17 不本意な餌付けに成功
そこに佇むは正に異形。そうとしか形容する事ができなかった。全身が泥にまみれて、その地肌は判断が付かない。髪は有るのだろうか? 頭部までかっちりと泥で覆われていた。かろうじて分かるのは、頭が有り、胴体がある。そしてそれらに付随して手足もあり、その手に1本の石斧が握られている事だ。
そう、武器を所持している。奴はこちらを殺る気なのかもしれない。
「い! イソカ! やややや、奴に気を許したら、ダメですよ。受け入れたら、ここまで入って来ちゃいますからね!?」
クロ―シアは何も見たくないとイヤイヤしながら頭を振りつつ俺に忠告をくれた。そうか。緑魔法陣は、俺の気持ち次第で入居者を選別できる優れ物なのか。
安心してくれクロ―シア。俺もあんなのを入れたく無いよ。
どうした物かと俺たちが固まっていると、異形の、本来は目が有るべき場所の様なところから、さめざめとした湿潤液が溢れ出てきた。
……お前、……苦しいのか???
『がぁぁぁああべぇぇええぃぢぃぃいでぇぇぇええええ!!!』
また新たに咆哮を上げる異形。そのままダッツ! と足をけり出し、こちらに突進してくるでは無いか!
『バシンッ!』
魔法陣に阻まれる。
『べシンッ!』
その進撃は先へとは行かない。
何度もその突進を繰り返す度に、ぺリ、パリ、と異形の身体を組成する物が剥がれ落ちて行く。
『ぅぅぅうぼぉぉぉぉぉんんねぇぇぇぇぐぅぅぁぁあああぃぃぃいいいぃよぉぉぉぉおおおおお!!!!
がぁぁぁああべぇぇええぃぢぃぃいでぇぇぇええええ!!!』
異形は力を無くしたのか膝を落して魔法陣の壁に両手をついて項垂れかかる。湿潤液は止まる事を知らないのか、更に勢いを増していた。
そうする中で次第に異形の構成物は剥がれ落ち、その本体が徐々に現れ始めて来るのだった。
そこは金色の長い繊維があり、おそらく元は白かったで有ろう衣服を纏った女が居た。
「……お前、イルメスだったのか……???」
その言葉を聞いて、イルメスはバッと顔を上げて血走った目をこちらに向けてきた。怖い。正直異常だ。クロ―シアも泣きそうになっている。大丈夫だ、クロ―シアは俺の背中に隠れていなさい。
「そうよぉおお! 麗しくてぇ! 可憐でぇ! 清楚なぁ! 泉の女神イルメスよぉお!」
「いや、そのどれも今のアンタにゃ無いだろうよ!」
「あんたじゃないいぃぃぃ! 天上の神秘ぃたるイルメス様よぉぉおお!」
あ、そこに拘るのね。
「それで、天井の侵泌さんが、どうしたんだ? こんな早朝は非常識だろ?」
「お願い! 返して! 私の『パンドラの箱』を! あれが無いと私の存在意義が無くなっちゃうのよ!」
『パンドラの箱』? そんなの知りません。
「知ら無ぇよ !ここに『パンドラの箱』なんて無い。有るのは泉の箱って言う便利アイテムだ。他を探すんだな」
「何よぉ! 有るんじゃない! あの子は貴方よりも私の方が相応しいの。あの子じゃなくちゃ私はダメなの! お願いよ。もう一度あの子に会わせて……温もりを感じさせて……」
もう、イルメスは全力だ。全力でキモい。顔はぐっしゃぐしゃに涙と苦悶の表情で彩られている。これは当初の目標を達成できたな。ザマミロだ。
「残念だけど、泉の箱はもうウチの子です。お引き取りください。クロ―シア、アレは惨めな雨漏りさんだったよ、キモイだけの存在だから、怖がる必要は無いよ」
「本当ですか?イソカ。……そうですね、イソカがそう言うなら私も勇気を振りしぼります」
「ちょっと! 無視しないでよ! このドロボー! 神でなし! ちがった。人でなし!」
五月蠅いだけのイルメスを放置して、俺たちは朝食を取る事にした。
いつもと変わらぬデカいパン。もそもそと雑な味しかしないけど、クロ―シアと一緒ならそれでごちそうだ。彼女もニコニコ顔でパンを頬張っている。実に幸せな一時だ。
