石田三成の救出⑤一喝
早足で大坂城内を進んでいく片桐且元の背中を追いかける石田三成。
太閤御所から、わざわざ迎えにやってきた北政所が待つ部屋まで、且元が案内することになっているのだ。
「ちと速すぎではないか?助作」
「しかし…これ以上遅れると、あとで何を言われるか…」
と、何やら顔色を悪くしている且元の頭には、待たされることが何より嫌いである、淀殿の鋭い視線が浮かんでいたのだった。
三成はその様子を見て、
「お主は相変わらず色々と苦労しているのだな…」
と、苦笑いを浮かべる。
それに対して、且元は青い顔のまま返した。
「佐吉に比べれば、それがしなど…」
「言うな…助作。それがしのそれは、そのほとんどが、己の未熟さゆえに、もたらされた結果だ」
そう…三成は今までの彼の人生を振り返れば、今回の戦に至るまで、それら全ての火種が、己の信念を貫き通すことだけを考えたものであったように思える。
そしてそれまでに、様々な人々を巻き込んできた。
大谷吉継、小西行長、宇喜多秀家、島左近…
それでも彼は、忠義の一点だけを見つめて、全力で走ってきた。
そんな人生を決して後悔はしていない。
しかし今の彼は、それらの人々のことを想うと胸が苦しくなる。
これからの人生、今の彼なら、巻き込んだ人々の事を忘れることはないだろう。
それでも自分の信じる正義の道をこれからも、今のように早足で進んでいこう、そう彼は思い直し、相変わらず足早な且元の背中を追いかけるのであった。
◇◇
何度も歩いた大坂城の本丸。
つい二十日程前にも、訪れたばかりだ。
しかし見える風景が全く異なっている。
見えるものだけではない。
聞こえるものも、臭いさえも、何もかもが全く異なっており、まるで違う城に迷い込んだような気持ちになるのだから不思議だ。
そんな風に思っているうちに、北政所が待つ部屋は近づいてきていた。
そしてそれとともに、胸が締め付けられ、息が苦しくなっていくことに、彼は戸惑いを覚える。
ただ、それは当たり前の感情なのかもしれないほどに、簡単なことだったのだ。
「もはや合わせる顔もない…」
今さらになって、
「他人が怖い…」
こんな当たり前過ぎる感情さえも、彼にとっては初めてのことだった。
今回の戦では、多くの人と民を犠牲にし、そして徳川家康の力をさらに強力なものにしてしまった…
それはそのまま、豊臣家がさらに追い込まれてしまうことを意味しているのは明白であり、北政所も承知していることであろう。
母であり、豊臣家の支えでもあった北政所は、その原因を作った自分のことをどう思っているだろうか…
きっと怒っているに違いない…
いや、もはや失望しているだろう…
彼女の元で奉公をするという沙汰は、何ものにも代えがたいほどの罪滅ぼしであり、同時に残酷なものであると、三成には思えた。
自然と汗が背中を伝い、頭の中は白くなっていく。
怖い… 怖い…
それはまるで、悪さをした後の少年が、母の部屋に向かう心境そのものだ。
だが、今まで、そんな悪さすらしてこなかった彼にとっては、この歳になって初めて経験するその苦しみに、思わず足がすくんでしまうのだった。
「佐吉… 大丈夫か?顔色が優れぬようだが…」
「ああ…大丈夫だ」
心配そうにたずねてきた且元に、気丈に返事をしたのは、彼の自尊心からであったのだろうか。
彼は大きく息を吸い込むと、きゅっと口を結んで、すくんでいた足を、一歩前に踏み出したのだった。
…と、その時だった。
「おお!!その顔は三成殿か!」
と、目の前から全力疾走で走ってくる少年が、自分に向かって声をかけてきた。
見れば左の頬を大きく腫らせ、その顔は真剣そのものである。
思わず三成は、折角踏み出した足を止め、身構えてしまった。
「やはり三成だ!!」
さらに近づく少年…
もちろんこの時点で、その少年が誰なのかなぞ、気づかぬはずもない。
その声を、その顔を、一時も忘れたことなどなかったのだから…
豊臣秀頼…
彼が最も敬愛する人の忘れ形見であり、今もこれからも忠義を尽くす相手その人である。
ではなぜ三成は、その秀頼に対して身構えたのか…
その答えも至って人間くさいものであった。
「お前のせいで、豊臣家が危ういではないか!どうしてくれよう!」
と、叱責されるのではないかと、とっさに思ってしまったからである。
しかし彼のそんな想像など、全くお構いなしに、涙目の秀頼は絶叫してきたのだ。
「三成!これは命令である!」
今の自分に、領土も地位も、全てを剥奪された自分に何を命ずるつもりなのだろう。
ただ、「腹を切れ」と言われれば、その通りにするつもりである。家康から沙汰されるよりは、主君から言い渡される方が、遥かにましだ。
しかしそんな卑屈とも言える逡巡さえも、全くの無駄であった。
秀頼は叫ぶ。
「俺を助けてくれ!!」
