幸せになる前に④
「なあ、穂乃果」
「何?おっさん」
「幸せになれよ」
私はそれに返す言葉も見当たらなかった。
去年の春、彼から「俺は結婚すらしたくないから結婚したいなら他の人を探してくれ」と言われた。結婚願望が強かった私にはショックだった。結婚をしたかったので相手を探した。私はそんなことを言った彼が憎たらしくて彼と真逆のタイプの人を見つけた。公務員で非喫煙者。学生時代は剣道をしていて有段者でもあった。まるで彼と真逆だ。でも、彼のようにバーテンダーでヘビースモーカー。学生時代は女遊びが激しく恋愛経験豊富。だからノリも良くて一緒にはしゃげてイケメン。そんな彼が私は大好きだった。
去年の夏、私は結婚相手のことを彼に言った。彼のお気に入りの車の中で彼はサングラスをかけて西日の方向に目線を合わせ、悲しそうな顔をした。
「良かったな」
彼はそれ以外は車で喋らなかった。
「これが娘を嫁に出す父親の気持ちなのかな。今なら結婚相手を殴りたい気持ちも分からなくはないな」
「その反応昭和っぽい」
「平成もそろそろ終わるのにな」
彼は遠くの夕焼けを見つめていつか2人で食べに行ったパクチーを食べた後のような顔をした。彼はパクチーが苦手で店では今のような笑顔を作ろうとしていたが、店を出てからは苦い顔をしていた。その姿を見て私は彼はやはり大人なんだなと垣間見れた気がした。
私ももう乗ることのないであろう黄色い車から降りてバーの中へ入っていった。
「おっさんに会えるのも今日で最後だね」
「そうだな。俺は結婚式も好きじゃないし」
「私も。おっさん呼んじゃったらおっさんの方しか見れない」
彼は煙草に火を付けてため息を煙草のせいにした。
「ダーツも最初の頃よりも相当上達したよな」
「おっさんの教え方が良かったからね」
おっさんは微笑んで煙草の煙を口から吐いた。
「私たち2人で決めたこと、ちゃんと実行した?」
「うん。ちゃんとしたさ」
「私、妹にしてみたの。そうしたらめちゃくちゃ驚いていた」
「俺も知り合いの高校卒業したばかりの連中に言ってみた。まあ、予想通りの反応だったけどな」
「私たちの関係って社会的におかしかったのかな?」
「妹ちゃんの反応や俺が試した連中の反応が正しいと思うぜ。だってちゃんとした考えを持てる歳だもんな」
「そうやってみると、私達って子供の考えだったのかな」
「それは一理あるな」
彼は灰皿に煙草の火を揉み消してダーツを持ち、ダーツボードに向かってダーツを投げた。彼はいつもブルより少し上を狙う。ブルが外れても20点のエリアに刺さるから501なら有利に進めることができる。1つ目は20点、2つ目はその右隣の1点、最後にブルを射抜いた。
その時、2人の関係がダーツがダーツボードに刺さる音によって終わりを告げたような気がした。
「おっさん、私達ほんとにサヨナラなの?」
「ああ。だって穂乃果は薬指に指輪をはめるだろ?だからこの場所は似合わなくなってしまうよ」
夕日がいつの間にか日本海に隠れてしまったらしく外は青色の闇が流れていた。
私は深呼吸をした。このバーの煙草の匂い、ツンと鼻腔をくすぐるアルコールの匂い、そして彼の甘い香水の匂い。どれもが愛おしかった。
「でも、私はこれからもおっさんに会えればって思うから。サヨナラなんて言わないよ」
「分かった」
「おっさんも言わないでね?」
「うん」
「じゃあ、またいつか」
「うん」
彼は最後にグラスを拭いて顔をこちらに向けないまま最後の別れとなった。
幸せになる前に、あなたと会えて良かった。そんなあなたの幸せを願います。
そんな言葉を言えないまま私はバーを後にした。