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柳川の戦い②出陣

◇◇

それは慶長5年(1600年)10月初旬のことであった。


一つの書状が鍋島直茂に届いた。


彼の傍らには息子の勝茂と、直茂の片腕であり、彼の養子でもある鍋島茂里。

彼ら直茂を含めると三人は、その書状を苦々しい表情で見つめていた。


その送り主は、黒田如水。


そしてその内容は至って簡素であった。


「柳川攻めの先鋒は、お譲りいたすゆえ、存分にお力を発揮いたしてくだされ…か…」


直茂が重苦しいため息まじりに、そうつぶやくと、傍らの二人も、表情を暗くする。


「ふむ…これは直茂様の目論見を全て看破されていた…としか思えませぬ内容にございますな…」


と、茂里が直茂に話しかけると、直茂は恨めしそうな目を茂里に向けた。


なぜ直茂は、そのような視線を送ったのか。

それは茂里の指摘が、的を射ているものであったからに他ならない。


そう、彼には立花攻めにおいて、「目論見」があったのである。


それを明らかにする前に、彼らが置かれた立場を説明する必要があるだろう。


まず鍋島直茂は当主ではない。

「龍造寺の仁王門」というあだ名の通り、彼は龍造寺家の家臣である。

すなわち、佐賀城を拠点とする肥前の国の当主は、大坂にいる龍造寺高房であり、この国は龍造寺家が治めているのである。

もっとも、元の当主の龍造寺隆信…直茂の異父兄弟にあたる彼が、島津によって討たれてからは、実質的には直茂が、国を治めているのは、周知の事実であり、もはや彼が当主と称しても、さしたる抵抗は出ないであろう。

しかし表向きは龍造寺家の家臣であり、彼が全て独断で龍造寺家のことを決めることはかなわない、というもどかしい状況であったのだ。


それが如実に表れてしまったのが、今回の関ヶ原の戦いにおける、息子の勝茂の失態だ。


関ヶ原の戦いが始まる前…すなわち太閤秀吉が亡くなる前から、家康と親交のあった直茂は、息子勝茂に対して、「必ず徳川殿にお味方するように」と言い含めて、関ヶ原に兵を送った。


既に開戦前から、当主の高房は大坂におり、そこに勝茂が合流したのだった。


しかし、勝茂はこの時体調を崩しており、それが原因で、徳川家康の元へ馳せ参じるのが遅れてしまったのである。


若き当主の高房と、こちらも若い勝茂が、徳川家康に味方しようと一軍を率いて駆けつけた頃には、既に東に向かう道は、石田方の兵で厳しく監視されていた。

少年の豊臣秀頼と旅人の格好をした霧隠才蔵でさえも、途中の関で、大谷吉継の軍に足止めを食ったくらいで、一軍を率いた将が、その監視の目をくぐり抜けることは不可能であった。


途中で石田方に引き止められた彼らは、どちらの軍勢か問いただされた。

勝茂は、あくまで父の言いつけ通りに、家康に味方するよう、高房を説き伏せていたのであったが、石田方の厳しい尋問に、わずか十五歳の高房は、思わず「石田方のお味方である」と口に出してしまったのであった。


こうしてやむを得ない状況において、石田方に加担することになってしまった勝茂。

彼は、九鬼嘉隆や堀内氏善らと、伊勢方面を攻略することに成功した。

しかし、関ヶ原の本戦を前に、直茂からの「火急の所用により、速やかに軍を退き、佐賀城に戻るように」との書状により、勝茂は高房とともに兵を退き、高房は引き続き大坂に残り、勝茂は佐賀城へと戻っていったのであった。


