怖くてトイレ行けなかった頃のデジャヴ
消えるって……花田、どういうことさ?
問うても答えは来ない。答えるつもりもないのだろう。
飛んだってことか?業界ではよくあることだ。おれも似たような辞め方だった。要は小規模な失踪のようなもの。寮であるアパートをもぬけの殻にしてのその行為もあれば、生活臭そのままに人だけ忽然と消えることもある。花田は後者だな。
でも理由はなんだ?さっきまで全く普通だったじゃないか。あの温和で意外に器用なあいつが店で揉めるってのも考えにくい。
ものすごく個人的なこと?そういや家族の事とか一切聞いてない、なんかワケありなのかも。
それか、まさか女?はありえないよな。いやでも人は見かけによらないし蓼食う虫もなんとかって……?まあそれはおれが小学生の時ばあちゃんに慰められた言葉でもあるが。
でも実際ありがちなのは……金、かな?そりゃ激しくギャンブルとか酒やってる様子もなかったけど、金関係って大人の事情のバリエーション豊富だから周りには悟れなかった何かがあったのかも知れないし。
んー、まあ。
わかんない。考えてもしょうがない。
でも花田は、まあ大丈夫だろう。少なくとも生きていく。それはおれの直観だけど、そうとしか思えない。そこに関しては不思議と心配はない。
それより。人の心配するよりさ。帰るところなくなったよ、どうする自分。
目を上げると、オレンジの夕日がまぶしい西の空。振り返ると、今来た道、駅前通りへ続く裏路地に自分の影が伸びている。おれは回れ右をして影と正面から向き合うと、ゆっくり右足を出してその黒い自分を踏みしめた。一歩、二歩、踏みしめ踏みしめ、東へ歩みを進めていった。
*
翌日、おれは駅前の不動産屋のカウンターで、おねえさんと向かい合いながら賃貸申し込み書類にサインしていた。
夕べネットカフェでじっくり見て回った情報によれば、事故物件は家賃重視のドライ派の間では人気らしいじゃないか。嫌だっていう人の気にしているポイントはみんな心霊関係みたいだった。なんだそんな子供じみた理由なのか、安いワケは。じゃあ、心霊現象信じないおれには、関係ない!
それに、人が死んだ場所っていうなら、江戸時代とか平安時代とか、そこら辺で行き倒れになる人いっぱいいたし、いろんな所で戦も行われてた。日本のえらい部分が事故物件じゃないか。
第一、第一な。他に予算内の住処はないのだ。金が欲しい。そのためには仕事、そのためには住所、そのための安い部屋。安定した職に就いて、ボーナス貰って、好きな部屋に住みかえればいいじゃないか。
あの部屋にはさんさんと日が射してた。あの部屋は明るい。大丈夫。あそこにいればおれの未来も明るい、きっと。
*
保証会社を利用すれば保証人はいらない上、大家も速やかに書類にサインしてくれたのか、契約成立まで意外に日にちはかからなかった。
新部屋の鍵を手にしたおれがまず向かった所は、花田の部屋だった。なぜ、だと?それはあいつの部屋に置き去りにされたおれのスーツと僅かな着替え、そして花田の服と小型家電をおれの新居に運び込むためだ。急にいなくなられた迷惑料。それにその部屋は店の借り上げ、店で買った家電の分でパワハラの清算ってこと!どうせ花田が持ち出したか金に換えたって思われるだけだし。あ、花田そこだけごめんっ。
おれはまず初めに、働いてた店の隣のバーへ行った。ご近所付き合いで顔見知りになっていたマスターに台車を一台借りるために。もちろん元同僚と上司に見つからないように。そして花田の住んでいたアパートへ行き、店のやつと鉢合わせしないか少しヒヤヒヤしながら使えそうな物たちを運びだし、ささっと台車を返却した。
一番ヒヤっとタイムが長かったのは洗濯機かな。まあ花田部屋が一階でよかったよ。
