夕げ
◇◇
「おかあさま!今日は源二郎にしんしゅうの事をおしえてもらっておりましたぁ!」
より少年らしく、より無邪気に、そして不自然さもなく…
俺は細心の注意を払いながら夕食の会話にいそしんだ。
もはや食事の味など、感じる余裕はない。その舌も含めて、俺の全身の神経は、母である淀殿に向けられていたのである。
その理由は単純だ。
俺は「豊臣秀頼」の面を被った「他人」なのだから。
それを今は絶対に気付かれてはならない。
もし気付かれてしまったら、「中身が入れ替わった」なんて話を誰が信じてくれよう?
俺は何者かが放ったくせ者として、十中八九ここから追い出されてしまうだろう。
その時点で、俺の戦国時代を満喫する野望は終わりを告げてしまうし、何よりも歴史がとんでもない方向に動くことになる。
それは絶対に避けねばならない…
俺はそんなプレッシャーに、少年のくせして胃を痛くしながら、この夕げの時間を乗りきるの必死であった。
「あらあら、そうでしたの。秀頼ちゃん、よかったわねぇ」
淀殿は息子の嬉しそうな報告に、自分ごとのように一緒に喜んでいる。
このほかにも様々な会話を交わしたが、どれをとっても息子である秀頼の事を褒め、否定するようなことはなかった。
この様子からして、相当溺愛しているに違いない。
そんな彼女が、本物の秀頼の中身でないと知ったら、どんな反応を示そうか。
悲嘆にくれ、下手をすれば自害しかねない。
俺はあらためて、「この人にだけは絶対に知られてはならない」と心を固くしたのだった。
しかしいつの時代にも空気の読めない人というのは、いるものである。
「ははさま、聞いてください!」
「どうしたの?お千」
淀殿は、俺に向けるものと同じような愛情深い視線を、俺のかたわらに座っている少女へと移す。
千姫は、少しでも淀殿に近づこうと、その小さな体を乗り出して、ちらりと俺の顔を見た。
その目…
どこかで見た気がする…
その時、俺はハッと気づいた。
幼馴染みの麻理子が同じ目をしたことがあったことを…
確かあの時は…俺がイタズラをして、父さんが大事にしていた壺を割ってしまった事を、麻里子が俺の母さんに言いつけた時と全く同じ顔だ。
俺はなんだかすごく嫌な予感に、体に寒気を覚えた。
そしてその予感は、綺麗に当たったのだからたまったものではない。
千姫は義母である淀殿に、とある俺の失態をなじるように言いつけたのだ。
「秀頼さまったら、亡くなられた太閣さまのお加減を聞いてきたのですよ!
全く失礼なことですよね!」
おい!おい!待て!
このちびっこ!空気を読め!
俺の努力を無駄にするつもりかぁ!
…と、心の中では、千姫の両方の頬をつねりながら、叫び声をあげている。
しかし、もちろん口には出さない。それどころか「それが何か?」とでも言わんばかりに、すまし顔でそれをやり過ごそうと、懸命にこらえていた。
もちろん着物の下は冷や汗が滝のように滴り落ちているのだが…そんなことを気にしている場合ではない。
俺を溺愛している淀殿であっても、さすがに怪しむだろうと、すまし顔の俺は身構えていた。
怪しまれたら…
「お父上が、あの世でも元気にやっておるのか、秀頼は心配でなりませんでしたので!」
と返すか…
内心ではそんな事を考えていた。
しかし淀殿の反応は、そんな想定を大きく外すものであった。
「ふふふ、まったく仕方ないわね、秀頼ちゃんは。
でも、そんな忘れっぽいところも可愛くて、母は好きですよ」
俺は淀殿のあまりの親バカぶりに、口をポカンと開けて閉じる事を思わず忘れてしまった。
そして、言いつけた本人である千姫は、顔をひきつらせて乗り出した身を、元に戻すより他ないようだ。
そんな俺たちの様子を見て、満足したように慈愛に満ちた笑顔を浮かべている。そして座ったまま俺たちにそろそろ床に着くように指示した。
その声は最後まで優しく、俺のことを疑うような素振りは見せなかった。
俺は最後に一つしておかねばならない事がある。このタイミングを逃すと、もうそのチャンスはなさそうだ。
俺は慌てて淀殿に向かって、幾分早口で、
「ははうえ!秀頼は、あした治部どのに会いとうございます!」
と、努めて明るく、無邪気さを全面に押し出しながら、戦場の真っ只中にいるであろう石田三成に会いたいという、おおよそ無茶な願いをした。
流石にこの願いは聞き入れられないだろう。
言わばだめでもともと、聞き入れられたらラッキーくらいに考えていた。
しかしそんな俺の悲観的な観測などはお構いなしに、淀殿は全くぶれない。
そんな事など何でもないような穏やかな口調で、
「あら?ちょうどよかったわ。
今日と明日は治部は大坂にいるようなのです。
それでしたら、治部を昼過ぎにでも呼びましょう」
と、あっさり承諾してくれた。
「ありがとうございます!ははうえ!」
そう元気に謝意を述べると、俺は千姫に引っ張られるようにして、床の間へと移っていったのであった。
ああ…まだこの世界にきて、初日なんだよな…
毎日同じ事を繰り返してきた、元の世界の俺の1日と比較すると、何年分か過ごしたような気がするほど、濃い1日だったように思える。
俺は千姫の隣の布団に入ると、つるべ落としのような速さで意識を落とし、深い眠りへとついたのであった。
◇◇
秀頼と千姫が去った後の淀の部屋には、一抹の哀愁のようなものがただよっていた。
淀は静かに立ち上がる。
その動作は誰が見ているわけでもないが、優雅に気品に溢れたものだ。
おそらく小さい頃から、親や周りの者に厳しく躾をされてきた事が、体にしみついているのだろう。
そんな彼女が
「誰かあるか?」
と、先ほどまでの穏やかな口調とは違い、厳しいものを含ませて、襖の奥へ呼び掛けた。
「はっ!」
静かに襖があけられると、一人の若い侍女が頭を下げて待機している。
その女性に淀は、厳しさを携えたままに命じた。
「源二郎をここに」
「はっ!」
短いやりとりを終えると、侍女はすぐさま部屋をあとにした。
そして周囲に誰もいなくなった際の、独特な静寂を確認すると、天井の方を見上げて、
「あの猿め…何をしたのだ…」
と、2年前にこの世を去った旦那に恨めしい愚痴をこぼす。
その表情には先ほどまでの慈愛に満ちた優しいものではなく、般若のように憎悪をたずさえたものであった。