もちろんこれは直茂の画策であった。

すなわち、状況を知った彼が、速やかに兵を退かせ、これ以上徳川家康に対して槍を向けさせないようにしたのである。


そんな状況の為、彼がなすべき事は限られていた。

それは徳川家康の期待に応える、それが全てなのだ。


この九州において、家康の期待に応える…


その為には、九州において家康と敵対している勢力の城を落とすことが、最も分かりやすい成果と言えた。


しかし、そこでも黒田と加藤に遅れを取っていた。


彼らが次々と城を落としていく中、龍造寺高房と息子の立場を考えると、なかなか動けなかったのである。


そして今、彼が大きな手柄を挙げることが出来る相手は、わずか二つの家のみ…


筑後の立花と、薩摩の島津である。


このうち島津へは距離もある上に、その戦力からいって、加藤や黒田を加えても、相手にするには難しい。仮に互角以上の戦いに持ち込んでも、その攻略には時間がかかることは間違いないだろう。


だが、鍋島直茂には時間がない。


既に大坂では関ヶ原で戦った大名たちへの賞罰は下されている。

彼は一日でも早く手柄を挙げなくてはならないのであった。


そうなると残るは、立花だ。


直茂の居城である佐賀城と、立花家の柳川城は近い。

それに柳川城は、元は直茂の居城でもある。

彼は、その強み弱みをつぶさに握っていた。


さらに城主の宗茂は、大坂より戻ってきたばかりであり、九州にて淡々と準備を進めてきた自分たちと比べれば、その戦力は雲泥の差であることは、明確である。


そこまで考えれば、すぐにでも行動に移してもよいはずだ。


だが、直茂はすぐには動かなかった。


なぜなら彼は待っていたのである。


加藤や黒田が立花と戦い始めるか、立花が自分から降伏することを…


その理由は、至って単純…



戦いたくないからだ。



それは「民を巻き込みたくない」とか「兵を消耗したくない」とかいう、大きな理想論によるものではない。

単純に「自分の命を落としたくないから」という小さな我欲によるものだった。


かつて太閤秀吉は彼のことを、

「天下を取る知恵と勇気はあるが、大気がない」

と評したことがある。

それは、勝負所であっても腰が重い今の彼を象徴しているようだ。


しかしここで明らかにしておかねばならないのは、彼は大変優秀な武将であり、数々の戦果や外交の成功を挙げてきた、ということだ。


では、なぜ彼は「命が惜しい」という我欲にとらわれているのか。


それは、戦については「ある戦」から非常に及び腰なってしまったことに由来している。


その「ある戦」とは…

「沖田畷の戦い」のことであった。


この戦いは、龍造寺家と島津家の一大決戦であり、龍造寺が完膚なきまで叩きのめされた。


そして、その戦いで龍造寺家は全てを失った。


当主であった龍造寺隆信も、優秀な家臣たちも、そして龍造寺家の威信も土地も…


しかし直茂はその戦いに参戦することが出来なかったのである。


だが、もし彼がその戦いに参加していたとしたら、龍造寺を勝利に導いていだだろうとは、全く思っていなかった。

それよりも「自分もあの時死んでいたであろう」と考え、それが原因で戦が怖くて仕方なくなってしまったのだ。


そして、もしこの先、自分の命が落ちるようなことがあれば、たちまち龍造寺家も鍋島も潰れてしまうだろう、という大きな威圧感が彼を襲った。


「自分だけは戦で命を落とすわけにはいかない」


こうして、彼はそう決意したのである。


それより後は、彼は「いかに自分が戦場に立たずして、自分の成果を挙げるか」ということに、異常に執着した。

その為には、どんなに手を汚そうともいとわなかった。


そしてその事を秀吉は見透かしており、「大気がない」と評したのだった。

しかし例えそのような痛烈な評価をされようとも、彼は自分を変えようとは思っていなかった。


命あっての物種。


何よりも大切なのは、自身の命であり、それが保たれている間は、龍造寺家も鍋島も安泰であると、彼は信じていた。


そして今の状況も、

「黒田と加藤を立花と戦わせて、立花が十分に弱ったところで、大軍を進めて士気を削ぎ、開城を迫る」

と、戦わずして戦果を挙げる為の策を、心の中では決めていたのである。



