柳川の戦い 【終幕】 仕置き
◇◇
慶長5年11月3日、大坂城ーー
柳川の地で、激闘が繰り広げられている中、大坂城の西の丸は、二人の男によって、静かな緊張感に包まれていた。
一方は言わずもがな、この西の丸の現在の主人である徳川家康である。
そしてもう一方は、九州取次であり、島津と徳川の間の交渉事を任されていた寺沢広高であった。
家康としては、多少条件がついても、立花の改易と島津を自分に服従させる事という二つは、必ず成し遂げておきたい事であった。
その為にも、鍋島直茂と加藤清正、黒田如水の連合軍による立花家の柳川城攻めと、その後に予定されている島津攻めは、なんとか年内の成功を願っていた。
しかし、政治の地盤固めに忙しい最中にあって、彼自ら九州に赴く訳にもいかず、ひとえに目の前にいる寺沢広高の手腕に頼っていたのだ。
一方の寺沢広高は、非常に実直で誠実な人間であった。同時に、取次役には最適な公平性を持ち、彼が正義と信ずる事は、徹底的になさねば気が済まない固い部分も持ち合わせた人だったのだ。
よって、彼は自分の利によって心が動かされるような、軽薄な人ではない。家康はその事を知っていたからこそ、広高が時折、豊臣秀頼に呼ばれていても、さして気にはしていなかった。
広高であれば、秀頼がいかに彼にとって都合の良い条件を出そうとも、徳川の不利になるような交渉はしないだろうと考えていたのだ。
そして家康自身も、広高を動かす際は、必ず「九州の平和、強いては日本の泰平の為に」という大義名分を掲げたのであった。
そんな広高から「話がある」と会談をこわれたのは、前日のことである。
家康は、あまり良い予感はしなかったが、九州の事は彼の中でも、東北の伊達政宗の動きとともに、大きな懸念事項であった為、その翌日、すなわち今日に早速会談の場を設けたのだった。
「して、話とは一体何事かな?良い報せならよいが…」
そう切り出したのは、家康の方であった。
広高は深々と礼をすると、
「恐れながら、申し上げます!」
と、何の駆け引きも、はったりもする素振りなど見せずに、すぐに本題に移った。
「豊臣秀頼様が治める天下において、関ヶ原の一戦以降、各地で戦乱が起きていること…秀頼様は、大変心を痛めております」
「ふむ…であろうな。だからこそ、島津が石田方に味方したことを謝罪し、今後はわしの指示に従って、九州の安泰に勤めるように、お主には説得して欲しいのだ」
含みのあるような家康の物言いにも、広高は、
「徳川内府殿のお言葉、ごもっともにございます!」
と、深々と礼をした。その様子には、やはり何も裏を感じることはない。
家康は少々興ざめをして、
「ご用はそれだけかな?それであれば…」
と、会談を切り上げようとした。
しかし、広高はそれを制するように、続けた。
「その秀頼様に向けて、柳川城を攻めておられる黒田如水殿より書状が届きましてございます」
その言葉に、家康の表情が明らかに変わった。
「なに!?如水殿からだと!?」
「はっ!秀頼様が是非、徳川内府殿にお見せするようにと、ここに!」
「ふむ…」
短い返事は、彼の心が差し出された書状に既に向けられている何よりの証であり、彼はそれを受け取るや否やすぐに開いた。
そこには、生々しい戦況の事が書かれていた。
ーー立花と鍋島のぶつかり合いが、ことの外激しく、農民たちは、麦もまけず、冬の支度もかなわず、あえいでおります。
それに加え、薩摩からは島津も軍を出した模様にございます。
民の事を思い、戦闘ではなく交渉に徹してきた、黒田と加藤の手にはおえません。
それはまるで、『民』の生活を引き合いに出し、戦を継続することが不当であると言わんばかりであった。
この時点で既に家康の指示の「民の為の泰平」という大義が、「今冬の生活の為」という極めて目先の理由によって薄れてしまった。
そして、その書状の締めくくりは、さらに家康の腹の内をえぐり、彼は思わず右親指の爪を噛んだ。
ーーついては、徳川内府殿が政務に忙しい今、これ以上民を苦しませないよう、豊臣秀頼様自らご出陣していただきたく、お願い申し上げます。
家康は苦々しい顔で書状を読み終えると、広高に問いかけた。
「この書状を読んで、秀頼様は何とした?」
「秀頼様は…民を思えば、この身の安寧が憎いと、涙を流され、ご自身の出馬を、涙ながらに淀殿に訴えておりました」
「して、淀殿は?」
「はっ!最初は頑なに反対しておりましたが、秀頼様の熱心な説得によって、大谷吉治殿と大野治長殿の両名を目付けとして同行を条件に、渋々ご出陣にご同意されました!
