柳川の戦い⑯立花誾千代
◇◇
幼い頃から、立花誾千代は、立花宗茂の事が嫌いであった。
しかし彼は、彼女以外の誰からも愛される、いわば完璧な人間だ。
本来であれば、その妻であることを誇りに思ってもよいはずなのだが、彼女はその「完璧」さが、他人に繕う為に、彼が被った仮面のようで、嫌いであった。
しかし、彼女のそんな感情とは裏腹に、彼の実の父である高橋紹運も、誾千代の実父であり宗茂の養父である立花道雪も、宗茂を寵愛していた。
道雪などは、口では厳しく指導しているが、裏では宗茂の事をべた褒めしていたし、彼が重用されるように、当時の君主である大友宗麟に、懸命に口添えしていたのだって、彼女は知っている。
その才覚は、「天下無双の勇者」として世に知られ、遠く離れた東国の大名たちも、宗茂を愛しており、天下人である太閤秀吉も例外ではなかったのだ。
つまり彼は、世の男の憧れの的であり、皆彼の武勇に惚れ込んでいたのである。
そして彼の人気は、男性だけにとどまらなかったのは当然と言えよう。
彼の勇ましい武者ぶりと、端正な顔立ちは、奥の女性たちの間でも噂で持ちきりであった。
世の女性という女性は、皆彼の妻になりたがっていた。
少なくとも誾千代の周囲はそうであった。
それは誾千代が彼の正室となってからも変わらず、その事も彼女が彼を疎ましく感じる要因の一つでもあった。
しかし、戦場では「天下無双」と称されるほどに勇猛にも関わらず、誾千代の前の彼は「優しすぎる」男であった。
憩いのひとときには軽やかに笛を吹き、花や動物を愛し、城内の子供たちと戯れる時の笑顔は柔らかな陽射しのようであった。
そして、いつでもその笑顔は自分にも向けられる。
それが誾千代は、たまらなく嫌いだったのだ。
なぜならその笑顔は「偽物」だと彼女は思い込んでいたからである。
いつも穏やかで、彼女だけではなく全ての人に優しい彼の姿は、彼が作り出した「虚像」であると、彼女は思っていた。
全ては、『立花』という家名を、我が物にしたいが為に、完璧な人間を彼は演じているのだ…と。
そんな彼女であったから、わざと彼に冷たく接した。
それでも彼の笑顔はいつも変わらず、彼女を包み込んだ。
その笑顔を見るたびに、彼女の中で彼の存在は、ますます嫌悪なものとなっていったのであった。
別に彼女は、ひねくれていた訳ではない。
彼女の中で、戦国の世の男たちというのは、みなガサツで、誇り高く、あのように柔らかな笑顔など、絶対に見せないものだという「常識」があったからだ。
さらに言えば、基本的に彼女は「他人」を信用などしていない。
それは彼女の生い立ちに起因していたのだ。
彼女は立花道雪の娘で、宗茂が婿養子になるまでは、彼女が立花の跡取りであり、その為、周囲は彼女に取り入ろうとする者たちで溢れていた。
偽りの笑顔、偽りの甘い言葉に、いつも彼女は接していたが、その裏では、
――ああ、誾千代様が男子であったら、立花も安泰だったのになぁ
――いやいや、気性だけなら男子も顔負けだろ
――ははは!違いねえ!
