「豊臣秀頼」としての所見
この話の公開後に歴史認識についての活動報告をあげます。
テーマは
「関ヶ原の戦いに豊臣秀頼は東西どちらにつくべきか」
になります
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俺の「豊臣秀頼」としての今後に関する所見は、じつは信繁との会話の最中に固まっていた。
まず、はっきりしておかねばならないのは、関ヶ原の戦いにおける俺の立場だ。
1600年8月18日の時点で言えば、俺は「中立」だったはずだ。
すなわち今であればまだ辛うじて東西どちらに加担するかを明確にする事は可能だ。
ただし、仮にそれを「東」としたならば、すぐにでも大坂城を出る必要があるだろう。
なぜならこの大坂城には「西」の総大将である毛利輝元が7月17日の時点で、西の丸にいるからである。
次に、感情は抜きにして、置かれている状況を冷静に分析してみることにする。
天下人、太閤秀吉の正統な後継者は俺であるのは、誰が見ても自明の理である。しかし俺は弱冠7歳の少年だ。跡を継ごうにも、政治的・軍事的な判断を下すには若すぎる。すなわちこの時点で、俺には「後見人」が必要となる。
父である秀吉は、それを「人」ではなく、「五大老五奉行による合議制」という言わば「組織」に託すよう触れを出した。しかし残念な事に、それは成立しなかったと言っても過言ではない。それは今回の対立が生まれたことを見れば明確である。
ではなぜ「合議制」は成立しなかったのか。
俺の時代では、政治の決定機関である国会と、それを実行に移す内閣、それらに不正がないかを監視する裁判所が独立した機関であるから、「合議制」が成立する。民主主義でいうところの三権分立というやつだ。
しかしそれらのどれか一つでも独立性が欠ければ、成立しない仕組みであるという、もろさが共存している。それはどの機関も同じように「パワー」があることを示し、絶妙なバランスが仕組みのうえでは、大変重要な意味を持つのだ。
この「裁判所」にあたる部分を「五奉行」が担う形なのだろうが、軍事的に力を持つ「五大老」に比べると武力の面で劣る為、力関係が拮抗していないのが実情だ。
これでは「合議制」はその体をなしえない。
つまり最初から「五大老五奉行による合議制」はありえなかったのである。
そうなると国として取るべき道は一つ。
「独裁制」だ。
つまり秀頼の後見人は「組織」ではなく、「人間」とすべきであるということ。
同時にその後見人が政治的な実権を得る事を意味する。
一人のリーダーが政治・軍事・法整備の決定権を持つのだが、そのリーダーに求められる資質は、「人を引きつけるカリスマ性」と「軍事的・政治的な実績」の2つとも必要だと考えられる。
「人を引きつけるカリスマ性」については、出自や自分で言うのも何だが、その端正な顔立ちによって、持ち合わせている可能性はある。しかし「実績」は皆無だ。
もっとも7歳の少年が、後見人なくして独裁者になるなど、それこそこの世に生を受けた瞬間に立ち上がり「天上天下唯我独尊」と叫んだ者でもない限りは無理な話だ。
つまり現時点では俺は「独裁者」になりえないのである。
さて、ここまでつらつらと考えを述べたのは、言わば一つの結論を導く為の分析であり、その結論がこの世界では、絶大なインパクトを持つものであるからだ。
現代における刑事裁判でも、重大な量刑を言い渡す場合は、その所見から述べられるのと同じ事である。
そしてその結論こそ…
「豊臣家は政権を放棄する」
というものだ。
現代の歴史好きが聞けば、結果として歴史上と何ら変わらない結論に、肩すかしを食うだろう。
「異議あり!」とどこぞの弁護士のように意見がある人もいるかもしれない。
しかし俺にはその選択が最も現実的かつ合理的だと判断したのである。
そして「豊臣秀頼」である俺がこの結論に至った事は、言わずもがな、歴史が動く事に直結するほどの重大な事なのだという認識を忘れてはならない。
もちろん俺だって一人の男子だ。
国のリーダーになって、歴史に名を残したい、と言う気持ちがないわけではない。
しかし、例え天地がひっくり返ろうとも、「現実的には」それは不可能なのは、先ほど申した通りなのである。
…いや「現実的には」ではなく、「今は」…としておこう。
さてここまでで一つの結論に達したわけではあるが、次に考えなくてはならなかったのは、俺は誰に政権を託すか、というものだ。
歴史から見れば、答えは一つ。
徳川家康のほかはないであろう。
しかし今の俺には選択が出来る権利がある。
