフのものだ。文化の香りを風に乗せるようなテーマとしなければならない。モチーフは闇か光かを私は問うた。時雨は光、美沙は闇を選んだ。ゆきひょは沈黙を保っている。私はリアルが嫌いであった。リアルは「生」に影のごとく付き添っている香りなきものだ。想像力は闇の中で解き放たれる。人は闇の中で自由の翼を得る。私は闇に魅かれていた。光が一票。闇が二票。棄権が一票。モチーフは闇と決まった。キャッチコピーの選定は困難を極めた。「闇と光」、「天空の園」、「文化の深淵~漆黒の闇」…どれも魂を昂ぶらせてはくれない。私はゆきひょうを見つめた。ゆきひょうは薔薇の蕾の中に言葉を閉じ込め熟成の時をを待っているに違いない。ついに全員が見つめた。ゆきひょうは気怠そうに伸びをする。
「文化~漆黒の闇と光の闇」と言葉を零した。
「闇と光」はありふれているけどこれはいいかも」と時雨。
「これでいこう」私は決めた。
テーマが決まると次は各部活の出し物と会場、時間の割り振りだ。聖双葉では、バザーはあくまでも付録にすぎない。主役は『文化』だ。
「出だしが英語劇。昼に交響楽団を入れてラストが演劇で」美沙が歯切れよく呟いた。後は流れるように決まっていった。
交響楽部と演劇部との打ち合わせはゆきひょうが担当した。執務室でのゆきひょうと桜の会合は一枚の絵画のようであった。私は気分転換と称して、レンブラントの絵画をテーブルの横に移した。ゆきひょうと桜が向かい合わせに座るその真ん中だ。音楽はサティを流した。ビスコンティのような、完璧な映画の一場面が出来上がっていた。
桜との会合の繰り返しはゆきひょうの冬の香りを薄めた。春の光りに雪がしだいに溶かされていくかのようだ。そのことをゆきひょうは自覚していた。ゆきひょうは桜に好意を持っているとそれとなく私に語ることがあった。最も恋とは違うとも語っていた。打ち合わせの後、三人で帰る日も増えてきた。言葉遊びは二人だけではなく三人の秘め事となった。演劇部の桜は言葉遊びに違和感を持つことはなかった。
「黒き闇はメフィストファレスの誘惑。白き闇の正体はなに?」
「白き闇は堕天使ルシファの誘惑」私は答える。
「白き闇は黒き闇の影。邪悪なる魂の影は白き雪の柔肌をまとう」
桜が答える。
桜のセリフは凛として透き通るかのごとく空間に響き渡る。
「ごきげんよう」桜は三叉路を右に折れる。私とゆきひょうは左だ。ゆきひょうの家は私の家の隣りにある。私はゆっくりと眠りにつく。夏の焼けた土の香りに包まれて眠りにつく。
十一月の風は冷たい。聖双葉のシンフォニーホールでは、演劇部のリハーサルが行われていた。音楽は交響楽部が務める。弦楽のアンサンブルが音量を増してゆき、やがて物語りはクライマックスを迎える。クライマックスを彩るのは桜の台詞だ。その台詞にゆきひょうのオーボエの独奏が溶け込んでいく。
「我が心臓を剣の切っ先に刺し荒ぶる神の生け贄とせよ」
中世のゴシック様式の衣装をきた桜が、銀の器に入った毒酒を飲み干す。ゆきひょうのオーボエが桜の魂を風に乗せる。変幻するオーボエの音色は天上へと向かう魂の変遷を観客に知らしめる。私はゆきひょうのオーボエの音色の微妙な揺らぎが以前と違っていることに気付いていた。リハーサルは上々だった。ゆきひょうと桜が息を弾ませながら戻ってきた。
「世界は香りを失いつつある。我ら聖双葉学園生徒一同は文化の創出を通して、香りを世界に取り戻す。漆黒の闇と光の闇の扉は今開かれた」
私の宣言とともに双葉祭は幕を開けた。
