最後の星③夢
◇◇
九鬼嘉隆と堀内氏善――
彼らはわずか九つしか歳が離れていない。
祖先をたどれば同じ熊野別当の出ではあったものの、彼らの出会いはずっと後で、紀伊の三木城を巡って相対した時であった。
関ヶ原の戦いから遡ること、二十五年以上も前のことである。
「なんだあれは…」
それを見た氏善の人生は、まさにこの時から始まったといっても過言ではないほどの衝撃であった。
それは巨大な船の軍勢――
軍勢と言っても、わずか安宅船五隻に過ぎなかったのだが、そのうちの一隻の船に、彼は度肝を抜かれたのである。
それを一目見た時に思わず口にしたのは、
「城だ…黒い巨大な城が迫ってきやがる…」
氏善も熊野水軍を率いる船乗りだ。
そんな彼をして言葉を失い、まばたきをすることすら忘れさせたのだから、その船がいかに「異様」であったかはうかがいしれよう。
それは正面からではその長さは分からないが、幅は六間(約11m)はあり、それだけでも相当大きな安宅船であることは間違いない。
しかし、彼を驚かせたのはその姿である。
外板が黒い鉄で覆われ、その上にはなんと二層のさながら「黒い天守」がそびえ立っているのだ。その高さは少し離れた場所からでも見上げなくてはてっぺんが見えないほどである。
「こんな船見た事ねえぞ…」
青い海の中を悠然と進んでくる黒い巨船は、彼が城攻めをしていることすら忘れさせ、その目をくぎ付けにした。
「殿!あれは、今は織田弾正忠殿(織田信長のこと)の配下となった、九鬼嘉隆殿の旗印にございます!」
「く…九鬼殿だと…」
もとよりその名は同じ紀伊で水軍を持つ者として聞いた事はあった。
しかし、今目の前の巨大な黒い船を持っていたことなど、聞いたこともない。
そもそもこのような物が、この世に存在していることすら、目で見ているにも関わらず、彼には未だに信じられないことだったのだ。
目標の城を目の前にして、その城ではなく、船に圧倒されてしまっている彼に対して、家臣の一人が、大きな声を上げ、彼の目を覚まそうとした。
「殿!今は城攻めに集中いたしましょう!いかに巨大な船であっても、内陸にあるわが軍には手は出せますまい!」
そんな家臣の言葉など、今の彼には耳に入らなかった。
「あのような船を作れる軍を相手に、喧嘩を売るなんて暴挙…俺には出来ねえ…一旦退くぞ」
そう、彼は直感したのである。
例え船で攻撃を受けることはなくとも、その巨大な黒い船を作ることが出来るほどに、財力も技術もそして兵力も兼ねそろえた相手に戦うことが、いかに愚かであるかを…
そして、
「戦ってはならぬ!」
と、彼の本能が一時撤退を決めさせたのであった。
一旦軍を近くの城まで退いた氏善は、なんと先ほどまで敵として対面していた九鬼嘉隆をその城に招いたのだ。
その際に氏善が送った書状は、彼が嘉隆の船を見た時に、いかに驚きおののいたのかを細かく記されていた。
もはや遠く離れ、その姿を拝むことはかなわないが、目をつむっただけで、その時の興奮とともに巨船の姿がありありと浮かんでくる。その感動のままに、筆に熱いものを込めて書にしたためたのである。
するとそんな彼の情熱が伝わったのだろうか、書状を送ってしばらくして、九鬼嘉隆がわずかな共とともに、彼をたずねてやってきたのだった。
嘉隆は「海賊大名」の異名からは想像がつかないほど、整った服装と容姿であった。
氏善は、がさつな自分とは大きく異なる、あかぬけた嘉隆の姿に、すっかり気が引けてしまった。
挨拶の仕方一つ取ってみても、嘉隆からは都会のそれを感じさせるようで、氏善はあまり面白くないものを感じたのだった。
しかし…そんな印象は一時的な「外面」であることに、氏善はすぐに気付くことになる。
彼らの他にも互いの家臣が数名ずつ同席していていたが、嘉隆が静かに人払いを要求し、それを冷めた表情で氏善も了承した。
そしてその部屋に彼ら二人だけになった瞬間である。
嘉隆はいきなり近づき、氏善と肩を組んだかと思うと、少年のような無邪気な笑みを浮かべて、彼にささやくように問いかけたのだ。
「あの船…びびったか?」
突然の豹変に驚き、うなずくことしか出来ない氏善。
すると嘉隆は満足したように、肩を組んだまま、
「ははは!!そうだろう!作った俺でさえ、完成した時びびって、腰を抜かしてしまったんだ!」
と、豪快に大笑いした。
その表情からは満足感に溢れ、感動を共有できたことの喜びに満ちた声だ。
その様子に氏善の心も氷解した。
彼も顔を崩すと、
「俺なんか、びびったってもんじゃねえぞ!人には言えねえが、少し漏らしてしもうたわ!」
「がははは!!これは作った甲斐があったというものだ!あれはまだ試作でな!実戦に使うにはまだほど遠いと思っていたのだが、思いがけずに戦功を挙げてしまったようだな!
