幸せになる前に②
「よし。そろそろ行くぞ」
彼は私にそう告げて車の鍵を持ち出し、近くの駐車場へと向かった。
「平成」という産物を享受して新しいものを取り入れることを忘れた街であるこの街を私は「窮屈」という言葉で表し、この街から出ていくために大学へ行ってやろうと企んでいたのだ。結局専門学校になってしまったが彼がいるおかげで退屈な思いをしなかったし、歳とともにこの街が丁度よく感じられてきた。1度父親と母親に「高校を卒業してなぜこの街から出て行かなかったのか」という質問をしたことがあるが、「この街のサイズが自分に合っていると思っただけだ」と言っていた。あの頃の私には気が知れないことを言ったと思っていたが、歳を重ねると不思議と両親が思っていたことと同じ感情を抱き出していた。
彼の高そうな黄色い車体の低い4人乗りの車に乗り込み、彼の運転に委ねた。
煩い街を抜けて閑静な住宅街が並ぶ道路を走り海を目指す。彼の横顔が眩しい。48歳のおっさんには見えない。「この横顔を見てきた女性は今まで何人いたのだろう。また、これから何人この横顔を見るんだろう」私はそんなことを思うと胸が細い釣り糸で紐で結ばれて両端から思い切り引っ張られるような苦しい感覚に襲われた。去年の夏、サングラスをしながらも分かった悲しそうな顔。それが頭に焼き付いて離れないまま冬を越してしまった。今まで付き合ってきた女全員にこんな顔をして別れたんだろうか?私とも別れるときにそんな顔をするのか?そして、これから付き合う女にもそんな顔で別れるんだろうか?いや、もしかすると1人だけこんな顔をせずに彼が死ぬまで一生愛し続ける女がいるのだろう。それが私であるなら嬉しいが、そんなことがあるまい。
1人で根拠のありゃしない考え事をしていたらいつの間にか黄色い車は砂浜のど真ん中へ駐車し、色のない砂の上へポツンと置いてあった。
「降りよう」
彼の低い声が車体の低い狭い車内に響いた。
車を降りて彼が海へ歩き出すので私はそれに着いて行った。さざ波の音が心地の良いリズムで奏でていた。
彼は胸ポケットから煙草の入った箱を出し、1本取り出して先端に火を付けた。風の向きで煙が私の方向へ流れて、あのいい匂いが彼の香水の匂いと一緒に香った。
この匂いをかぐとあの時を思い出す。
それは私が高校生だった頃だ。勉強が好きではないのに自称進学校と呼ばれていた場所に入学した。私はお姉ちゃんに憧れて、この学校に入れば勉強も好きになって頭の良い大学生になれるかと勝手に思っていた。
実際、勉強も難しく課題の量も私がやりきれるものではなかった。秋風が吹き始めた頃、私は特にやることもないのに家から遠く離れたこの街をフラフラと裏路地を歩いていた。
早く帰らなきゃいけないのにこの背徳感が学校で溜まった勉強への鬱憤を晴らしているかのように思えて、それが気持ち良くて帰りたくなかった。
「お嬢ちゃん、高校生?」
肩をがっしりと掴まれて左耳で低い声が囁かれた。怖くなってこの場から動けなくなり、鳥肌が全身を走った。
「お金が沢山もらえるバイトあるんだけど見に行くだけ見に行かない?」
さらに男は囁いた。助けを呼ぼうとしても、ここで叫んだら殺されるかもしれない。そんなことを思うほど恐怖で怯えていた。このまま家に帰られないかもしれない……。
「おい、何してんだよ」
後ろからまた声がした。ああ終わった。お父さんお母さんごめんなさい。
「チッ。またコイツかよ」
男は私から手を離し大通りの方へ逃げていった。
「おい、大丈夫か。怪我とかないか?」
私を助けてくれた男は優しくも不器用にそう言ってくれて、羽織っていたシャツをワイシャツ姿の私にかけてくれた。男の温もりと香水の匂いが心地良かった。
「良かった。連れていかれなくて」