物は大脳が見る。ゆきひょうの言葉だ。網膜には上下左右さかさまの姿が写る。大脳はそれを電気処理をし正常な姿でうつす。目からの映像は素材。変幻自在に移ろう可能性を秘める。
音もまた大脳が聴く。大脳の電気処理には熔融した記憶が融合をなす。ゆきひょうの魂のゆらぎは私の記憶の中に確かなものとして
存在する。ゆえに私はゆきひょうの音を寸分たがわず選別する。揺らぎの変遷は新たなる記憶を私に要求する。私は要求される。私は支配される。私は拘束されるのだ。ユキヒョウのオーボエの音色を凡庸な音の中に埋もれさせないために。
双葉祭は華麗な英語劇で幕を開けた。『オペラ座の怪人』を流ちょうな英語と唄で飾ってゆく。愛と破滅の心理劇。鐘が鳴り響きホールのシャンデリアの落下が復讐の終わりを告げる。まさに幕開けにふさわしい香りを放っていた。
とはいえ、学園祭の主役は昼からの演劇にあった。ジークフリードを演じる桜はすべての観衆の目をその姿へと釘付けにした。ゆきひょうのオーボエが人々の魂を極上の美酒で満たした。そしてクライマックスがやってきた。
「我が心臓を剣の切っ先に刺し荒ぶる神の生け贄とせよ」
凛とした桜の声が空間を支配し、銀の器に入った毒酒が飲み干された。桜は桜の花びらが舞うようにその場に散った。すべての人が息を飲んだ。圧巻の演技…否、それは現実のものとなった。桜の口もとから真っ赤に染まった液体が零れ落ちていた。悲鳴が上がった。彼女は息をしていなかった。ピンク色の桜の花びらが桜の潜血で真っ赤に染まったのを私は幻影の中に見た。
♦
私は怒りに身を震わしていた。学園祭の中止は当然至極としても、警察という無粋極まりない国家権力を学園の中に入れねばならないのだ。分かっている。これは殺人事件なのだ。しかも、他ならぬ桜が何者かに毒を盛られた。分かってはいるのだ。警察は簡単に状況を検分すると素早く引き上げた。学園を再び機能させることに気を払っているのだろう。三日ほどの休校の後、学園は日常を取り戻していた。
司法解剖は遺族が断固拒否した。桜の身体にメス!お前たちは『モナリザ』に剃刀を入れようとするのか!桜の家柄は絶大であった。あらゆる方面から手を尽くし、司法解剖はほんの形式となった。毒の正体は推測の範囲となった。捜査は難航を極めた。桜には恨みを買う要素が皆無だったからだ。彼女は春に咲く桜のようにすべての生徒から崇拝され愛されていた。それゆえの嫉妬が唯一の可能性であったが、桜にそんな感情を抱けるのはオリンポスの神々ぐらいだ。あまりにもかけ離れた存在を人は妬めないのだ。その感情はあこがれに変わる。聖双葉の学園祭は比較的オープンではあったが事前申込制をとっていた。来訪者は原則断られることはないが住所氏名等は厳重に記録されていた。少なくとも不審者の入り込むすきはなかった。捜査で最も注目されたのが、いつ毒が混入されのかだった。聖杯はクライマックスの十分ほど前に白湯がそそがれ舞台の上に配置される。舞台裏に入れる人間は演劇部員と交響楽部員それぞれ数名に限られていた。交響楽部員はその時刻すべて舞台に出ており演奏を繰り広げていた。演劇部の主役クラスの数名は場面ごとに出入りするのだが、白湯を注いだ小道具係の子は注ぎ終わるとすぐに舞台へとそれを運んでいた。白湯の入ったポットからは何も検出されていない。一応小道具にかかわった部員はその子も含め慎重に調べられたがむろん『白』であった。
ここ数週間、ゆきひょうは無言であった。毎日一緒に登下校したが言葉遊びもなされることはなく、降り積もる細雪のような静けさを保っていた。私はゆきひょうの見せる風景を汚すことはない。冬の世界はゆきひょうが支配する。私はそれに従順だ。