「そちにわれのこうけんにんをたのもう!」
と、無邪気な一言を発した時点で、歴史の教科書はひっくり返せるのだ。
その事実は俺の両腕を鳥肌で埋めるのに十分過ぎるほどに重く、思わず「コンペイトウ」に手が伸びてしまうのも無理はない。
だからこそ真剣かつ、慎重に選ばねばならない。
徳川家康のほか…
俺が考えたのは3人だ。
石田三成。
毛利輝元。
黒田如水(黒田官兵衛孝高のこと)。
しかしこの3人、先ほどの2つの資質のうち、欠けているものが徳川家康と比べると大きすぎるように思える。
石田三成は、政治的な実績は十分かもしれないが、その合理的すぎる人間性が理解されづらい。
毛利輝元は、織田、羽柴と対等に渡り合ったという実績は十分だが、優柔不断で決断力に欠ける部分があり、カリスマ性が弱い。
黒田如実は、その名声のおかげで、カリスマ性は十分だが、軍師という側面が強く、リーダーとしての資質は不透明だ。
消去法といっては、本人には失礼かもしれないが、おのずと徳川家康に限られる。
つまり、「合理的」に考えて、俺の取るべき道は、
「徳川家康に政権を譲って、一線を退く」
と、結論づけた。
そしてそれは、俺が大坂の陣で非業の死を遂げるのを回避するための最も有効な手段なのだと確信したのである。
さらに言えば、その決断の表明は少しでも早い方が、俺の今後の処遇に有利に働くであろう。
すると次に問題となるのが、その働きかけを、7歳の俺が一体誰に対して、どのように行うべきか…
この部分を目の前にいる好青年――真田信繁に相談しようとしたのである。
あわよくば彼が徳川家康本人に働きかけてくれるのではないか、という淡い期待を込めて…
しかし、その青年は自分の主張を、急ぐように一息で口に出した。
それはまるで、俺の主張を言わせないようにだ。
「石田三成に肩入れしてほしい」
この主張は、俺の考えを根底から覆す、受け入れがたいものだ。
頭ではそれは十分に分かっている。
しかし今この場でそれをきっぱり拒否した場合を考えてみた。
俺と彼の関係は今後どういったものになるのだろうか…
そして近い未来、俺のために命を賭けて家康に挑み、その名を歴史に残した、あの功績はどうなってしまうのだろう…
考えたくもない。
俺のヒーローがヒーローでなくなってしまう未来なんて…
俺は地震と雷が同時に起こったような、そんな大混乱に陥っていた。
頭と心の整理。
そして、「もし石田に肩入れしたら」という選択を取る場合のリスクとそれの回避策…
即答を求める信繁の視線を痛いほどに浴びながら、俺は額に汗を浮かべて、思考の歯車を全力で回し続けたのだった。
「俺は…」
そう口に出そうとしたその時だった…
「まあ!秀頼ちゃん!こんなところにいたの!?駄目じゃない?夕げには、母の部屋に来ることになっているでしょ?」
そう言って部屋に入ってきた、すらりと背の高い美しい女性。
年代から言って、元の俺の世界であれば「美魔女」とか呼ばれるのにふさわしい、美貌の持ち主だ。
その女性を見て、信繁は即座に頭を下げ、最敬礼を取った。
「まあ?源二郎じゃないの?あなた、信州のど田舎に帰ったんじゃなくて?」
「はっ!秀頼様の可愛いお顔を拝見いたしたく、少しだけ暇を頂戴して、馳せ参じましてございます。淀のお方様」
淀…だと…まさか…この女性は…
淀と呼ばれたその女性は信繁の言葉に、顔を赤らめて喜びをあらわにしている。
「うふふ、世辞と分かっていても、秀頼ちゃんを『可愛い』と言ってくれたことは嬉しい。でも、『淀のお方』は辞めて頂戴。
『茶々』と呼んで欲しいわ」
そう妙に甘えたような声で、信繁に自分の呼び名について指摘をした。
その言葉に信繁は心なしか赤くなっている。
しかしそんな信繁の様子よりも、俺の心を掴んでやまなかったのは、その女性の正体である。
その名は「茶々」…!やはりそうだ!
俺の考えは完全に確信に変わった。
この女性は、太閤秀吉の側室であった淀殿。
つまり「豊臣秀頼」の生みの母である。
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「ちゃん付け」について…
江戸時代が舞台の小説に登場したり、1800年代初頭で使われていたとする文献が残っていたりするようです。
もとは「さん」の語尾が変わったことが語源とのことですので、「おかみさん」等の言葉は戦国時代でも使われていたという見解もあります。
つまり「ちゃん付け」が使われていた可能性もあると考え、今回採用しました。
不自然に思われるかもしれませんが、ご容赦ください。