最後の星⑨最後の航行
今自分で書くことが出来る、精一杯の力を込めて、書き上げました。
青山豊前守が音頭を取る。
「おれたちゃ舟乗り〜♪」
短い頭出しの唄に、船の漕ぎ手が声を揃えて唄を返す。
「ソーレ、ソレ!」
唄を返すとともに、息を合わせたように体を後ろへ反らして重い櫓を漕ぐ。
巨大な安宅船を漕ぐ水夫にとっては、舟唄はみなを一つにする縄のようなものだ。
彼らは歌い続ける。
そして船は進み続ける。
まるで一つの大きな生き物のようであった。
もちろん鬼宿丸は海において、王者とも言える存在。
そこに生きる水夫たちもまた、海の王者たちであった。それに、櫓を漕ぐ彼らは、さながら鬼宿丸の手足であったのだ。
「東に西に〜♪」
「ソーレ、ソレ!」
水夫たちの輝く汗は、さながら船の血液のようだ。
船の中を熱くたぎらせ、船が生きている証なのである。
彼らの汗が船を動かし、その情熱が船を強くした。
「今日もあしたも〜♪」
「ソーレ、ソレ!」
そしてこの船の心臓――
すなわち鬼宿丸に息を吹き込む男は、傷だらけの甲板に立っていた。
九鬼嘉隆――
彼は今、風になっていた。
その身も心も軽く、横で羽根を広げる海鳥とともに自由な空の下にいる。
彼は鬼宿丸の目でもある。
風となった彼は、さながら高い空を羽ばたく鳥のように、船の行く先を見ていたのだった。
「海をゆく〜♪」
「ソーレ、ソレ!」
島を左回りに進んでいく鬼宿丸。
その速度は実にゆっくりと、それはさながら獅子が獲物を探しながら、すり足で進んでいくようであった。
その雄大な姿に隣を泳ぐ魚たちも、上を飛ぶ鳥たちも、みな敬意を示し、海の王者の行く道を祝福していた。
「おれたちゃ舟乗り〜♪」
「ソーレ、ソレ!」
空は高く、海は穏やか。
陽は穏やかで、風は爽やか。
自然の全てが王者が海に帰還したことを喜んでいるようだった。
もちろん鬼宿丸もまた、自分がいるべき場所に帰ってきた喜びに満ちているかのように、乗る者全てに心地よい揺れを与えていた。
「晴れでも雨でも〜♪」
「ソーレ、ソレ!」
その鬼宿丸の行く方向は、川面右近とそのお供が、舵櫂によって、操舵している。
無論、その方角を決めるのは、この船の目である嘉隆であり、彼の指示に従って、右近らは舵櫂を動かしているのだ。
ちなみに、本来なら大人五人がかりで、ようやく動かせるほどに大きな舵櫂だ。
それを彼らはわずか二人で操作していた。
彼らだけではない。
鬼宿丸の櫓は百ある。
つまり水夫百人によって動かす代物。
しかし彼らは、その半分の五十人で動かしている。
それは彼ら船と一体にならねば、絶対に成し得ない、まさに『匠』と称するにふさわしい業であった。
鬼宿丸に乗っている全ての人がつながっており、鬼宿丸の大きな身体の一部であったのだ。
みなが役割を持ち、それを全うする。
そうすることで、この巨大な船は動いているのだ。
一人一人の力は大したものではない。
だが、船はこの世のものとは思えないほど巨大だ。
それでも全員が自分のすべきことを明確に理解し、それを愚直に遂行することで、動かせるはずもないものを、確かに動かしている。
嘉隆の隣で海を見つめる大谷吉治には、それが不思議でならなかった。
しかしそんな彼の疑問など関係なしに、船は進んでいく。
「嵐の日だとて〜♪」
「ソーレ、ソレ!」
そして大きく左に旋回したその時であった。
嘉隆の鷹の目は、その先にある小早と関船の群れをとらえていた。
無論それらは、豊田五郎右衛門が率いる船団であることは言うまでもない。
嘉隆は、口もとを緩めると、大声で告げた。
「総員!本船は突撃に入る!全速前進だ!」
その号令に、舟唄の調子が変わる。
より激しく。
より速く。
より強く。
そしていつしか舟唄の音頭は、短い掛け声に変わっていった。
「よっ!」
「ソーレ!」
「ほっ!」
「ソーレ!」
「はっ!」
「ソーレ!」
この「よ」「ほ」「は」の三文字を繰り返し、音頭の間隔を短くしていく。
それに応えるように水夫たちの櫓を漕ぐ速度も早まっていった。
彼らの汗がきらきらと光ながら、飛び散っていくと、鬼宿丸もまるで動悸が早まったように、激しく揺れ出した。
しかし甲板の上に立つ嘉隆は何にもつかまらず、さながら船に根を生やしたかのように、上体すらぶらすことなく、真っすぐに前だけを見つめていた。
海の白い飛沫も大きくなり、驚いた魚たちは深く潜る。
並行して飛ぶ海鳥たちは負けじと、羽を懸命にはばたかせて、船についていく。
得物をとらえた獅子が荒野を駆けていくように、力強く、勇ましく、船は海を突き進んでいく。