帰宅の途中三叉路に近づくとトレンチコートを纏った中年の男が立ってこちらを向いている。刑事のようだ。男は手帳をかざすと少し話を聞きたいといってきた。煙草の匂いのしない方を私は所望した。彼は少しむっとした様子であったが、車の中にいる若い男を呼んだ。話は彼を通して行われた。話の大半はゆきひょうに向けられた。
「君は桜さんと劇の打ち合わせを担当したそうだね」
「はい」
「それはどこで行われていたの?」
「生徒会室で」
「すべてそこで?」
「はい」
ゆきひょうは必要最低限しか答えない・
「どんな内容?」
「劇の進行と、交響楽の曲目。タイムテーブル」
「毒を飲む場面の話はでた?」
「いいえ」
「でも、クライマックスでしょう。どういう曲をとか」
「オーボエの曲は僕のオリジナル。リハーサルで直接合わせた」
「これは形式的なものだから、気を悪くしないでね」。彼はそう前置きをして質問を続けた。彼なりに慎重に言葉を選ばれてはいた。
「君は中学生の時の夏休みに植物の持つアルカロイド系の毒物に関する自由研究を行っているね?」
「はい」
「失礼ながら、拝見させてもらったのだがうちの鑑識が驚いていた。学術論文で十分に通用するレベルだって。ごめんね。こういうとまるで君を犯人として白羽の矢を立てているように思えるよね。もちろん君は演奏していたわけだし犯人ではありえない。でも、形式上話だけは伺わないわけにはいかないんだ」
ゆきひょうを汚すなら、心臓を差し出してからにして欲しい。私は怒りに囚われる。ゆきひょうの魂の遍歴は、まず音楽から始まった。幼少期オーボエに並みならぬ才能を示した彼に対し、両親はあらゆる芸術、文学、科学に触れさせその果実を音楽に対する精神性の向上へと実らせようとしたのだ。
書籍は厳選して与えられた。グリム童話、不思議の国のアリス、秘密の花園、アーサー王、ロビンソン・クルーソー、シートン動物記、変身、恐るべき子供達、桜の園、花のノートルダム、シェイクスピア、ファウスト、年齢に応じて与えられた作品を食い入るようにゆきひょうは読んだ。そして、書物の中に現れる絵画や、音楽、動植物、毒物などに深くのめり込んでいった。音楽性は他の芸術や人生経験によってもたらされる。ご両親の慧眼だった。私は物心ついた時からゆきひょうの醸し出す芸術の香りに染まって育った。ゆきひょうと読んだ本や絵画や音楽や演劇について語るのは、夢幻の世界に旅立つかのようであった。
「毒物についてはどこで学んだの?」
「図書館で」ゆきひょうは素っ気ない。
「興味を持ったのはなぜ?」
「シェイクスピアなど多くの書物の中で出てきたから」
彼は少しため息をつくと私の方へ向き直った。
「生徒会の事について少し聞かせてもらってもいいかな?」
「はい」
「生徒会はあなたを入れて4名で運営されているの?」
「はい」
「生徒会室、いや執務室というのかな、には誰でも入れるの?」
「いいえ」
「鍵はあなたが持っているの?」
「はい」
「先生は、入る事ができる?」
「わかりません」
「過去に入った事はある?もちろん、あなたに一声かけてだが」
「ありません」私も思いっきり素っ気ない。
彼はもう一度小さなため息ををつくと簡単なお礼を言って去っていった。
あの日以来毎朝、執務室に私達4人は集まっていた。下衆な探偵ごっこは本意ではないが、桜を亡き者にした人物はどうしても我々の手で死の祭壇へと送ってやりたかった。
「昨日刑事が待ち伏せしていなかった?」時雨は皆の顔を見回しながら尋ねる。