かく言うそれがしも随行し、直接取次ぎに行って参ります!
こたびは、そのご挨拶にうかがった次第にございます!」
「なんと!?挨拶ということは、もう準備が出来ているということか!?」
「はっ!まだ兵は集めてはおりませんが、近々号令をかけるとのこと!
他の大名には迷惑をかけないゆえ安心するよう、徳川内府殿には、各大名たちにお伝えいただきたいとの事にございます!」
「ならぬ!!それはならぬぞ!広高殿!」
家康の焦ったような強い語気に対しても、広高は動じない。
それどころか、この反応は織り込み済みというように、
「秀頼様は、徳川内府殿は反対されるだろうと、おっしゃっておりました。
それは可愛い孫が戦地に赴くのを心配していることと同じだからだ、と。
しかし心配にはおよびませぬ。なぜなら単に戦を止めるよう指示しに行くだけだからである、とのこと」
と、すらすらと秀頼からの伝言を話したのだった。
家康は、全て如水の自作自演であると思っていた。彼が何を企んでいるかは分からないが、立花と島津を生かそうとしていることは間違いなく、その手柄を豊臣秀頼に立てさせようとしている。今回の戦で全く動かない加藤清正も、彼に協力しているのであろう。
まるで、九州そのものを豊臣家の手中に収めるかのような動きであるのだ。
それはなぜか…
まだ決めつけるには無理があるのは分かっている。
しかしそれは、もはや決定的となっていた徳川家康の天下を「そう簡単には取らせぬぞ」という強い意思表示のような気がしてならないのだ。
ただし、その理由が何であっても、まだ大名たちを掌握しきれたとは言えない今、秀頼が九州の反抗勢力たちに恩を売るのを、見過ごすわけにはいかない。
「寺沢殿、しばし待たれよ。
まずは、大名たちのまとめ役である、大老のわしから書状をしたためようではないか。
その書状を見ても、戦を続けるようであれば、秀頼様だけではなく、このわしも一緒に九州まで行かねばなりますまい」
と、家康は広高を引き止め、すぐに近侍に書状を書かせたのであった。
ーー民の冬支度の為に、これ以上の戦は控えるように。
立花殿と島津殿の仕置きについては、来年以降に持ち越しとする。
その他の大名たちについては、処遇を追って伝える為、今は居城に戻り、民を助けるがよい。
「これを持って、ひとまず兵を退かせるよう催促してくれるか?」
「はっ!秀頼様からも、徳川内府殿が自ら停戦を催促する書状をしたためた場合は、それをすぐに送るよう指示を受けております」
「ふむ…そうであったか…では、この書状、よろしく頼みますぞ」
「はっ!お任せくだされ!」
どこまでも真面目そのものの広高は、うやうやしく書状を受け取ると、すぐにその場を後にしたのだった。
そんな彼の背中を見つめながら家康は、
「寺沢殿には、九州取次の任から下りていただくしかなさそうだのう…秀頼様に近づき過ぎておる。
それに…秀頼様はまるで別人の…まさかのう…」
と、独り言を漏らしていたのであった。
◇◇
慶長5年11月20日、豊後臼杵城ーー
季節は移り、木々の葉はすっかり落ちて、空気は乾燥し冷たくなっている。
そんな中、豊後の臼杵城では、一人の少女と老婆が二人きりで談義していた。
もちろん少女は、大友家の若き脇大将であり、戦では軍師を務める、吉岡杏。
そしてもう一方の老婆は、杏の祖母であり、師でもある、大友家の筆頭家老、妙林尼だ。
なお大友家は、先の柳川の戦いでの参加や働きが認められ、史実とは大きく異なり、臼杵城とその周辺の五万石を与えられている。
