1-12 きっかけ
廊下を駆け続け、一目散に自分の部屋に飛び込んだ。
「はぁっ......。はぁっ......」
勢いよく扉を閉め、その扉にもたれかかってようやく息をつく。
走り続けたことと、叫んだこと、気が動転したことが重なって、心臓が痛いぐらいに激しく脈を打っていた。
しばらく動かずに息を整え、ようやく扉から離れてドサッとベッドに横たわる。
天井をぼんやりと眺めながら、さっきまでのやりとりを回顧する。
部屋を飛び出す直前に、涙を流してしまったことを思い出し、そっと目尻に指を添えると、まだ湿り気を感じた。
(あんなに大声で叫んだの、いつぶりだろう......)
ひたすらに自分を押し殺し、偽りの笑顔を張り付けることが当たり前になった日常。
それをあんな軽い感じで疲れないか? なんて言われて......ついカッとなってしまった。
(どうして......。どうしてこんな風になっちゃったのかな......)
ゆっくりと瞼を閉じ、思い出すのは過去の記憶ーー
ーー小学4年生だったある日。それは思いがけなく幕を開けた。
いつもと同じようにクラスメイトと遊んだり、授業を受けたりして、放課後になる。
その日は当番だったので、チョークを補充したり仕事をして、帰り支度を始める。ランドセルを背負って教室を出ようとすると、ちょうど一人の男の子が入ってきた。
その子は運動神経もよくて、明るくて、クラスで一番の人気者だった。そんな子に、あたしは突然告白された。いきなりでびっくりしたし、たまに話したりするけど別に恋って意味で好きって訳じゃなかったから、
「う~ん、友達でいようよ」
と言って断った。
そもそも、その頃のあたしは、男の子を好きになるとか、そういう感情にまったく縁がなかったので、断り方もよくわかんなかったっけ。
いきなりのことだったからびっくりしたけど、断り文句としては当たり障りないチョイスだったと思う。
そして、その翌日。小学生の口の軽さってどうしてあんなにすごいんだろう。
その男の子があたしに告白したことはクラス中に知れ渡っていた。
あたしが教室に入ると一斉に視線が集まり、どうしたんだろうと思いながら席に着くと、仲のいい友達が机のそばにやってきて、
「ねぇ、ひなちゃん。昨日○○君から告白されたって本当?」
「えっ」
小声でそんなことを聞かれ、びっくりしてしまう。
あたしは誰にも言ってない。っていうことは、男の子の方が誰かに相談とかしてて広まったのかな。
まもなくチャイムが鳴って先生が入ってきたからそこでいったん話は中断。
それ以降の休み時間に掘り返されるかと思って身構えてたけど、不思議なことにそれ以上聞かれたり、はやしたてられたりすることはなかった。
けど、その代わりに、何人かの女の子があたしの方を睨んでいるような視線を感じて......怖くなってその日は足早に家に帰った。
それからだ。あたしがいじめの標的にされたのは。
はじめのうちは、何人かの女の子に無視される程度だったけど、その相手が悪かった。クラスで中心的な女の子で、性格も気が強い子だったから。
日が進むにつれ、だんだんエスカレートしていった。
靴が隠されるようになってからは、机の中の教科書やノートがなくなり、またある日にはノートの中に落書きがされていた。
ブス
何様のつもりだ
学校くんな
○○君に近づくな
落書きを見て、ようやくあたしはいじめられている原因を理解する。
いじめを始めた女の子は、あたしに告白してきた男の子のことが好きだったらしい。
クラスの人気者だっただけに、その子以外にもその男の子のことを好きな女の子もいて、あたしのことが気にくわなかったんだ。
でも、そんなのあたしにはどうしようもない。
だって、その子が勝手にあたしのこと好きになっただけじゃない。それに、受け入れたならまだしもあたしは断った。
なのに、どうしてあたしがこんなことされなきゃいけないの?
