3月が終わる前に⑤
彼と帰る最後の日に私はある決意を伝えようとしていた。駅までの道のりで3つの分かれ道があった。右へ行けば車通りも多く人がたくさんいるが3つの中では1番駅からの距離が短い。真ん中の道は吹奏楽部の中では「会議道」と呼ばれていて何か話すとき―――ほとんどが雑談―――に通る道。左へ行けば私たちの学校で「リア充ロード」と呼ばれている線路沿いの道で人通りは少なくカップルが良く利用する道として有名だ。
「今日はこっちの道に行こう」
私は左の道を選んだ。今日は連日の猛暑と比べるととても涼しい日だった。日は雲で隠れ夏の6時過ぎなのに少し暗い空模様だった。
「今日は大事な話があるの」
「ん?」
彼はいつもと違わない彼だった。でも目だけは悲しかった。
「私たちそろそろ受験じゃん?でも私はまだ部活があるし結果もあまり良くないの。9月に入ったらもっと忙しくなるし部活が終わった後から受験勉強の追い込みをかけなきゃいけないの」
彼は頷いているだけだった。彼からあの香水の匂いがした。でもお揃いのキーホルダーはリュックに付いていなかった。
「今の私たちの関係よりも優先すべきものってあると思うの。だから」
やっぱり詰まってしまった。涙を堪えようと少し間を置いた。彼は俯いて私の顔を見ようとはしなかった。
「友だちに戻ろう」
彼の顔には「やっぱり」と書いてあった。恐らく察していたのだろう。だから進路の悩みをしてくれてキーホルダーも外してここに来たのだろうか。この話に持ち込みやすい状態を彼なりに作っていたんだ。
「そっか。ごめんね、何もしてあげられなくて」
「謝らないで」
彼ってなんでこんな時に謝るんだろう。1年間の思い出と付き合う前の記憶が走馬灯のように頭の中で再生された。多分死ぬ時もそんな気分になるのだろう。
「まあ、でもこれは本当の別れじゃないからさ」
彼がこの雰囲気を少しでも明るくしようとしたのだろう、それがお節介だった。別れるのに、また彼を好きになってはいけないのに。
「廊下ですれ違ったら『おはよ』くらいは言うかも。勇気があれば」
「お互い1人の時だけだな〜、俺の周り未だにいじってくるからさ」
ああ、溢れちゃった。歩いているときに涙を流すと目頭から流れちゃうんだね。
「多分、これが1番最善だと思うよ。お互いに」
「そうだと信じたいね」
「いや、そうしよう。いつかこの話をネタにして2人で話せるくらいに」
嘘だ。本当は別れたくないくせに。
「もっと早くに付き合っていればな〜」
「あの美人の元カノ捨てて?」
「今戻ったら真っ先にその選択するかも」
「ふーん」
もしそうなったら私はあれに耐えられるだろうか?彼と付き合っていて常に私を満たしてくれた。幸せでいっぱいだった。他の誰かじゃダメだとも気付いた。それでも私の中の「何か」が音を立てずに崩れていくような気もした。幸せのはずなのに傷ついた。大好きな彼を思えば思うほど私は苦しくもなっていった。
「今度数学教えてね?」
「そうだね、教えるよ!6割ぐらいしか取れないけど」
「それ私の英語もそんな感じ」
「でも俺よりは出来るじゃん」
「英語どのくらいなの?」
「4割」
「え!?それはヤバい」
「でしょ〜、1番配点が高いのにそれしか取れないのヤバいなって思ってる」
「ちゃんと勉強しなさい」
「はい」
もう駅が見えてきた。私は迎えを待つために勉強スペースとして開放されている建物に入ると彼に伝えた。そこまでで彼との最後の時間は終わりだ。もっと話したいことがあるのに。わっと話したいことが頭の中で押し寄せて何もないように消えていった。
「もう、着いちゃうね」
「早いね」
「俺さ、めっちゃ好きだったから。こんな本気で恋したの初めて」
「ろくな恋愛してこなかったからさ」
「俺も」
彼は最後の最後まで馬鹿だった。これから別れるんだよ?なのにそんなこと言われたら離れたくなくなるじゃん。
「じゃあ私はここまでで」
「うん」
「バイバイ」
私は彼の前に右手を差し出した。
「バイバイ」
彼は少し驚いた表情を見せたがすぐに右手を差し出した。そしてすぐに彼は左手を私の頭の上に持ってきた。彼って本当に優しかったんだね。ずっとこのまま時が止まればなんて思った。でもここは同じ学校の人がたくさんいる場所。だから私たちの関係のようにこのままじゃいられなかった。
私は右手を離した。
そして弱々しくさせてしまった彼の後ろ姿を見送った。悲しそうな目に手を抑えていた。ギュッと胸が締め付けられていた。