そう、雑音さえ無ければ。
『ぐうぅうぅぅぅううぅうぅぅぅう~~~~~~~~~』という地獄の底から響いてきた様な腹の虫の音をがなり立たせて、イルメスは滝の様な唾液をダバダバと垂れ流している。
「何それ? 何なの? それを見たらお腹と口がおかしくなったわ! きっとけしからん物なんでしょう? 人間にはまだ早いわ! 私が処理してあげるから寄越しなさい!」
もう、うっとおし過ぎて辟易としてしまう。あれだ、野良犬をどっかに追い払う方法を取るしかないな。
「五月蠅いぞ! コレを食ったらさっさと帰れ!」
掴んだパンを力いっぱいに投げ捨てる。かなりの遠投になった。それを追いかけてイルメスは走り去っていった。もう、戻って来るな。
「……イソカ、やっと静かになりましたね。この方が良いと私は思います」
「そうだな。なんか、朝から酷く疲れたな。今日の午前中はまったり休んで午後から頑張って働こうか」
「そうですね。それなら二度寝をしましょう。イソカは寝不足なんですから。それと……腕枕もして下さい。そ、それがイソカの義務なんですからね!」
真っ赤な顔をして、ピコピコと耳をしきりに動かすクロ―シア。おねだり可愛い。それを応えるのは男の甲斐性だね。やってやるともさ。
2人で穏やかな時間を過ごす。最近は殺伐とし過ぎていたんだ。こんな時間はちょくちょく作った方が良い。きっと心が健康になってくれる。ずっとこうして居たいなぁ。
でも、やっぱりそれは儚い夢だった。遠くから『タッタッタッ』という音が聞こえて、次第に『ダッ! ダッ! ダッ!』と激しい音になってきた。そう、奴がまた来たのだ。
「何よ! 凄いじゃない! ほっぺたが落ちそうになったわよ! あれは女神にこそ相応しい物だわ! もっと寄越しなさい!」
欠食児童がパン屋のガラスに顔を擦りつけるようにして、イルメスが魔法陣の壁にぶつかってきた。もう、台無しだ。大人しくしていれば美人だろうに、イルメスの顔はべたりと潰れてしまっている。
そうだ、野良犬に餌をあげちゃダメなんだった。
イルメスの勢いは衰える事が無い。このままで外に出よう物なら、何をされるか分かった物じゃ無かった。
「あー、あー。分かった。落ち着けよ。俺は寛大だから、1つだけ譲歩してやるよ。いいか? イルメス。泉の箱かパンかどっちかを選べ。俺たちに変な事をしないって誓うなら、そのどちらかを譲歩する」
「ちょっと? 横暴よ! 私は自分でそのパンとやらを手に入れられないんだから、選べる訳ないじゃない。……でもそうね、パンならそれって毎日?」
「……ああ、良いぞ」
「何個?」
「3食それぞれ1つだけならな」
「乗った! それで良いわ。いつ達成できるかも分からない使命よりも自分の幸福よね。これからよろしくね、イソカ!」
そう言うとイルメスは魔法陣の中に入ってきてしまった。
「んな? イソカ! 何やてるんですか! これって彼女を受け入れる事につながりますよ!?」
何だって! こんな事でか? 俄かには信じたくなかったけど、イルメスは安全地帯の中に入ってきてしまっている。そして、俺の視界の左端にある仲間の3パラメータ(スタミナ・体力・精神力)ゲージにはクロ―シアに加えて、イルメスの物も表示されていた。
「クロ―シア、なんかゴメンな。俺、早まった行動したよな」
「悔やんでもしかたありません。できるだけ前向きに生きましょう」
「さ、じゃんじゃんパンを持ってきなさいな」
こうして、『天井の侵泌』と書いて『雨漏り』と読む残念(特に頭)な女神が仲間になってしまった。この後俺たちはどうなるんだろうか? 安寧の日は来るのかな?
それは分からないけれど、更なる衝撃はこの後に泉の箱を使った時にまた訪れる。
俺はこの世界が、スローライフの皮の下に狂気を敷き詰めているという片鱗を垣間見る事になってしまった。