自分では手のうちようのない原因でいじめられている。そんな理不尽があたしは悔しかった。
けど、どうすることもできなかった。
これまで仲良くしてた友達も、いじめのターゲットになるのを恐れて、次第にあたしに近づかなくなって、あたしは一人で学校で過ごすようになる。
たちが悪いのは、男の子や先生の目につかないようにいじめが行われていたことだ。
本当は気づいてたのかも知れないけど、周りの人は誰一人あたしを守ってはくれなかった。
それでも、あたしは耐えた。
辛かったけど、泣きそうになった、いや、お父さんやお母さんに心配をかけたくなかったから一人でこっそり泣いたけど、耐えて、耐えて、小学校を卒業した。
クラスの子たちと同じ学校には進学したくなかったから、がんばって勉強して、家から片道1時間ほどにある私立の中学校に入学した。
幸い、いじめてきた子たちは一人もその中学校にはおらず、新しい友達もたくさんできた。
部活も始めて、平穏な学校生活を送れていたと思う。
なのに......
「俺、白石のことが好きだ。付き合ってくれ」
「えっ」
2年生になって迎えた5月。クラスの男の子に告白された。たしか、サッカー部のレギュラーって言ってたかな。
最近話しかけられることが増えたな~って思ってたけど、まさか告白されるなんて思ってなくて驚いた。
「えっと......お友達じゃダメ......かな?」
「そっか......わかった。急にごめんな」
「う、うぅん」
そんな感じのやり取りだったと思う。
既視感を覚えるやり取りに嫌な予感がしたのを覚えてる。
そして、残念ながらその予想は、前回を上回る形であたしに襲いかかってきた。
「白石さん。好きです。付き合ってください」
「白石、俺と付き合ってくれない?」
最初の告白のあとに、立て続けに別の二人の男の子に告白されてしまった。
しかも、みんな女の子から人気のある男の子。似たようなやり取りで断ったけど、あたしの心は不安で一杯になった。
そしていよいよ。クラスの女の子から校舎裏に呼び出され、そこに向かうと
「白石さんさ、最近調子に乗ってるんじゃないの?」
「えっ......。どういうことかな?」
「男子に色目使ってさ、ちょっとモテるからっていい気になってるじゃない」
「......そんなことないよ」
「あっそ。まぁいいわ。これからは精々大人しくしてなさいよね」
それから、またあたしへのいじめが始まった。そして、今度のいじめは小学校のころに比べて過激だった。
ノートは引き裂かれ、
ビッチ
ヤリマン女
死ね
といった罵詈雑言が書きなぐられていた。階段から突き落とされそうになったり、体育の授業から戻ると制服がびしょ濡れだったり、鞄のなかでお弁当がぶちまけられてたり......
過激だったぶん、男子も気づいて、何人かの男子が止めに入ったりしてくれた。
だけど、それは結果として火に油を注いでしまうだけ。
また男に媚を売った。そういう風に解釈され、より陰湿ないじめへとエスカレートしていいく。
男子の前では優しく笑顔で振る舞い、その裏では歪んだ顔であたしをいじめる。
なんなんだこいつらは。悔しい。悔しい。悔しい。
そう思うけど、多勢に無勢、状況を打破する糸口はつかめず、ストレスに満ちた日々が延々と続いた。
わがままを聞いてもらってこの学校に通った以上、両親に心配もかけたくなかったので、家では無理して笑っていた。仮面の笑顔を張り付けて。
学校ではいじめに耐え、家では無理して笑顔で過ごす。そんな日々のなか、あたしのストレスのはけ口になってくれたのが......日記だった。
あたしをいじめてる子が、男子の前ではかわい子ぶって振舞う。
その裏であたしにしていることを思うと、どうしようもないほどに怒りがこみあげてきて、お返しとばかりに罵詈雑言を書きなぐった。
直接言い返すことはできないけど、日記に暴言を書きなぐることで、少しはやり返した気がして、スッと気持ちが楽になった。