とか、
――立花も道雪公で終わりかも知れないねえ。跡取りがあのようなおなごでは…
などといった陰口の存在に気付いていたのである。
そんな世間が嫌になり、宗茂に当たり散らした時もある。
世間だけが憎いのではない。立花の家に生まれ、その名前に縛られて、激しく怒声を浴びせる自分も彼女は忌み嫌っていたのだ。
しかしそんな時、宗茂は…
いつも彼女を抱きしめた。
――大丈夫だよ、誾千代…
春の風を思わせる暖かな声で…
いつもの秋の陽射しを思わせる優しい笑顔で…
それでも彼女は変わらなかった。むしろそんな夫が鬱陶しかった。
それほどに「雷神」と称された立花道雪の名と、落日の大友家を軍事で支える立花家は、繊細な彼女にとっては、心の重荷だったのだ。
そんな彼女の苦悩を全て分かっているような顔をする、夫の立花宗茂が、憎くて仕方なかった。
――もうどこかへ行ってしまいたい…
そして、いつしか彼女は、
――世の中は『偽り』ばかりだ。特に自分に対して笑顔を向けてくる者ほど、信用できない…
と、思うようになったのだ。
この考えは、彼女を精神的に自立させていき、ついには立花の名を背負えるほどに、強く、孤高の存在へと、自分を高めたのであった。
そんな折のある日の事である。
彼女に病が見つかったのは…
その病により、彼女は悟った。
「自分は子を産めない身体となってしまった」
と…
しかし同時に彼女は、安堵している自分に、少しばかり戸惑っていた。
なぜなら、
「これで立花の名に縛られずにすむ」
と、彼女は思ったからだ。
つまり立花の名を宗茂が継ぎ、もう子を残すことが出来ない自分には、
「もはや何の価値もない人間」
であり、今までのように、偽りの笑顔で媚を売ってくるような者たちはいない、と思えたのである。
「これで一人になれる…」
こう考えた彼女は、自らの意志で、立花家の城を離れることを決意した。
彼女が出て行くと決めてから、毎日のように、宗茂は寂しそうな表情で、彼女を引き止めたが、彼が優しくすればするほどに、彼女は居心地が悪くなり、ますます城から出る決意を固くしていったのだ。
城を出て行く誾千代に対して、宗茂はいつまでも悲しい顔をして見送っていたのを、彼女は知っていた。
それさえも彼女は嫌いだったのである。
そして、夫である宗茂は立花家を残す為に、周囲の勧めもあって、公家の出の二人を側室に迎える。その話も、当然彼女の耳には届いたが、特に心を動かされることはなく、むしろ立花の跡取りが一刻も早く誕生することを願ってやまなかったのである。
そうすれば、自分が抱えている『重み』は、もっと軽くなり、自分の周りからは、さらに人がいなくなるだろう…
――早く、一人になりたい…
――早くこの世からいなくなってしまいたい…
そんな風に彼女は、この世の全てに対して、希望を失っていたのであった。
そのような中、今回の柳川の戦いは起こった。
彼女の心を表したように堅牢な屋敷に篭り、「早く死んでしまっても構わない」と思っていた彼女にとっては、格好の死に場所がやってきたのだ。
当然のように、彼女は喜び勇むと、恐れておののく周囲とは異なり、彼女は意気揚々と屋敷にいるわずかな人々を指揮した。そしてついに、鍋島軍が自分の屋敷である宮永殿に攻め込んできたのだ。
だがその軍は、彼女を見下したように、わずかな兵であったとこに、彼女はいたく落胆し、そんな事でさえも「自分にはこの程度の兵を向けるしか価値のない人間なのだ」と卑下したのだった。
こうして、襲撃した鍋島軍には、あえて痛烈な言葉を浴びせて撃退することで、大軍をこちらに仕向けることを期待したのだが、それもついに訪れることはなかった。
そんな中に彼女をたずねてきた、一騎の早馬――
元の当主である大友の旗印を掲げているその使者は、彼女もよく知る顔であり、それは彼女に警戒させない魂胆のように彼女には思えて、あまり面白くはないものではあったのだが、そんな素振りなどは微塵も見せずに彼女は、その使者を丁寧に出迎えた。
その使者が伝えたことは、大友義統が自ら軍勢を率いて、彼女を保護しに宮永殿までやってくるというものであり、その報せに彼女の周囲の者たちが一斉に喜びに沸いたのは言うまでもない。