「よっ!」
「ソーレ!」
「ほっ!」
「ソーレ!」
「はっ!」
「ソーレ!」
そして、鬼宿丸は突き抜けた。
五郎右衛門の船団のど真ん中を、悠然と。
小回りの利く小早は、蜘蛛の子を散らすように鬼宿丸の通る道からそれたが、五郎右衛門の乗る関船はそうはいかない。
直撃こそ避けたものの、鬼宿丸から作られる大きなうねりは、関船をひっくり返すには十分なほどであった。
嘉隆は振り返ることはなかったが、ひっくり返る寸前に海へと身を投げた五郎右衛門を、近くの小早が懸命に救助している。
しかし巨大な船において、それはちっぽけな人の営みの一部であり、船の行く道と進む力に影響するものではなかったのだった。
「よっ!」
「ソーレ!」
「ほっ!」
「ソーレ!」
「はっ!」
「ソーレ!」
船団を抜けたものの、嘉隆は鬼宿丸の進む速度を下げなかった。
答志島から鬼宿丸を一目見ようと、村民たちが海岸までやってきているのが分かる。
そして右手に見える雄大な鳥羽城が、近づいてきた。
しかし…
鬼宿丸はその鳥羽城を通り過ぎた。
そして何か心残りを振り払うかのように、鬼宿丸は速度を保ったまま、城から遠ざかっていった。
嘉隆はぼそりと呟いた。
「さよなら…愛しき城よ…よくよく見れば、まこと美しき城なり」
そして船は広い海原に出た。
鳥羽湾の島々は遠くなり、船は空と海の青に囲まれていた。
嘉隆は船の速度を落とす。
舟唄も元ののんびりしたものに戻った。
「おれたちゃ舟乗り〜♪」
「ソーレ、ソレ!」
嘉隆は吉治に近づき、穏やかな表情で語りかけた。
「大谷殿は『海』について考えたことはおありか?」
「ふむ…恥ずかしいお話なれど、それがしは海について深く考えたことはございませぬ」
「それがしは、『海』には、表と裏の全てがある、と思っておる」
吉治は、その意外な言葉に目を大きくする。
その様子を横目に、嘉隆は真っすぐ海を見つめながら続けた。
「その海原は、荒々しく全てを教えてくれる『父』でもあれば、全てを優しく抱きしめてくれる『母』でもある。
その海水は、海に生きる魚たちを活かす『薬』でもあれば、飲んだものを乾きの地獄に落とす『毒』でもある。
航海は、出会いの『喜び』もあれば、別れの『悲しみ』もある」
「ふむ…言われてみれば、まさしくその通りであるな」
「そして…罪をおかし、汚れてしまったそれがしを受け入れても、海は濁ることはない。
例え十人でも二十人でも、汚れきった人間が何人来ようとも、海は受け入れてくれるだろう…
その青さを濁らせることなどなく…
そんな『優しさ』がある。
しかし、その水で汚れを洗ってくれることはない。
それは『残酷』とも言えるかもしれねえな。
つまり何が言いたいかと言えば、汚れってのは、誰が落としてくれるものでもねえ。
自分で流し落とさなくちゃなんねえってことさ」
吉治はその言葉にはっとし、嘉隆に問いかけた。
「それが、九鬼殿がご自害を決められた理由でしょうか?」
嘉隆は「ふっ」と鼻で笑うと、それに答えた。
「さあな。だが、大谷殿、一つだけ、それがしには分かったことがある」
「それは何でしょう?」
その時、嘉隆は初めて海から目を離して、吉治を見た。
その瞳からは、一筋の涙が頬を伝っている。
どこまでも深く、どこまでも広いその瞳は、『海』そのものであるように、吉治には思えた。
「人は、本当に幸福を感じた時、死んでしまっても構わないと思えるってことだ」
吉治はたずねる。
「本当に幸福を感じる時とは、どのような時でしょう」
嘉隆は即答した。
あたかも当たり前のことを言うように…
「夢を託せる人間と出会った時に決まっているだろう」
その言葉を聞いた時、吉治の瞳からも涙が溢れ出てきた。
笑顔の嘉隆の瞳からも大粒の涙がこぼれ落ちている。
これ以上の言葉は必要ない。
鬼宿丸は、全てを包みこみ、静かに進む。
その鬼宿丸の行く道を、優しく見守る大海原。
それらを映す、どこまでも高い空。
人、船、海、空…
全てが一体となって、さながら一枚の絵画のような風景を作りだしていた。
「おれたちゃ海と共に〜♪」
「ソーレ、ソレ!」
………
……
…
いつしか船は、陸地のすぐ近くまで進んできた。
その先には、鳥羽城とは異なる、城が大きく見えてきた。
新宮城だ――
船の上からでも、その城から多くの兵たちが、巨大な船の渡来に気付き、その身を乗り出すようにして、船の行方を見守っているのが分かる。
新宮城の近くには港もあった。
その港には、熊のような男が大声で、船に向かって何かを叫んでいた。
