幸せになる前に①
いつもの扉を開けると彼は毛布1枚かけて寝ていた。
「おはよおっさん」
「ん……」
半分夢の中に誘われている彼の返事に私はため息ひとつで答えた。煙草の匂いが染み付いたこの空間でホコリ被った赤いソファーには針のように細い彼がいた。今年で48歳となるのに歳の割に若く見え、ベッドの上で寝ていないのに元気で、メタボが気になり始める歳なのに女の私が自信を失くすくらい細かった。
彼はむくりと上半身を上げ、長い脚を地面に付けて左目を擦った。
「今日も早いですね」
「当たり前でしょ。もう8時なんだから」
「もともと夜型なのに……」
「仕方ないでしょ。私朝型なんだから。それよりさ、忘れてない?今日の約束」
「約束……?んー、何だっけ?」
普通ならブチ切れて顔面タコ殴りにしてやろうかと思ったけれど、彼の笑顔を見たらその気持ちが一瞬勢いよく出てきて、一瞬で引っ込んだ。
「おっさんが海へ行こうって私に誘ったじゃん!それすら覚えてないの?」
「あー、そうだそうだ!漁しに行くんだったっけな〜?この時期ならノドグロだとかウマヅラが釣れるな」
「え!?ほんとに?私、てっきりそんなこと知らなくて普通にお洒落してきちゃった」
しかも、よりによって白のセーター。防寒も全然出来ていないし服を買わなくちゃ。
「いやごめん。ウソウソ。漁になんか行かないよ」
「も〜!適当なこと言わないでよ!」
「ごめんって。そう怒んないで」
そりゃ怒るさ!寝起き早々に戯れ言なんて。
彼はそういう性格だ。だからこんな私を助けてくれてこんな私でも救われたんだ。
「確かに海へ行こうってことは言ったよ。けど、朝の海を眺めたってなーんもないでしょ。日が暮れるまで待とうよ〜」
「え〜。待てない待てない〜!」
「駄々こねるって子供かよ」
「歳の差だったら子供でもおかしくないでしょ?」
「まあな、知り合いにも息子がホノカと同い歳って人いるもんな」
私、倉森穂乃果は今年で24歳。彼はその2倍私よりも生きている。それなのに私よりも歳をとっていないように見えるし良くも悪くも純粋な人だ。
私たちはほんとにダラダラして日が傾き始めるまで煙草の匂いが染み込んだソファーやカウンター席に座って待っていた。昼時には彼が気を利かして冷凍食品のピザを温めて「店の物だけど」という言葉を添えて私に出してくれた。このようなやり取りは決して初めてではなく彼の仕事が終わる夜中の12時過ぎにデートをした時(この時間からだとあそこしかないけれど)、「腹減っただろ?」と言って出してくれたのもピザだった。その時も「店の物だけど」という言葉を添えていた。誰もいなくなったバーには静寂な雰囲気が漂っており、アルコールの匂いが鼻腔をくすぐった。彼とつまみながら食べたピザは何よりも美味しかった。私は三ツ星レストランのピザか彼の出してくれる冷凍食品のピザか選ぶのなら、迷わず彼のピザを選ぶだろう。この味は彼がいなくなっても私の記憶に残り続ける味であろう。
「やった!またピザだ!」
「だからこれはピザじゃなくてピッツァだって。ピザはまた別物だから」
このやり取りも大好きだった。ピザとピッツァの違いはとっくに知っている。彼がうるさく言うもんだからGoogle先生に尋ねた。でも彼とのやり取りが失われるのが怖くて私は今でもピッツァをピザと言っている。こんな私でも幸せを抱ける瞬間でもある。
私は薄っぺらく、具の重みで穴が空きそうなピッツァを口へと運んだ。