「生徒会のことと、ゆきひょうの毒の知識について尋ねられた」私はゆきひょうの分も合わせて答える。
「桜の交友関係について聞かれたわ。他の部員にもいろいろと聞いて回っているみたい」美沙はうんざりとした口調で言った。
「やはりそうか。僕は生徒会のこと。夏姫とゆきひょうの関係とか」と時雨。交響楽部の部員もいろいろと話を聞かれていることは部長の昴から耳にしていた。警察は、生徒会、演劇部、交響楽部のトライアングルを捜査の核心に据えているらしい。むろん、その中心にゆきひょうがいる。
4人で状況を整理してみる
犯人の条件
毒を入手できること
毒を盛ることができること
犯行の動機
怨恨
妬み
口封じ
犯人の人物像
生徒
教師
毒の入手においては、ゆきひょうに白羽の矢が立つ。ただ、毒を盛ることができるという点においては絶望的だ。ゆきひょうはずっと舞台の上でオーボエの音色を空間に溶かし込んでいたのだ。毒の特定ができないことも解決を困難にしている。銀の器からも毒は検出されていないし、司法解剖も形式的に済まされた。ただ、毒の入手は素人にも不可能というわけではない。毒の混入のほうがはるかにハードルは高い。
動機はさらにミステリアスだ。私たちは一つ一つひも解いてみる。怨恨。これはありえない。舞台の上の桜をとおして観衆は見えないものを見、聞こえない音を聞く。舞台に舞う桜は孤高だ。世俗において他者とかかわりを持つ暇はない。妬み。これが動機なら同じ演劇部の中に犯人はいることになる。桜のありふれる才能、人気、桜がいる限り自分に光が当たることはないという気持ちは殺意を呼ぶ。とはいえ、桜の放つ光は鮮烈で闇は深淵だ。あまりにかけ離れた存在には、人は妬みよりもあこがれを抱く。口封じ。この場合犯人は教師の可能性が高いが学園祭に教師は参加しない。学生の自主性を重視するためだ。緊急の際は、私を通して連絡が行われる。ゆきひょうは沈黙を守る。無表情に降るボタン雪のようだ。ゆきひょうは何を思っている?何かを知っているのだろうか?
「どうぞ」私は口を開いた。ドアを叩く音がしたからだ。
「失礼します」
ドアが開くと女生徒がひとりその場に立っていた。
「美香」美沙がとっさに叫んだ。彼女は同じ演劇部の子だった。
「私は桜の親友でした」彼女はおどおどとした様子でそう切り出した。私はソファーの中央に彼女を誘った。時雨が暖かい紅茶を彼女のもとに運んだ。彼女はそれを口にすると話し出した。
「親友と呼べるほどのものでは無いかも知れません。桜は誰とでも一定の距離を保っていましたし、でも演劇部の中で一番親しくしていたと思います」
私は美沙を見つめる。
「気づかなかった」美沙はつぶやく。
「親しい分、部内では距離を置いていました。私の家は桜の隣にあるということは知ってますよね?」彼女は美沙を見る。
「ええ」美沙は即答する。
「桜は私の部屋に時折来ていました。あの…桜にはお付き合いしている人がいました」
私たちは立ち上がった。一人、ゆきひょうを除いて。
「彼氏?」
私は声を潜めて訊ねた。一瞬相手は女の子かと思ったからだ。
「はい、同じ部員の詩音君です」私は再び美沙を見つめる。
「あの事件について話すのは部内ではタブーとなっているわ。もちろん桜についても。みな平静を装って普段通り練習に励んでいる。詩音君もその一人。特に変わった様子はないわ」
美沙は察してそう答える。
「はい。でも平静でいられるのが私には信じられない。私ですら倒れそうなのを必死で我慢しているのに。桜は詩音君とには脚本家の素養があるといつも語っていました。彼の編み出す言霊は私の感性を呼び覚ます鐘の音だと」