「は?」
思わず目をパチクリとし、あっけにとられる三成。
その様子など、再び無視するように、秀頼は声を枯らして声をあげる。
「いいから助けておくれ!お千をここで足止めせよ!」
すると今度は騎馬隊のような猛烈な勢いで突進してくる、少女の姿が目に入る。
「殿!一度ならず、二度も逃げるとは!待ちなされ!この千がとっちめてくれます!」
その様子に思わず尻込みをした三成を見て、秀頼は、
「まずい!あれはお主でも止められぬ!且元!何とかせよ!」
と、千姫を且元に押し付けて、三成の手を取った。
「ちょっと!秀頼様!?それは困ります!この且元…あたた…腹が…」
秀頼の小さな手が、三成の緊張のあまりに体温を失っていた手を包む。
そしてその手に引かれるように、一緒に走り出した。
どこかで見た風景が彼の胸のうちに蘇る。
「こっちじゃ!」
と、ニコリと笑いかけた秀頼の顔は、彼が愛してやまなかったその人の笑顔そのものであった。
いつでも全力疾走。
悪さをしたって、怒られたって、すぐに忘れて、次の「面白い」ことに心を動かす。
常に笑い、いい歳してまで、怒られた時はひどく落ち込んでいたその人…
そして今、手を引く少年とともに走り出すと、今までにない高揚感が、腹のうちから湧き上がってくるではないか。
そして今手を引くその人は、あの時のいたずらっ子そのままの顔でこう告げた。
「三成。尻込みなんかしている暇はないぞ」
この時…彼の中で再び見える景色が変わった。
「尻込みしている暇などない…ですね」
そう呟いた三成の口もとには、手を引く少年…そして、いつもいたずらばかりをしていた太閤秀吉と同じような、笑顔が浮かんでいたのであった。
「殿!こっちにございます!こちらには亡き太閤殿下がこんな時の為に作らせた、秘密の通路があるのです!ささっ!」
「おお!さすがは、三成じゃ!」
もしこの時の二人の背中を見た者がいたら、何と感じたであろうか…
三成の足は先ほどまでとはうって変わって軽く、跳ねるように、大坂城内を駆けていくのだった。
◇◇
「まったく、あんたまで一緒になって城の中を逃げるなんて…情けないったら、ありゃしません」
そう腰に手をあてて、ため息をついているのは、北政所だ。
何を隠そう、大坂城を駆け回っていた三成と秀頼を捕まえたのが、この頬をふくらませて仁王立ちしている彼女であった。
彼女は、かつての夫である亡き太閤秀吉が利用した『逃げ道』を全てつぶさに掌握しており、淀殿らとともに、彼らを先回りして待ちかまえていたのである。
そして、彼女の足元で坊主頭を下げているのは、無論、石田三成である。
「面目ございませぬ」
と、三成は頭を下げたまま、弱々しい声で答えた。
その様子は、悪さをして叱られる子供そのものだ。しかし、彼が恐れているのは、秀頼と一緒に大坂城内を駆け巡ったことへの叱責だけではないことは、言うまでもないであろう。
そんな彼に北政所は、声色はきついままで三成に声をかけた。
「顔をあげなさい、佐吉や」
「はっ…」
恐る恐る顔を上げる三成。
そんな三成を、厳しく咎めるような目でみつめる北政所。
しばしの沈黙の後、彼女が重い口を開いた。
「佐吉、このたびの戦の件、お主も分かっておろうが、とんでもねえことをしてくれたな」
三成は、返す言葉もなく、再び頭を下げる。
そんな三成に対して、北政所は厳しい口調で一喝した。
「佐吉、逃げるでねえ!顔を上げて、このわしの顔を見ろ!」
あまりの剣幕に、彼女の周囲にいた加藤清正が顔を青くして、震えあがっている。
三成はうなだれた顔を上げて、北政所の顔を見つめた。
厳しい炎のように燃えている瞳だが、その目じりにはうっすら涙をためているのが分かる。
三成は顔を青くして、ただ彼女の顔を見つめるより他なかった。
「いいか、佐吉。
亡き太閤殿下だってな、色んな人とぶつかった。
色んな犠牲を払ってきた。
それは、一見すると好き勝手生きてきたように思えるかもしれねえ。
だがな、絶対に『ぶれねえ』ところが一つだけあったんよ。
それがあんたには何だか分かるかね!?」
三成は答えに窮し、言葉を出せない。
すると、北政所は震える声で続けた。
「それは、いつだって『百姓が平和に暮らせる世』を作るってことだ」
三成の瞳が大きくなる。それを見つめながら、北政所は続けた。
「たしかにな。あの人の晩年に起こした戦は、そこが感じられなかったと、わしは思う。
だから、上手くいかなかったろ?」
無論、ここで言う戦とは、朝鮮出兵の事を指しているのだろう。
「だがな、それまでのあの人は、それはもう、何かにつけて、『民は、百姓は』であったのは、近くにいたあんたが一番知っているはずだ。違うかね?」
「…その通りにございます」
「だったら、こたびの戦は、何かね!?誰のために起こした?