史実ではその地に知行を得るはずであった、稲葉家は、史実では今までと同じ領土を与えられるはずだった鍋島家から五万石を切り取り与えられたのであった。
念願の大名復帰を果たした大友家にとって、軍備に政務に杏も妙林尼も忙しく働いていたが、夕げを前にしてすこしだけ時間が取れたため、今回の戦の様子を、杏から妙林尼に対して、報告していたのである。
「…して、島津惟新殿の到着後は、鍋島直茂殿の軍は総崩れとなり、その勢いで、立花宗茂殿と島津殿の軍は、そのまま今回の戦の総大将である鍋島勝茂殿の軍を攻め立て、鍋島軍は多数の死傷者を出し、われらや黒田如水殿らが陣を敷く、水田天満宮へと兵を退いたのにございます」
「その被害はどれほどか?」
「さあ…詳しくは分かりませぬが、お戻りのなられた足軽大将らの数からして、無事に退く事が出来たのは、約二万とのことで、元が三万二千の鍋島軍でございましたから、一万以上は兵を減らしたとのこと…
もちろん中には逃亡した者も多く、全てが死傷者ではなさそうにございますが…」
「ふむ…それでも甚大であったのう…」
「はい…水田天満宮でお会いした直茂様からは、もはや覇気は感じられず、これ以上の戦はいずれにせよ難しかったかと思われます」
「そこに、徳川内府殿からの書状が届いたというわけじゃな…」
「はい…まさに渡りに船でございました。あとは全て加藤清正殿が立花殿と島津殿との折衝にあたられまして、書状が届いた三日後には、各軍領地へと戻った次第にございます」
「なるほどのう…」
ここまでの経緯を報告すると、二人は一息つき、湯を口にした。めっきり冷え込んだ夜にあって、暖かな飲み物は体にしみる。
そして妙林尼は、問いかけを再開した。
「ところで…立花殿を攻めている途中で、軍を水田天満宮まで退かせたのはなぜじゃ?」
「実は、杏もそれは不思議でございました」
「はて?脇大将のお主の進言ではないのか?」
「はい…実は、泰巌殿のご意見にございました」
「ふむ…その心を聞いたか?」
「はい…『肝の小さな男には似合わぬ大軍。分相応をわきまえぬ男が大将の軍が勝てる相手ではない。負け戦になる前に軍を退くのが最善』と…」
「ほぅ…鍋島直茂殿を『肝の小さな男』と評したというのか…その戦の采配を見ただけで…」
「はい、一体何者なのでしょう?あの泰巌殿というお仁は…」
「さて…わしにも分からぬ。ただ一つ言えることは…」
「言えることは?」
「戦術だけでなく、戦略にも通じた大器…ということじゃ。
なるべく共にあって、色々と盗むとよい。きっとお主の血肉となるはずじゃて」
「はい!おばば様!」
「ふむ。して…」
そこまで言うと、妙林尼は再び湯をすすると、問いかけた。
「お主にとって戦はいかがであった?
わしから教わった、指揮の仕方、戦況の読み方などは役に立ったか?
初めて兵に号令をかけて、軍を動かすというのは、難しかったろうて」
「はい…杏には、まだまだ足りぬことが多く、日々学ばねばならぬと感じました。
実際に、立花殿の突撃になすすべなく潰走してしまいましたし…」
「怖かったか?」
その言葉に、杏は恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながらうつむく。
「はい…とても怖かったです」
その杏の様子に、妙林尼は嬉しそうに破顔した。
「かかか!結構!結構!
それでこそわが孫にして、一番弟子よ!
その怖さ、その学ぶ姿勢、絶対に忘れてはならぬ!
上手くやろうとなど格好つけるな。
特に命がかかっている事は、怖くて当たり前。
華々しく死ぬのは、侍の誉れかもしれぬが、大友家の屋台骨である今は、主家が潰れるまでは、絶対に死んではならぬ!