「そのことは桜とあなたの秘密だったの?」時雨が尋ねる。
「いいえ。特に秘密にしなくても私は何も言わないことはお互い分かり合っていました。桜が特に何も言わないで私に話してくれる。そのことが私は誇らしかった」美香は少し涙ぐんだ。
私たちはゆっくりとソファーに腰かけた。美沙が彼女にハンカチを進呈した。ゆきひょうは静かだ。雪のように静かだ。
♦
美沙が部長の幸也を執務室に招いた。桜と詩音のことは秘密だ。これは美香との絶対の約束だった。秘密という言葉はくすぐったい。罪の共有の香りがする。ゆきひょうとの言葉遊びもそうだ。二人だけの秘密を持つことは特別な関係を持つことを想起させる。
美香と同じ場所に幸也は腰かけ、美香と同じ紅茶を口にしていた。
事件以来特に休んだり、変わった様子を見せる部員はいないと彼は言った。表層の範囲内でと付け加えるのを忘れなかったが。桜の話は一切していないという美香の言葉は本当だった。誰一人として口にする者はいない。それほど彼女は神聖な存在だったのだ。ゆきひょうも部活動には休むことなく出ている。私がせがんで聞かせてもらうオーボエの音色も変わりがない。もっとも音の揺らぎは昔のものではなく、劇場で聞いたものであるが。
美沙は数名の部員の名前を挙げ状況を尋ねていった。その中に巧みに詩音の名を入れ込んだ。詩音の話だけが長くならないように気配りは完璧だった。
「詩音については何か感じることはあった?」
「いや。口数も変わらないし脚本の感じも以前のままだ。まあもともと桜のことについては殆ど喋らなかったし。あまりショックを受けていないのかもしれない」
「私も特に変化は感じなかったわ。でも、詩音と桜で主役を張ることも多かったでしょう。桜が騎士役で詩音はその仇敵」
「まあね。役柄上意見はよく交わしていたが、プライベートな会話は殆ど耳にしたことがなかったなあ」
「相当無理して平静を保とうとしているじゃないかしら?」
「無理は皆同じだけど、僕はそうは感じられない。尤も彼は役者としても相当なものだから、そう見せているだけかもしれないけど」
残る数人の話を形式的に尋ねて、彼はお役御免となった。
ゆきひょうは知っていた。桜の恋人の存在を。ゆきひょうの静けさがそのことを物語る。ゆきひょうは桜に好意を抱いていると私に告白した。恋ではないとも。桜はどうだったのだろうか。桜の心がゆきひょうに移りつつあったとしたら、それを感じ取った詩音が殺意を抱くのは理解できる。劇中で桜と詩音は何度も重なり合うように舞っていたのだから、その最中に聖杯に毒を盛ることは不可能ではなかっただろう。毒さえ入手できていればだが。否、とある直感が頭を走る。では、何故、詩音は生きているのだ。詩音の生が推測を根底から覆す。毒によって桜の命とともに手元に手繰り寄せた桜の心を抱きつつ死ぬことを詩音は選ぶはずだ。二人の魂を永遠に寄り添わせるために。これは確信にも近い直感だった。
「詩音君が犯人かしら?」美沙が首を傾げる。彼女は私と同じことを考えている。
「たぶん違う。辻褄は合う。それが唯一の可能性のようにも思える。しかし難問の正解を見つけたときのある種の高揚感が湧いてこない」時雨も私と同じことを考えている。このジグソーパズルは詩音の自死というピースがなければ完成しない。