そして海に身を投げ出そうとしているのを、必死に抑える数名の男の姿もそこにはあった。
嘉隆は、港近くで船を漕ぐ手を止めさせた。
穏やかな海風では、鬼宿丸を動かすには弱すぎるようで、船は波に揺られながらも、進むことを止めたのだった。
嘉隆は小さな声で、隣の吉治に声をかける。
「あの熊みてえな男が、それがしのどら息子の堀内安房守氏善だ」
「あの暴れまわっているお方が…」
「ああ…ああ見えて、船を作ることに関しては、それがしを遥かにしのぐ腕を持っておる」
「な…なんと…」
驚く吉治の様子に満足したような笑顔を浮かべると、嘉隆は言った。
「では、あとはお頼み申す」
その短い言葉に託された思いを、吉治は重く受け止め、力強くうなずいた。
そして、吉治は甲板の上から立ち去って、一人の人物を彼の代わりに呼びにいったのだ。
しばらくして、青山豊前守が嘉隆の隣にやってきた。
その手には刀が握られ、両腕にはたすきが掛けられている。
嘉隆は静かにその場に座ると、腰に差した脇差を目の前に置いた。
そして…
水平線の遥か彼方まで届くほどの大声で言った。
「いいか!!よく聞け!!俺からの最期の言葉だ!!」
しんと静まりかえる船の中。
それは新宮城も港も同じようだ。
みな、息を飲んで嘉隆を見つめていた。
嘉隆は続けた。
「人の命は儚い。
鉄砲で撃たれれば死ぬし、病魔に勝てねえ時もある。
しかし、夢はどうか!?
夢は強い!
たとえ一人の人間が死のうとも、たとえ国が滅びようとも、夢は生き続ける。
夢をつないだ者たちがいる限り、絶対に死なねえ!
だから、夢を殺したらなんねえぞ!
這いつくばってでも、泥をすすってでも、夢をつながなきゃなんねえ!」
嘉隆から小さく見える氏善は、もう泣き崩れている。
その彼を止めていた男たちもまた、涙に頬を濡らしていた。
船の中は言わずもがな、あちこちですすり泣く音が聞こえる。
そんな声を聞かないようにして、嘉隆は続けた。
「俺は今、幸せである!
それは、夢をつなぐ者たちと出会えたからだ。
だから俺は喜んでこの命をくれてやろうではないか!
だから…だから…」
ここまで一気に話すと、嘉隆は言葉につまった。
彼の顔も涙でぐちゃぐちゃになっており、溢れる感情が、言葉を出す事を阻んでいたのである。
しかし彼は仕上げを言わねばならない。
それは、死にゆく彼に課せられた義務であった。
「だから…あとは頼んだぜ!!俺の愛する息子ども!!」
その言葉を終えるやいなや、彼は脇差で腹を切った。
そして直後に、涙で震える手をなんとか制しながら豊前守が介錯をしたのだった…
その瞬間、彼の『夢』は、港にいる堀内氏善と、船の中にいる大谷吉治の中へと、光の玉となって宿っていく。
この二人の目には確かに見えたのである。
堀内氏善――
『豊臣の七星』の一人が、その光をともした瞬間であった。
海は『夢』を生み、『男』を育む――
誰かがそう呟いた気がしたのは、気のせいであろうか…
「海賊大名」九鬼嘉隆…享年五十九。
海に生き、海で夢を見た男は今、その海の上で生涯を閉じた。
その顔は、実に晴れやかなものであった。
しばらくして鬼宿丸は、再び動き出した。
新宮の港に向かって。
青山豊前守が甲板の上から、大声で音頭を取る。
涙が止まらない彼だが、その声は遠く港までこだます。
「海の男は笑う〜♪」
舟乗りは再び歌いだす。
「ソーレ、ソレ!」
船は死なない、それは夢と同じだ。
この舟唄と、舟乗りがある限り。
「海の中で夢を見る〜♪」
「ソーレ、ソレ!」
いつの間にか、新宮城の侍たちも、港にいる者たちも、全員がその掛け声を叫んでいる。
「ソーレ、ソレ!」
それは海で夢を見た全ての男に捧げる舟唄ーー
九鬼嘉隆の最期について、皆様はどのようにお感じになられたでしょうか。
言葉では表しきれない、その力、魂を小説に込めるのは、非常に難しいものです。
心を震わせることが出来る文章を書ける人は、すごいな…とあらためて思わされた、このシーンの執筆にございました。
さて、次回は氏善と吉治が合流して、大坂に戻り、今回の件を秀頼と家康に報告するシーンになります。
是非引き続きお楽しみいただければと存じます。
また、多くの方より励ましやご感想を頂戴して、大変嬉しく思っております。
読者様の言葉が「言霊」となって、私の力となっております。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
最後に、船に関わる全ての方に敬意を表して、このシリーズの締めくくりとさせていただければと思います。