しかし彼の事を見透かしていたのは、秀吉だけではなく、目の前にある書状の送り主である黒田如水も同様であったのだ。


「先鋒をお任せいたす」


これはすなわち、


「鍋島軍が立花軍と対決せよ」


と、いう脅迫であった。


もはや直茂に逃げ道はなくなった。


彼は軍勢を率いて「九州一のつわもの」と称された立花宗茂と戦うことは、避けて通れないものとなってしまったことを意味していたのだった。


………


……


しばしの沈黙の後、直茂はぼそりとつぶやいた。


「仕方あるまい…行くか…」


その言葉に、茂里は頭を下げ、


「かしこまりました。すぐに準備に取り掛かります」


と、言うと、即座に立ち上がり、その場を後にしたのだった。


◇◇

慶長5年(1600年)10月14日ーー


鍋島軍約32,000は、三つの軍に分かれて佐賀城を出立した。主力は直茂と勝茂の親子が二手に分かれて、筑後川を上流に向かって進み、もう一つの小隊は、有明海に出た。


この戦いは、窮地にある鍋島の生き残りを賭けた戦いの始まりでもあったのだった。



一方、有明海に面した、宮永にあるとある屋敷――


屋敷と言っても、その縄張りは、さながら平城である。そしてその敷地の中には、槍や薙刀を手にした人々でごった返していた。


しかしよくよく見れば、彼らはみな若い女性か、年老いて隠居生活を送っていた男ばかりであった。


そんな中、まるで雷のような声がその屋敷の中に響く。


「奴らが筑後川の下流から攻めてくるなら、目の前の有明海から上陸してくるであろう!

まずはその出鼻をくじく!

海岸線に鉄砲を並べよ!

それに国崩しも用意せよ!」


国崩しとは、対攻城戦用に作られた大砲である。

この屋敷の主人のもとの当主…すなわち大友宗麟が作らせたものであった。


この一見すると、京の貴族が住むような静かな佇まいの屋敷に、そのような物騒なものが保管されていようとは、誰が想像できよう。


そしてその声に反応した人々は、俊敏な動きで準備を進めていく。

それはとても、その主人に仕える普通の女性や、悠久の時を過ごしていた老人とは思えない、洗練された動きであった。

つまり、普段からその主人が厳しく教練していたものが、この火急な場面の動きとなって表れたものであったのだ。


そしていよいよ準備が全て完了すると、その主人が甲冑に身を包んで現れた。


紫色の糸が編み込まれたその甲冑には、金糸で随所に杏葉があしらわれている。

腰には細身で一際長い刀が一振り。

背には鉄砲、手には薙刀。

真っ白な直垂をなびかせ、颯爽と全員が集まった広場の前に立った。


「皆の者!よく聞け!!

これは立花の意地と誇りを賭けた一戦である!!

亡き父道雪公は三十七戦して三十七勝であった!

それを娘の代になって敗れたとなれば、天にいる父は嘆き悲しむであろう!

ついては、絶対に負けることは許されん!!

立花とこの雷切の名にかけて!!」


そう宣言すると、右手で刀を抜き、高々とそれを掲げた。


「おお!!!」


一斉に上がるその声も、男性たちの野太いものではなく、どこか華やかさえ感じさせる、女性たちの高い声が中心であった。


そしてかけ声の持ち主…つまりこの屋敷の主人も、女性である。


しかし、普通の女性であれば長い髪は、「戦に邪魔」という理由で、肩ほどまでしかない。

齢三十を超えているとは思えないほどに、色は白く健康的な肌と、引き締まった体つきは、普段からの鍛錬を思わせるものだ。

大きな瞳は猫のように、まなじりは上がり、鋭く光っている。

そして、美しいその横顔は、何人たりとも触れることを許さないような、気迫をともなっていた。


この女性の名は、立花誾千代――

立花宗茂の妻であり、「雷神」立花道雪の娘その人であった。


彼女は直垂を翼のようにはばたかせると、自ら先頭に立って指揮する為に、有明海の方へ向けて歩き出したのだった。




いよいよ鍋島と立花の、史実を超える壮絶な戦いが始まろうとしていたのである。





次からいよいよ激突の開始になります。

これからもよろしくお願いいたします。


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