2人の関係など知る由もないが、警察も詩音に目をつけていたようだ。毒を聖杯に盛ることのできる人物を追うと、彼を疑うのが自然である。警察は毒をゆきひょうが提供し、詩音が聖杯に毒を盛ったと考えているようだった。事件は2人の共犯と考えているのかゆきひょうが詩音に弱みを握られていて、毒を提供させられただけと考えているのかは定かではないが、いづれにせよ毒を作れるのはゆきひょうとしか考えられないという結論に達していたようである。執務室の窓から木枯らしに吹かれて木の葉が舞うのが目に映る。目で舞を追う。木の葉は私を軽やかに笑いながらある場所へと誘う。そこには緑の葉を茂らせた大木があった。その大木に生徒たちが小走りに集まってくる。私は机の右の最後の段を開けそこから双眼鏡出し大木の方に目をやった。あたり一面を影で覆いつくすほどの葉が大木の枝に生い茂っている。その枝のうちの一つに人がぶら下って…否!首をつっていた。
「美香!」私は部屋を出ると大木に向かって走り出す。あとに残りの者たちが続く、ゆきひょうは私をガードするように私の隣を走る。大木の根元にはきれいに靴がそろえてあり、その中に一通の白い封筒があった。
遺書
愛するお姉さまのもとへ行きたいと思います。
私は心に暗闇の種子をもって生まれました。
種子は私が幼少のころに芽生え始め、私とともに成長し
大きな暗闇を心の中に生じさせました。
暗闇の深淵は私にお姉様を独占さえることを望みました。
お姉さまは「アグライア」。私の心の深淵を照らし
暗闇を浮かびたたせる方でした。
「アグライア」に心を支配される日々は、毒のような痺れを私にもたらし、その痺れはやがて私になくてはならないものー快楽ーとなりました。
私はお姉さまを愛していたのです。
私は死を介してお姉さまを独占したく思います。
お父様、お母さま、これまでよくしてくださったご友人の皆さま
どうぞ私のわがままをお許しください。
美香
筆跡は間違えなく美香のものであった。美香の遺体は丁寧に降ろされ、病院へと運ばれていった。
♦
お姉さまは無論「桜」のことである。この一件で、桜を毒殺した犯人の疑いは詩音から美香へと移った。演劇のステージの上で美香は舞台を舞う四人の天女のうちの一人であった。桜が聖杯を手にするまでの長い独白。その間天女が桜の後ろで、主人公の心の揺れを表すかのように乱舞していた。この間にこっそりと毒を入れることは至難の業だが不可能ではないと思われた。桜に恋い焦がれる美香が思い余って桜を毒殺し、黄泉の国で魂を重ね合わせようという妄想に駆られて行われた犯罪。警察の関心はゆきひょうと美香との関係に移った。
刑事が調べれば調べるほどゆきひょうと美香との間には接点が何もなかった。部活も違う。クラスも違う。二人が顔見知りという証言はどの生徒からも得られなかった。美香が犯人ならどうしても毒の入手を裏付けねばならない。美香は単に何者かに殺された桜の後を追っただけなのかもしれないからだ。
執務室で私はゆきひょうの膝の上に寝転がっている。美沙と時雨が来るまでのいつもの戯れだ。ゆきひょうはオーボエの音を風に溶かし込んでいる。私がせがんだからだ。魂の揺らぎと歩調を合わせたかのような、音の揺らぎは相変わらずだ。尤も昔のものではないが。わたしはゆっくりと身体を起こす。
「本日はボレロですか。録音で聞くのとは違ってゆきひょうの生演奏は魂にひびきますね」時雨が入ってくる。続いて美沙。四人がそろったところで朝の会合が始まる。
「美香は犯人じゃないわ」美沙が言う。
「毒を入れた可能性は十分あり得る。つまり、犯人から頼まれて毒を入れた共犯者。シナリオとしては、桜の殺害に何らか動機を持つものが存在する。彼(彼女)は美香の桜を独り占めしたいという心を利用して、桜に毒を盛ることを提案する。つまり毒を入手したものと毒を盛ったものが違うという可能性だ」と時雨。ゆきひょうはぼんやりと窓の方を見ている。私はつぶやく。
