どこだ、ここは!
「どこだ、ここは……」
月並みな言葉しか出てこなかった。
俺はたった今、自宅最寄り駅の改札を抜けて、駅前ロータリーに出たはずだった。なのに、目の前に広がっているのは森だった。たくさん木が生えている。そして、暗い。
降りる場所間違えたのだろうか? 仕事を終えて帰ってきたので時刻は夜だ。それはいい。だが、駅前なのに街灯もなにもない。本当に真っ暗だった。居酒屋はどこだ? タクシー乗り場は? 俺はそんなに田舎に住んでいるつもりはないし、さっき電車に乗っていた時だって車内に人はたくさんいた。いたのだが……。
あたりを見回しても何もない。そもそもこんな場所知らない。通勤の定期券の区間内でこんな場所あったか? いや、ちょっと思いつかない。
などと考えつつ、自分が何か得体のしれないものに巻き込まれたのを自覚はしていた。なぜなら、背後を振り返ってもさっき出てきた駅がない!周囲にはやっぱり森しかない。うっそうと茂る森だ。
駅はどこ行った! ない! どこにもない!
ここで一つ深呼吸。落ち着いた……、ようで落ち着いていない。頭の中は混乱していた。
何が起こった?
さて、もう一度叫んでもいいのか?
そろそろ我慢の限界だ。
いいだろ?
せーの。
「どこだ、ここは!」
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俺、風見周史は今年で三十六歳になるシステム開発会社の会社員。
経歴は平凡。地元の国立大学を出て、就職。
社内ではテスター(システムやアプリを試験・評価する人)、プログラマーを経て、システムエンジニア、そこからもう一段飛んで、プロジェクトマネージャーになった。
役職は課長。部下は三十人ほど。
営業が血眼になって取ってきた案件の開発計画の立案と顧客対応が主な仕事。
まずは顧客と話を詰めて、システムの要件定義、作業の範囲、外部仕様の作成くらいまでをして契約。
その後、開発するシステムの規模に応じて計画を立てて、あとの実務は部下に任せる。
進捗確認、予算管理、品質管理、俺は基本的に管理が仕事。
まぁ、どこにでもいる管理職だ。
ちなみに六年前に結婚して、妻と子供もいる。
五歳になる娘に「大きくなったらパパと結婚する」と言わせるのが目下の目標。
だが、「りんちゃんは大きくなったら誰と結婚するのかな?」と聞くと、「きぃぐみのたくみくん!」と元気に返されてしまう哀れな父親だ。
ちなみにそのたくみくんは、俺の目の前で「ぼくもりんちゃんとけっこんする!」と宣言してくれたリア充野郎。
こいつ(五歳児)を亡き者にすれば、りんちゃんは俺に振り向いてくれるだろうかとガチで考える大人げない男でもある。
さて、そんな俺が今日、出社する前に妻からコートをもらった。そういえば、今日は俺の誕生日。すっかり、忘れていたが三十六歳の誕生日だった。外見を気にしなくなってから、もう何年もたつ。さすがに顧客の前に出るときだけは身だしなみに気を付けているが、普段はよれよれのスーツを着ていた。コートも丈夫なのをいいことに何年も同じのを着ていたが、さすがに古くなったからと妻が買ってきてくれたらしい。出社前に、鏡の前でそれを着せてもらって見た目を確認する。
真黒なコートだった。
「なんか、ホストみたいじゃないか?」
夜の繁華街にいる茶髪の兄さんたちが着ていそうな色だ。だが、妻は最近だらしなくなってきた俺の脇腹をつねりながら言う。
「そんなことない! シュッとして見える。似合ってる」
言い張る始末。
もっとも、色はともかくとしてデザインは悪くない。ため息をついたあと、ありがとな、とつぶやいて家を出る。玄関で妻に「おいしいもの作って待ってるから」と送り出された。もうこの年で誕生日を祝ってくれなくてもいいのだが。妻は九つ下の二十七歳。俺と違って気持ちもまだ若いのだろう。
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それが今日あった出来事。そして、会社での仕事を終えて帰宅しようとしたら、このありさま。なんなのだ? マジで、どこだここは?
家では俺の誕生日を祝おうと妻と娘が待っている。なのに、自分の現在位置がわからない。そうだ、グー○ルマップ! スマホを取り出したが、だめだ、『現在位置が取得できません』とかいいやがる! おい、早く帰りたいのだが! はやく、家に帰って娘を膝に抱っこしたいのだが!