搬入を終えたおれは安堵のため息をついた。そしてまだ見慣れない新居の中を見回す。布団と段ボールが二個と衣類の詰まったゴミ袋(大)が無造作に置かれた畳の部屋。洗濯機はパンに収めた。二畳ほどの台所には小型テレビと電子レンジが鎮座してる。すべてが沈黙してた。
おれはハッとした。まだ休憩はできない。素早くスマホを取り出し、目をつけていた求人のページを開く。そしてフォームに必要事項を入力し送信した。住所は、契約書を引っ張り出して書いた。するとそこに、登録している単発派遣のサイトから明日のオファーが来た。よし、食いつなぎOK。
達成感!おれは青い畳に寝転んだ。瞬間さっと起き上がってしまった。よみがえる不動産屋のおねえさんの声とともに。
「入居者が亡くなられた」
「自死との報告です」
いやいや。畳替えてるから。ここの上でないことは確かだから。自分をなだめすかすように畳を指差し確認して寝直す。
そこでまたパッと起き上がった。
「ヤオイチが閉まってしまう」
近所の安売りスーパーは弁当が安くてボリュームがあるというので評判の店だ。しかし七時に閉店してしまう。なので六時頃には行かないと惣菜が売り切れてしまう時も多い。すぐに駆けつけなくては。
そして無事豚生姜焼き丼を手に入れたおれが部屋に戻った時、時は六時半だった。
「ひさしぶりの『自分ち』だなあ」
心の中でただいまと言ってみたりしながら玄関を上がる。当たり前だがそこはしんと静まり返っていた。薄暗い。この場所の知らない顔を見た気がしたおれは、なぜか慌てて照明スイッチをパチンと押した。部屋は青白い光で満たされた。弁当を開けて仮のテーブルである段ボールに乗せると、これは食べ物をまずく見せる光だ、と感じた。
「カフェの薄暗いオレンジの電気とか、メニュー見えなくてうぜ、と思ってたけど、なるほどそういうことね」
おれはそう一人ごちながらも、鼻をくすぐる生姜だれの香りをすいこみ笑顔になっていただろう。
もそもそと、生姜焼き丼を食べる。ひとりで。もそもそ。もそもそ……
「あ、そうだ」
おれは箸を置き、むき出しのままキッチンに鎮座していたテレビを素早く部屋に運び入れた。そしてプラグをコンセントに繋いだ瞬間気づく。アンテナケーブルがない。
「盲点だった。急いでて花田部屋に忘れてきちゃったよ」
いいか、明日ホームセンターで買おう。テレビを諦めたおれは音楽を流そうと思い、スマホをセッティングした。そしてだいぶ下げてあったボリュームを上げようとするが、いくら音量調整ボタンを押しても目盛りも動かなけりゃ音も大きくならない。
「なに。壊れ?不具合?」
スマホの不具合はいつもヒトを不機嫌にさせる。明日の単発仕事終わりはホームセンターの前にまずスマホショップだな。
それでも肉は旨い。腹も満ちた。まあとりあえずは不機嫌相殺。最後の一口を味わいながら空き容器をビニール袋に詰めて口を縛り、窓側を向いてたおれは台所へ向かおうと振り返りざま腰を上げようとしてひるんだ。
この部屋の間取りはこうだ。区画全体はほぼ真四角。その南半分が居室。そして北半分が玄関、風呂、キッチンエリアなのだが、まず北の真ん中に玄関。北西の角には3点ユニットのバストイレ。その南に洗濯機スペース。そして東半分は台所となっている。居室の北東角にある押し入れが台所側に突き出している形。
今おれのいる位置からは、風呂や玄関が部屋から漏れる蛍光灯の光にぼんやり照らし出されている様子がチラッと見える。
デジャブを感じた。小学3年まで住んでいた古い貸家がこんな感じだったからだろうか。
そして、その頃以来の感覚が去来している。ずっと忘れていた感覚。でもいったん思い出すと生々しく鋭利な。
こわい。
家の暗闇がこわい。死角がこわい。そこへ突き進むのに強い抵抗を感じる。おれは台所にゴミを置きに行きたい。が、今見えてる薄暗がりの右奥に潜む場所が怖くて仕方がない。死角に存在するはずの“そこ”が見てはいけないゾーンのような気がしてならなかった。