「論理的には、ゆきひょう↓主犯↓美香↓聖杯↓桜という毒の流れが疑われるか」
「だとすると警察は、ゆきひょうと美香のどちらとも接点を持つ人物を特定しようとするわ」と美沙。ゆきひょうと美香の橋渡し。すると犯人の疑いは…
「まさか、幸也部長に向けられる?」美沙が続ける。
「ゆきひょうと部長は同じクラスということで面識があるわ。もちろん美香とは同じ部だから」
「警察はその路線で考えるだろう。だが、スタート地点が違う。ゆきひょうは事件に関わっていない」私はそうつぶやくとゆきひょうを見る。時雨が見る。美沙が見る。
ゆきひょうは静かだ。雪のように静かだ。
私はゆきひょうの毒にかんする論述を見たことがある。私の自由研究のテーマであった、音楽の神秘性に関する論述と見せ合ったのだ。サソリなどの動物の持つ毒。覚せい剤などの魂に作用する毒。ボツリヌス菌などの微生物による毒。ストレプトマイシンなどの抗生物質をつくる毒。公害病を引き起こす重金属の毒。サリンなどの神経ガス。圧巻はアルカロイド系の植物毒に関する洞察と様々な改変の可能性であった。私はどの物語でどの毒が使われたのかあれこれ想像する誘惑にかられた。そのことは今でも生々しく思い出せた。
「ゆきひょう?」私は彼に柔らかく回答を促す。
「ゆきひょう…なの?」さらに絹の布で包み込むような柔らかさで。回答を促す。ゆきひょうは答えない。彼はオーボエのリードを加えるとボレロを吹く。
その音が真実を物語る。ゆきひょうは無罪なのだ。だが、ゆきひょうは何かを知っている。ここにいるメンバーにすらいえない何かを。おそらく確証は持ててないのだろう。私は軽い眩暈を感じた。
音の揺らぎに少し酔ったようだ。私はソファーに倒れこむ。その目の先の壁にダリの「記憶の固執」がかけられている。そこでは時空が歪んでいる。私は意識が遠のいていくのを感じる。
私は夢の中で生死を彷徨う。
夢の中にゆきひょうが出てくる。じっとこちらを見つめている。
否、正確に言うと出てきたのはゆきひょうの気配だ。人の形を成さずに『ぼわ』っと闇に浮かんでいる。
「ゆきひょう?」私は言葉を零す
ゆきひょうは答えない。
「ゆきひょうは漆黒の闇?」私は尋ねる。
ゆきひょうは静かだ。雪のように静かだ
「ゆきひょうは光の闇?」もう一度私は尋ねる。
ゆきひょうは雪の香りがした。
私は目を覚ました。保健室のベッドの上だ。ゆきひょうは上から私を静かに見つめていた。美沙も、時雨も同じく。一過性の貧血で心配ないとのことであったが、私は確かに薄れゆく意識の中で死の誘惑を感じていた。
「漆黒の闇と光の闇」私は言葉を零した。時雨が反応した。
「漆黒の闇と光の闇。そのどちらかが桜でもう一方が犯人だ」
私とゆきひょうは家路につく。
「魂は毒によって浄化されうるか?」久方ぶりのゆきひょうの言葉遊びだ。
「魂の流転は宿りし主の死によって留められる。魂はそこで浄化を成す」私は顔色一つ変えることなく言葉を転がす。
ゆきひょうは戻ってきたのだろうか。漆黒の闇から、或いは、光の闇から。否、ゆきひょうはどちらの闇にもなり得ない。ゆきひょうは漆黒の闇と光の闇に化学反応を起こさせる触媒だ。言葉遊びで、はじめて私の方から問う。
「浄化されし魂の還るところは漆黒の闇か、光の闇か?」
ゆきひょうはほくそ笑む。
「追憶の闇だ」