とはいえ……。
そろそろ決断の時だろうか。自分がどうなってしまったかわからないが、とにかく移動しなければ。ここにいてもどうにもならん。せめて、車道にでも出ることができればいいのだが。
通勤カバンを片手に暗い森の中を歩き始めた俺は、すぐに迷子になった。いや、もともと迷子みたいなものだったから別に状況は変わってないのか。森は一本道ではなかった。分かれ道があるたびに適当に進んだが、どれだけ歩いても何も見えてこない。
「どうしたらいいんだ……」
疲れて、その場で立ち尽くしていると、右手の茂みがガサガサと音を立てた。
なんだ!? 野犬か!?
警戒していると、中から出てきたのは三人の子供だった。俺の胸元までくらいの身長。
暗くてよく見えないが、手に何か持っていた。
「うん?」
森の中、わずかに差し込んだ月明かりがそれを照らした。鉈のような刃物である。
「ま、まじか……」
一瞬で背筋が凍りついた。こいつら刃物なんか持ち出して、どうするつもりだろうか。
ハッ!?
これが世に言うオヤジ狩りというやつだろうか。まさか、それが自分の身に降りかかるとは思わなかった。法治国家日本。その安全神話はどこに行ってしまったのか。とにかくここにいては危ない。俺はその場から逃げ出した。
しかし、悲しいかな。
三十六歳の体力は百メートルくらい走ったところで、あっさり底をついた。そういえばここ数年運動していない。ジムにも通ったことがあるが、三か月で退会した。俺はインドア派なのだ。奴らはそんな俺を追い詰めようと近づいてくる。
無神論者の俺は何かに祈った。だが、宛先のない祈りが誰かに届くことはない。
もはや限界寸前の心臓。俺は左胸を押さえて、木の幹に背中を預けた。
「だめだ、もう走れん」
俺は半ば観念しながら、迫ってくる子供たちに視線を送る。深く暗い森の中、おいしげる木々のわずかな隙間から月の光が降り注いでいた。その光に照らされて、俺を追い詰めた子供たちの姿を今、初めてしっかり見た。
「え? ええ?」
思わず二度見した。確かに背は子供くらいだ。しかし、なんというか……。これは……。まず肌が緑色だった。ほぼ裸で、体を覆っているのは腰巻のみ。それに、口の端からのぞくするどい犬歯、頭には動物の骸骨をかぶっていた。手には先ほども見た鉈。俺はこんな姿をした生き物を知っている。
「ゴ、ゴブリン?」
見まごう事なきゴブリンだった。俺はあっけにとられてその姿を見ていた。一瞬、ハリウッドの特殊メイクかとも思ったが。状況が全く理解できない俺は身動き一つできなかった。通勤カバンを盾にするくらいは思いついてもよかったのに、そんな余裕すらなかった。そして、奴らが徐々に近づいてきて、その鉈を振り下ろそうとする。
俺は、他人事のように、ただ呆然とことの成り行きを見守っていた。そのままだったら、あっさりと殺されていただろう。
しかし……。
ぶおっ!
鈍い風切り音がした。
目の前で薄笑いを浮かべ鉈を掲げていたゴブリンたちはもういない。何が起こったのだろう。だいぶ離れた地面の上に倒れてのたうち回っていた。奴らはあわてて起き上がるとこちらを見て、そして逃げていった。なんだ? 俺の隣に人影がある。へたり込んだまま、その人物を見上げた。
それは一人の少女だった。
胸や腰の緩やかな曲線が月の光に浮かび上がる。
少女はビキニアーマーみたいな露出の多い鎧みたいなものを着ていたが、覆っているのは胸と腰くらい。刺激的な格好だが、それより目を引くものがある。
頭に二本の角、背中に翼、そしてうろこを持つしっぽ。俺はごくりとつばを飲んだ。第一印象は……、ドラゴン? 竜人というやつだろうか。手には長い柄の先に斧がついた武器、ハルバードを持っている。燃えるような赤い髪が印象的な十五、六歳の少女。ちなみに顔はとても可愛らしかった。
少女は言った。
「夜中に森を歩くのはあぶないゾ。こんなとこで何をしているのダ?」