それからというもの、日記を通して、あたしはいじめてくる女子に復讐してストレスを発散するようになる。
どうしてあたしが悪者にされなきゃいけないの。
悪いのはかわいいあたしに勝手に惚れたあいつらで、ブスで見向きもされないあんた達自身じゃない。
口には出せない本音を、隠すことなくさらけ出すことで、学校で、そして自宅で自分を押し殺す日々を耐えることができた。
そして、その地獄の日々にもようやくピリオドが打たれる。
卒業式の日、あたしは決めた。
もう同じ失敗は繰り返さないと。
エスカレーター式の私立学校だったが、そこの高校には進まず、再度受験して別の高校に通うことにした。
親に不信がられるといけないからまた必死に勉強して、もとの高校よりも偏差値の高い学校に合格し、いい大学にいきたいという大義名分を得て許してもらえた。
小中学校では、なんの警戒もせずに男子と接していたから、あんなことになったんだ。
あたしは他の子よりもルックスはかなり恵まれている。
これを念頭に置いておかないと、また同じ失敗を繰り返すかも知れない。
お高くとまっているように見えないようにしつつ、必要最低限のコミュニケーションも男子ととる。
さらに、悪目立ちをせぬように、クラスの中心的な女子のいるグループに入る。
そういったことを心に刻み、最新の注意を払って高校生活の日々をスタートさせた。
作戦は大成功。クラスの中心的グループどころか、あたしが女子の中心になった。
男子にも愛想よく接して、それでいて距離感が近くなりすぎないように心掛けることで、どうやらクラスのアイドル的な存在になってるみたい。
全部うまくいった。これでもう心置きなく学生生活を謳歌できる......
そう、思ってた。
確かにいじめの標的にはされるようなこともないし、クラスでもうまくやれている。
だけど、何にも楽しくない。
女の子と話していても、いつの間にかその子たちの顔色を窺って話を合わせるだけ。
たわいもない話ならまだいい。だけど、たまに他のグループの子の陰口のときは最悪だ。
聞きたくもない他人の悪口を聞かされ、それに笑顔を浮かべて相槌をうつ。そして頃合いを見計らってトイレと言って席を立ち、会話から逃れる。
そんな日々を過ごすうちに、あたしはまるで違うあたしが学校で生活しているかのような感覚を覚えるようになる。
浮かべたくもない笑顔を常に貼り付け、聞きたくもない話に耳を傾け、相手の反応や雰囲気で次の行動を選択する。
頭がおかしくなりそうだった。
これまでとは違う、嫌われないように日々を過ごすこと自体が、あたしにとてつもないストレスを与えるようになる。
本当はそんなことに気を回したくない。ヘラヘラ笑っているのも疲れた。
心が悲鳴を上げそうになったときに再びあたしをたすけてくれたのが、日記だった。
○○が△△のことが気に入らないだってさ。はぁ? 興味ないっての!!
あたしと関係ないこと吹き込むなよめんどくさい!!
以前書いていたこともあって、日記にはスラスラと本音が吐き出せた。
学校で被っている仮面を捨てて、本当の白石陽和でいられた。
それがとても心地よく、疲れて、枯れそうになっていた心にわずかに活力が溜まっていくような気がした。
それから、日記を書く手帳は、あたしのお守りがわりになる。
これさえ持っていれば、仮面を被って過ごす学校生活にも耐えていけると思えた。
これを心の支えにして、あたしはこれまでの地獄のような日々を耐えてきた。
そしてそんな日々はこれからも続く。
あたしは人当たりの良いだれからも好かれる白石陽和を演じなきゃいけない。
なのに......。
なのに、あいつは......。
「疲れないか?」
(ムカつく! ムカつく!! ムカつく!!!)
無性に腹が立つ。
ただ、先ほど涙を流してまで本音を吐き出したせいか、新たな文章を書きなぐる気分も起きてこない。
あたしはその日、久々に手帳になにも書き記すことなく、いつの間にやら眠ってしまっていた。