しかし、彼女は顔色一つ変えず、凛とした佇まいで、今後のことを使者に聞いた。
その使者いわく、彼女たちを助けた後、大友義統は立花宗茂と合流し、鍋島直茂と対峙するつもりらしい。
しかし、本気で鍋島と戦うつもりはなく、開城せずに、徳川との交渉を進めるということだ。
それらを「ひとえに立花の家を守る為」とその使者は何度も強調してきたのは、彼女にとって「立花の家」という言葉が勘所であると考えていたのであろう。
だが、そんな大友の考えとは裏腹に、彼女にとっては「立花の家」のことなど、もはやどうでもよく、むしろこの事により、死に場所を失うことの方が、彼女にとっては心を痛ませる勘所だったのである。
しかし、彼女には「拒否する」という選択は許されないものであることも、理解していた。
なぜなら彼女は、「立花の家」の為に何かを成そうとは思っていなかったが、同時に「立花の家」の足を引っ張るような存在でもありたくはなかったのだ。
そのような複雑な思いのもと、彼女はその時を静かに待っていた。
しかし屋敷の中の人々は、彼女の気持ちなど、誰一人として理解しているものなどおらず、みなどこか晴れやかな顔で、屋敷を出る身支度にいそしんでいる。
そんな人々をどこか冷ややかな目で見つめるとともに、落胆した気持ちと進行した病によって、重い体を必死に伸ばして、着ていた甲冑と直垂を脱ぎもせず、何もせず、何も考えず座っていたのであった。
ふと目の前においた長刀に目をやる。
父、立花道雪が遺した名刀『雷切』――
父亡き後、彼女の側にはいつもこの刀があった。
それは、彼女が「立花」に未練があったからなのか、それとも亡き父を懐かしんでのものなのか、彼女自身であってもそれは分からなかったのであるが、とにかくその刀を側に置いておくと、彼女の心はいつも鎮まるから不思議なものである。
「父上…」
ふと、彼女はこの世にはいない父を呼んだ。
もちろんそのか細い言葉を聞きとり、部屋にやってくる者などいない。
既に外は暗く、ほのかな月のあかりが、病で透明さを増した彼女の横顔を、青白く浮かび上がらせていた。
予定では明日、彼女はここを発つことになる。そして死に場所を失った自分はこのまま、柳川城内にてその生を静かに終えることとなるのであろう…そう思うと、彼女の頬には一筋の涙がつたう。
それは月明かりによって、一筋の光の線となって、ままならぬもどかしさを映した憂鬱な部屋の中を照らしていたのであった。
慶長5年11月2日――
夜が更けても立花誾千代は床に伏せることなく、部屋の中で座ったままであったが、その静けさを破る、馬のいななきと甲冑のこすれる音が、まどろんだ彼女の意識を覚醒させた。
「来たか…」
彼女は重い腰を上げて、部屋を出ると、静かな足取りで彼女に随行していた立花家の重臣である米多比鎮久を呼びにいった。彼もまた床に伏せることなく、夜遅くまで皆が無事に屋敷を出られるように手配をまとめていたのであった。
大友軍が屋敷のすぐそこまでやってきたのである。
それは事前の打ち合わせ通りであり、老人や子供を除く、多くの者が起きたまま、心待ちにしていたのであった。
「では、早速使いの者を迎えにいかせましょう」
そう言った鎮久は、若い者を呼ぶと、屋敷の門まで大友軍の武将たちを出迎えにいくように指示した。
その兵は五千と聞いており、全員を屋敷の敷地の中に入れることはかなわないが、総大将の大友義統をはじめ、名のある武将たちは、屋敷内にて一晩過ごしてもらい、翌朝、全員でここを発つ手はずであったのだ。
しかし…
それはあまりに突然起った…
夜遅くということもあり、その日は立花誾千代と大友家の武将たちとの面会は予定されておらず、彼女は横になろうと自室に戻った時であった。
「外が騒がしい…」
それは、彼女が感じた最初の異変であった。
しかし、彼女の部屋は屋敷の一番奥にあり、音がする入口付近の様子を目で確認する事はかなわない。
だが次の瞬間、「何か」が起っていることは、明白に理解できたのである。
「煙…火が上がっているのか!」
それは失火によるものなのか、誰かに意図的につけられたものなのか、それはまだ分からない。
しかしそれすら、次にとらえた彼女の五感からの情報は、明確にするのであった。
――立花誾千代は奥だ!誾千代を捕らえよ!