自室にはあえて電気はつけなかった。代わりにランプに灯をともした。私は生贄について考えていた。美しいという字には羊という文字が隠されている。羊は古代より生贄として神に捧げられるもの。桜は自身の「美」によって、生贄になった。漆黒の闇は魔によって支配される闇。光の闇は神によって支配される闇。生贄は神に対してささげられるもの、即ち桜は光の闇。では漆黒の闇は誰?私はゆっくりと眠りについた。夏の光に焼けた土の香りに包まれて。
寝起きはよくなかった。私はランプの灯を消して食事を済ますと自宅を出た。ゆきひょうと合流して学園に向かう。
風が冷たい。もうじき雪が降るのだろう。
毎朝執務室で四人で顔を合わせるようになってから一月が経とうとしていた。
「光の闇が桜として漆黒の闇は誰?」美沙が言う。言葉遊びで桜は、白き闇は黒き闇の影と言っていた。光のつくる影が闇なら。闇のつくる影が光。光は物質を照らし影をもたらす。では、闇が照らすものは何?私は考える。
心、闇が照らすのは心だ。ゆきひょうが光を桜に与え、桜の心に闇をつくった。その闇を見つめる側にいた人物は…。
迷宮
「おやおや困ったねえ」と一輪車に乗ったピエロが囁く。
「ヒントはすぐ近くにあるのにねえ」とピエロが嘲る。
「!」
私は気付く。この事件はゆきひょうの言葉遊びが支配している。
初めの言葉遊びは
「罪の償いはどれが相応しい?銀の聖杯の酒に入れられし毒によるによる死。銀のナイフで心臓を刺され消滅。コキューストに封印」
であった。桜は聖杯に入れられし毒で命を絶たれた。
次の言葉遊びは
「ドリアードの誘惑。精霊の言霊の色はなに?」であった。美香は木の精霊のもとで命を絶った。
次の言葉遊びは
「音楽は人を殺せるか?」であった。殺されかけたのは…私だった。
次の言葉遊びは
「黒き闇はメフィストファレスの誘惑。白き闇の正体はなに?」であった。白き闇は桜だ。
次の言葉遊びは
「魂は毒によって浄化されうるか?」だ。これはまだ実現していない。そして私は思い出した。漆黒の闇の中に封印されしある記憶を。
今年初めての雪が降った。
しんしんと雪が降り積もってゆく。
静かだ。
ゆきひょうのように静かだ。
私はゆっくりと家を出た。
ゆきひょうはそこに静かな只住まいでいてくれた。
ゆきひょうはオーボエを吹く。
ボレロだ。
愛と哀しみのボレロ。
音の揺らぎは桜と出会ってからのものではなく
幼少のころから私の知っている揺らぎだった、
私だけの知るゆきひょうの魂の揺らぎ。
その音に吸い込まれる。
ゆきひょうは私を抱きしめると唇を重ねる。
ゆきひょうの唇は柔らかくそして冬の香りがする。
ゆきひょうはゆっくりと私の背中から銀のナイフを心臓に当てる。
一番最初の言葉遊びで私が選択したように。
私はゆきひょうの論文でリシンの存在を知った。十時間以上遅れてから効果を発揮する植物毒。その時間の調整法をゆきひょうは見出していた。毒は私が作り、私が盛ったのだ。リハーサルの時の銀の聖杯に。二十四時間後に効果を発揮するように調節して。
私はすべてを忘れていた。あまりの衝撃に。記憶を黒き闇の中に閉じ込めて。
「僕もリシンを飲んだから、すぐに会える。また一緒に言葉遊びをしよう」
ゆきひょうは静かに言葉を零す。
「桜と三人で?」私はつぶやく。
「桜は天国にいる」ゆきひょうは言葉を零す。
「ああ、そうか。言葉遊びは、また二人だけの秘密になるのか」私はつぶやく。至福の笑みを浮かべて。
ゆきひょうのナイフが私の心臓にゆっくりと刺さる。痛みは感じない。
私はすべて思い出した。
私はゆきひょうに恋をしていたのだ。
了