予備校へ通う前に⑦
『カサもいろいろあるでしょ?テツさんに話してみなよ』
『そうだね。実はさ、俺の母親は難関校って呼ばれている女子大出身で父親は東大出たんだよね。だから相当厳しくてこの時間にならなきゃスマホ開けないんだよね。ずっと勉強勉強って言われて部活もしたことないの。あと、体育祭とか文化祭とか放課後に残ってクラスみんなで準備をすることも。だから放課後活動に凄く憧れているの。それに……』
言おうか言わないか迷ったのか、カサの声が途切れた。
『俺、歌手になりたいの』
『え!初知り!』
どうやら俺よりも前から仲が良かったイシダさんさえ分からなかったらしい。
『音楽に触れる度、自分は今生きているんだ。歌ってもいいんだ。って思うの。月に1回だけだけど、外で自習って言ってカラオケで歌ってるの。何日か昼食代を抑えてフリータイムで歌えるお金を貯めてね』
「じゃあさ、今歌える?カサの歌声、聞いてみたいの」
『私も。そんなことまでして歌いたいって思うカサの声を聞いてみたい』
『分かった』
カサが歌う。曲名は分からなかったがたまに耳にする曲だった。今の3人の境遇にとても合っていてキュッと胸が締め付けられた感覚になった。カサの声も透き通り、女性アーティストが歌っているこの曲をきれいに歌いあげた。聴き心地の良く、彼のような自分の夢を親に言う権利すら持っていない境遇の中を生きているからこそ出せる歌声だろう。
『凄い。聴き入ってしまったな』
「うん、言葉が出ないや」
『出てるじゃん』
「例えな」
『将来売れたら私たちこの夜を忘れないと思う』
『ありがとう。誰にも聴かせたことなかったから褒められて安心した』
まだ心に余韻が残っていた。カサの歌声が心の中で生き物のように動き回る。この生き物は数日、あるいは数週間生き続けるのだろう。