死を恐れ、生きて奉公することが、肝要と心がけよ」
妙林尼の愉快そうな笑いは、冬で寒さを増した景色にほんのりと温かみを与えるものであった。
◇◇
同日、薩摩富隈城――
冬の夜空の冷たい空気を切り裂くようにして、一人の男が城の中に飛び込んできたと思うと、一直線に城主の間に転がるようにして入っていった。
そこには一人の老人が、背筋を伸ばして書物を読むことに没頭していた。
「伯父殿聞いておくれ!」
そう青い顔をして老人に唾を飛ばすように話しかけたのは、現島津家当主の島津義弘の息子であり、次期当主の島津忠恒。そして、そんな彼を表情一つ変えずに迎え入れたのは、前当主でありながらも、実質上は島津家の実権を握っている島津義久だ。
彼は目を書物のままに、
「なんだ…騒々しい…」
と、一言つぶやいたのであった。まるで忠恒の来訪に興味がなさそうであったが、忠恒はそんなことなどお構いなしに、勢いよく話し始めた。
「あの馬鹿親父、よりにもよってまた徳川殿に弓を引くかのように、鍋島を攻撃したというではないですか!しかも、負けるならまだしも、痛み分けにはなっているが、よくよく聞いてみれば、実質は勝ちみたいなものというではないか!?どうしてくれよう!」
「勝ってはならぬ戦など…ない」
「いやいやいや!この場合、絶対に立花を勝たせたらいかんでしょう!これ以上、徳川殿を怒らせたらいかんでしょう!」
「はて…痛み分けとは言え、戦が徳川殿の調停によって終わったのだ。それでよいではないか」
「いやいやいや!そういう事ではありませぬ!問題なのは、あの馬鹿親父が、柳川での一戦に間に合ってしまって、鍋島を追い払ったという事実にございます!」
「その何が問題なのだ?『事故』もなく、間に合ってよかったではないか」
「そこは『事故』を起こしましょうよ!肝心なところでは、なんで『事故』が起きませんのかね!?」
「それが『事故』だからであろう。もうよい。そのようなくだらない問答を続ける気はない」
そう言うと、義久は書物に没頭し始めたのであったが、その様子に面白くない忠恒は、叫ぶようにして言った。
「このままだと、本当に徳川家康が攻めてきますぞ!!」
その言葉の後に、沈黙が流れる。
義久からは、ただならぬ雰囲気がただよい、言ってはならない事を言ってしまった、という後悔が忠恒を襲い、彼の顔を青くするのであった。
しかし義久は決して怒っていた訳ではない事が、その後すぐに忠恒は理解したのである。
それは義久の顔を見れば明らかだったのだ。
顔を上げた義久は…
なんと笑っていた…
それは「ニタリ」とした、不気味な笑顔であった…
そして、一言だけ言ったのだ。
「それが何か問題なのか?」
と…
………
……
こうして「柳川の戦い」は、史実とは大きく異なる結果となって、一応の終わりを迎えた。
もちろん史実と大きく異なる箇所は、「立花宗茂の柳川城安堵」と「大友義統のお家復興」、さらに「鍋島直茂の大幅な減封」である。
鍋島直茂は、史実にはない大友と立花の領土の分だけ、大幅に知行を減らされ、史実では三十五万七千石が安堵されるはずであったが、約半分の十七万石となってしまったのだった。
しかし、変化があったのは、知行だけのことではない。
表面上は史実とは全く変わりのなかった島津家、加藤家それに黒田家においても、その立場や徳川との距離感は大きく変わっていた。
そして、何よりお家復興を成し遂げた大友家は、この後、九州地方全体を巻き込む、大戦乱の引き金となるのだが…それはまだ少し先の話である。
また、立花家においては、本領および城がひとまず安堵されるという、願ってもいない結果となった。
しかし、良いことばかりが起こるわけにはいかないのは、どの世のことわりでも同様なのかもしれない。
史実とは異なる、早すぎる悲しい別れは、刻一刻と近づいていたのであった…
かいつまんでではございますが、徳川・大友・島津の各々の「柳川の戦い」における裏側についてのシーンでございました。
この後、史実から大きくずれた九州において、大きな戦乱が待ち受けているのですが…
それは本編がしばらく進んだ後に描かれることになります。
そして次回は、決して史実が「良い方向だけに変化しない」ことを示す物語になります。
どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。