『相手の大将をびびらせて、ちびらせた』と信長様がお聞きになったら、たいそう喜ぶに違いない!
がははは!!」
その大笑いに氏善は、恥ずかしさに顔を赤くする。
そして彼に船のことを聞こうと問いかけた。
「あの黒い船が試作ですと…?」
「ああ、あれは火矢による被害を食い止める為に、全体を鉄で覆った試作なんだわ。
まだまだ改良しねえと、進むのが遅すぎてなんねえ。
ただあと三年もあれば、これを実戦で使えるようにするぜ!」
「た、たったの三年とは…」
「おうよ!『夢』はかなえなきゃ意味がねえからな!あれをあと三年以内に使いものにするのが、俺の『夢』よ!」
「夢…」
「その通りだ!『夢』だ氏善殿!
お主の『夢』は何であるか?
まさか、そこのちっぽけな城を落とすことだけが、『夢』だなんて、ちいせえことを言わねえだろうな?」
氏善はその問いかけに黙ってしまった。
よもや「夢」を聞かれるなど、つゆにも思っていなかったのである。
そして彼は自分の半生を振り返る。
しかしそれは実に血生臭く、小さな争いを繰り返してきたものだった。
しかしそんな彼の人生の全てを覆い尽くしたのが、目に焼き付いた黒い巨船だった。
そして彼は考え込む必要なんてないことに、すぐに気付いたのだ。
「俺の夢は…お主が作ったような船を俺も作りたい…」
と、さながら幼子のように、小さくなって答えた。
しかし嘉隆はその答えに首を横に振った。
「小せえ!!もっとだ!」
その言葉に氏善は驚き、目を開いた。
すると補足するように嘉隆が続けた。
「もっとでっけえ夢はねえのか!?お前さんの、その図体みてえな、でっけえ夢が聞きてえ!」
挑発するような嘉隆の言葉に、氏善の瞳に火が灯る。
「そ、それじゃあ、あの船よりでかい船を作ってやる!どうだ!?」
まるで挑戦するように氏善は嘉隆に身を乗り出した。
しかし嘉隆は引かない。むしろ顔を突き出すように、さらにはっぱをかけてきた。
「がははは!まだまだぁ!!小せえ!小せえ!」
「ぐぬぬぬぅ…では、日の本の全員がちびっちまう船を作ってやるぜ!
全員だ!
侍だけじゃねえぞ!百姓だって、馬だって!
俺が作ってやるぜ!!」
とうとう額をくっつけ、睨み合いながら、氏善が高らかと宣言した。
しかし臆することなく、むしろより愉快そうに嘉隆は言った。
「がははは!!日の本だけでお前は満足か!?
俺は満足しねえぞ!これを見やがれ!!」
と、荒々しく大きな絵図を広げた。
それを食い入るように見る氏善。
「こ、これは…?なんだ?この船の絵図は…」
そこには巨大な船の絵図が描かれていた。
しかし安宅船とは違う。
これが何の船なのか、氏善には理解出来なかったのだ。
「これは南蛮の船を書き写したものだ。俺の殿から貰ったものだ!どうだ!?すげえだろ!」
自分の知っている船の作りと大きく異なるその姿に、言葉が出ない氏善。
それを見て嘉隆がささやいた。
「日の本だけじゃねえぞ。海に魅せられた馬鹿どもは…」
その嘉隆を氏善は絵図から目を離し見つめる。
互いに少年のような純粋な顔つきだ。
嘉隆が続けた。
「南蛮も、明も…この世にいる全員が驚くような船を作ってみてえと思わねえか?」
しかし答えなど考える必要などない。
「ああ…作ってみてえ…」
「よし!じゃあ決まりだな!一緒に俺と作ろうぜ!見たもの全員をびびらせるような、すげえの作ろうぜ!」
氏善にこの瞬間『夢』が出来た。
そしてそれは、彼が生まれ変わった瞬間でもあり、その興奮が思わず言葉になって出てしまった。
「おやじ…」
「ああん?今なって言った!?お前と俺じゃそんなに歳は変わらねえだろ?」
怪訝そうに顔をしかめる嘉隆。
しかし氏善はひかなかった。
「いや!今この時、俺は生まれ変わった!
九鬼嘉隆殿のおかげでな!
だから、おやじ殿と呼ばせてくれ!この通りだ!」
と、頭を深く下げた。
それに対して困ったように、
「分かった!分かったから、もう頭を上げよ!」
と、嘉隆は促す。
すると瞳を輝かせた氏善は、
「じゃあ、そう呼んでもいいんだな!?おやじ殿!」
と、嬉しそうに問いかけた。
少し悩んだ様子の嘉隆は、膝をぽんと叩くと、
「よし!じゃあ、こうしよう!
俺のところに、身寄りをなくしちまった娘がいる。
その娘を正式に俺の娘にするから、お前がその娘をもらっておくれ。
そうすれば、本当に俺たちは親子じゃねえか!