――きゃああああ!!!
その入り乱れる大きな声を耳にした時、彼女は何が起きたのか、瞬時に理解したのである。
「騙し討ちか!!」
この言葉を発した瞬間に、彼女の熱い血が全身に巡ると、病で重くなった体が、急に軽くなったことを覚えた。
彼女は目の前にある、革の胸当てを素早く身につけると、真っ白な直垂をはおる。
そして横にある兜をかぶり、『雷切』を腰に差して、壁にかけてある槍を手にすると、素早く部屋を出た。
彼女は確かに死に場所を求めていた。
しかし、騙し討ちによって命を落とす事は、彼女の誇り高き『立花の武人』としての自負が許さない。立花の家のことなど、どうでもよいとは思っていながらも、その心を忘れることなど、到底出来なかったのだ。
それに彼女は自分以外の人間を疎ましくは思っていたが、そんな自分に忠誠を尽くし屋敷を守ってくれていた、家臣や女中が敵に討たれていくことを黙って見過ごせるほど、落ちぶれてはいない。
彼女は一人でも多くの人を助ける為、一人屋敷の中を駆けていった。
………
……
さいわい屋敷には火はかけられていなそうだ。しかし、外から入ってくる煙によって、視界は決して広くない。
それでも住み慣れたこの屋敷の中なら、彼女にとってみれば目をつむっていても駆け抜けることなどたやすいことだ。
彼女はまるで風のように屋敷の中へと進んでいくと、そこに大友の旗を持った兵たちが、無防備な屋敷の中の女性たちに襲いかかっているのが目に入ってきた。
彼女は雷のごとく、部屋を震わせる声を発した。
「立花誾千代はここだ!!無防備な女に手を出すなど、卑怯千万な奴らめ!!誾千代が成敗してくれる!!!」
そう宣言した瞬間には、一人の兵を槍で突いて斃していた。
その細い腕のどこにそんな力があるのか、と思われるほどに、槍を勇猛に振りまわし、大友の兵たちをなぎ倒していく。
そして生き残った女性たちを背にして声をかけた。
「海の方に逃げよ!!」
「し、しかし誾千代様は!?誾千代様を置いてなどいけませぬ!」
健気に女たちは、主人である誾千代を気遣っている。
しかし、彼女はその気遣いに応える気など、さらさらなかった。
「いいから逃げよ!!ここにとどまれては足手まといである!早く!!」
そう叫ぶと、背後の女たちは皆一様に泣き始め、
「どうか…どうか…お命だけは大事になされて…ごめん…」
と、彼女の無事だけを懇願して、その場を去っていったのだった。
――いたぞ!誾千代はまだ奥にいる!
――必ず生け捕りにせよ!!
彼女の前方からは、大友軍の兵たちの声が聞こえてくる。
彼女は「ふう」と大きく息を吐き出すと、ぐっと腹に力を込めた。
「立花誾千代…そうやすやすと下賤の者に捕まるほど、甘くはない!!」
そう自分に言い聞かせるようにして、屋敷の奥へと姿を消したのであった。
今回は立花誾千代についてのくだりでございました。
病のことや、彼女の心情はもちろんフィクションでございますが、彼女の背負っていたものを考えた時、このように思っていてもおかしくないのではないかと思い、描写した次第にございます。
少し雰囲気が重くて申し訳なく思います。
さて、次回は「立花宗茂」にございます。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。