がははは!そりゃいい!」
と、あまりに豪快過ぎる提案をした。
氏善は意表をつかれて、言葉が出なかった。
しかしそんな彼のことなど気にすることもなく、嘉隆は立ち上がり、広げた絵図を丸めると、それを彼に差し出した。
「こ、こんな大事なもん受け取れねえ!やめてくれ、おやじ殿!」
両手を振りながら、そう拒む氏善。
しかし愉快そうに笑顔を浮かべた嘉隆は、
「小せえこと言ってんじゃねえよ!
俺たちにとってみれば、こんな紙切れ一枚、どっちが持っていようが関係ねえだろ!
それより大事なのは、一緒に『夢』を追う相棒が出来たってことだ。
これはそんな俺からお前に送る感謝の気持ちだと思ってくれればいい」
と、半ば強引に彼に絵図を手渡した。
それでも戸惑う氏善であったが、嘉隆はそのまま、その場を後にしようと、彼に背を向けたのだった。
そしてそのまま氏善に念を押す。
「いいか。忘れるなよ。『夢』はかなえなきゃ意味がねえって事を…」
そう告げると、嘉隆は大股で部屋を後にしたのだった。
◇◇
堀内氏善とその家族が京城にたどり着いたのは、新宮城を出てから実に二日後のことだった。
城といっても非常に簡素な作りで、大きな岩を切り通して垣とした、小さな規模のものだ。
もとより大和からの敵の進軍を防ぐための、北山道の抑えに作られた城で、秀吉が天下統一を果たしてからはその役目をおえて、今ではほとんど使われることのないものだったのである。
早速その城の一室に入った氏善は、嘉隆から預かった南蛮船の絵図を広げて、彼の事を想っていた。
「おやじ殿…俺は…」
この絵図を見れば、今でもあの時『夢』を口にした光景が思い出される。
しかし今の彼にとってそれは、胸を痛めるものでもあった。
なぜなら、彼はあの時誓った『夢』の実現を、つい最近まで忘れていたからである。
いや、「忘れていた」という表現は正しくないであろう。
正確には、その『夢』を胸にしまっておきながら、実現に向けた動きなどせずに、お家を大きくすることだけを考えてきたのである。
それには明確な理由があった。
それは、彼に初めての子供が出来たからであった。
なんと彼が四十を過ぎてから、ようやく出来た子なのである。
そのあまりの可愛さに、彼は我を忘れて、お家の為に没頭したのだった。
そして、今回の戦…
周囲の家臣たちの反対を押し切って、石田三成からの「八万石への加増」の誘いに乗ってしまう。つまり、徳川家康と敵対し、今までの必死の努力を無駄にする選択を取ってしまったのだ。
その選択は、お家の取り潰しだけではなく、彼自身の身の破滅を招くことは確実となり、若い頃に誓った『夢』を叶える機会を永遠に失ってしまったことを意味していた…
「おやじ殿…すまねえ…」
もはや後悔してもしきれない。
可愛い息子の為に、我欲にまみれた愚かな選択をした自分を悔やんだ。
そして何よりも、いまさらになって、義父の嘉隆と誓った『夢』を放っておいたことが、強烈な胸の痛みとなって、彼を襲っていたのである。
絵図に涙が落ちて、しみを作る。
そしてこの時、彼はある事を思い立った。
「あの時はおやじ殿が来てくれた。今度は俺から迎えに行く番だ!」
一見すると支離滅裂。
そこには何の道理もなかった。
しかし彼の心は嘉隆に会いに行くことを求めた。
それはさながら、渡り鳥が故郷へと帰っていくように、言わば一種の本能のように思えたのだ。
彼はそう決意して立ち上がると、忘れかけていた若い頃の血潮が、身体中に巡り始める。
懐かしささえ感じるこの気持ちは、彼の消えかけていた情熱に火をともし、前へ進む力に変えた。
既にお家は窮地に立たされ、もはや『夢』を追いかけることはかなわないだろう。
しかし、それでも嘉隆に会えば、再び何か生まれ変われる気がしているのだ。
そこに彼の妻…すなわち、彼と嘉隆を繋いだ、嘉隆の養女が、様子を見にやって来た。
そして情熱に燃える彼に対して、冷ややかな視線を送って言った。
「お前様…子供たちをおいて、どこか行くのかね?」
母の子供を守る強い思いが、氏善を責めるような口調になって表れる。
しかし氏善の決心が揺らぐことはなかった。
「ああ、おやじ殿を迎えにいってくる。あとは頼んだぞ」
その氏善の強い気持ちが伝わったのか、嘉隆の娘は、刹那に驚きの表情を浮かべたが、すぐにその表情を崩して頭を下げた。
「いってらっしゃいませ」
「いってくる」
そんな短いやり取りで十分だった。
顔を上げた彼女の頬は、少しだけ紅く染まっている。
それは氏善の情熱がうつったせいなのか、近頃「小さく」生きてきた旦那が、急に「大きく」見えたことを眩しく感じたのか…それは彼女自身も分からない。
ただ一つ言えることは、彼女は夫に代わってこの地と子供を守ろうと、固く決意したことは確かであった。
こうして、彼は後顧の憂いをなくし、馬にまたがると、北山道を来た方向へと、駆け出す。
あの時の『夢』の続きを追いかけるように…
色川盛正の涙の努力が…
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。