あんたは『忠義のため』とかぬかしておったが、あんたを生かしているのは、豊臣でも徳川でもねえ。
食べるものを作ってくれた百姓じゃないのかね!?
あんたは忠義を尽くすべき相手を間違っとる!違うか!?佐吉!」
あまりの正論に返す言葉を失っている三成。
しかしそれは、隣で二人を見つめる面々も同じようだ。
無論その中には、まだ若い豊臣秀頼の姿もある。
「佐吉…いや虎之助もじゃ。
戦をするのに、民をおきざりにしちゃなんねえぞ。
あんたらは、もう子供じゃねえんだ。それくらいの分別はつけろ」
北政所の言葉は、三成だけではなく、その場にいる全ての人間の心を貫いた。
そして三成は一言を発するだけで精いっぱいであった。
「…かしこまりました」
その様子に、北政所は先ほどまでの厳しい声色を潜めて、つぶやくような小声で続けた。
「それと…」
「それと?」
調子の異なる北政所を不思議に思った三成は何事か、とそのまま問いかえす。
すると北政所は、顔をそむけて言った。
「わしは喧嘩に負けても立ち上がる男が好きじゃ。あの人がそうじゃったように…」
もちろんその一言は「立ち上がれ佐吉」という彼女からの励ましであった。
白かった三成の顔に色が戻ってくると、同時に彼の頬に涙が流れる。
その様子を見た北政所は、
「男がそうそう泣くもんじゃねえ。しかも秀頼殿の前であるぞ」
と、愛に溢れた優しい顔を三成に向けた。
しかし彼女の言葉は、三成には届かない。
なぜなら彼女の言葉より、その慈愛に満ちた表情の方が、彼の心を震わせていたからである。
しばらくの間、三成の嗚咽は続いた。
そしてこの北政所の一喝は、若い秀頼の心にも深く刻まれ、今後の彼の、いや豊臣家の方針を決定付ける大きな要因となることになる。
そんな中、黒田如水の大笑いが、場の重い雰囲気を一変させた。
「カカカ!髻を切ろうが、いつまで経っても、かか様には頭が上がらねえな!佐吉!
だが、しみったれている暇なんかないぞ!
ほれ、虎之助と一緒にこれを見てみろ!」
そう言って、彼は一つの書を三成の前に投げた。
「これは…?」
「読めば分かる」
そしてその書を手に取り、加藤清正と二人で覗き込むと、その手が震え始めた。
清正の顔も紅く紅潮し始めている。
その反応を楽しむように、ニヤニヤしながら見つめている如水。
そしてその書は、その場にいた大谷吉治、桂広繁、明石全登にも手渡され、目を通した彼らの表情にも、怒りに似たものを映していった。
そして頃合いと見た如水は、北政所にたずねた。
「私情で喧嘩をふっかけるのはご法度だが、ふっかけられた喧嘩は、どうするべきかのう?」
すると北政所は、鼻を鳴らしながら答えた。
「ふん、あんたらが『男』なら、答えは一つじゃねえのかね?それでも無益な殺生はいかんよ」
その答えに満足したように、如水は再び大声で笑う。
その書とは…秀頼と家康の会談の様子をしたためた、且元による書であったのだ。
それはまさに「家康から秀頼に喧嘩をふっかけた」とも言える内容であったことは言うまでもない。
「カカカ!違いねえ!よし!おめえら!心の準備はできたか!?」
「当たり前だ!!」
そういきり立って答えたのは清正だ。
彼の顔はまさに爆発寸前といった様相である。
他の面々も、力強くうなずいた。
それを見て満足そうにした如水は高々と号令をかけた。
「では、場所をかえて、評定を始めるぞ!」
「おお!!」
全員が力強く答える。
もちろんその中には、その中心にあるべき人物…
豊臣秀頼の姿もあった。
黒田如水、加藤清正、石田三成、大谷吉治、桂広繁、明石全登…
まだ見ぬもう一人の「豊臣の七星」を除いた六つの星が、一斉に瞬いた瞬間であった。
みな力強い足取りで次なる場所へと進み始める。
豊臣秀頼、動く…
いよいよその時が来た。
…かに思えたのだが、それをすぐには許さない人が一人いることを、秀頼はすっかり忘れていた。
とある女性の手が秀頼の肩におかれると、その細い手からは考えられないほどの怪力で、秀頼は進む足を止めざるを得なかった。
「秀頼ちゃんは、向かうべき『部屋』が違うわよね」
その冷たい吐息が、秀頼の心を凍らせる…
震える顔をその声の主に向けると…
………
……
…
そんなこともあり、それから半刻(1時間)ほどたった後に始まった評定では、主に三つの事が話し合われることになる。
一つは、九州のこと。
もう一つは、その命が消えかけている「もう一つの星」の救出について。
そして最も重要なこと…
それは豊臣家、いや豊臣秀頼の存在意義について、であった。
母は強し…にございます。
さて、次回からはいよいよ秀頼たちが、家康という大きな壁に挑むために、動き始めます。
そして、豊臣七星の残り一つの「星」とは?
(ちなみに可愛い女の子ではなく、残念ながらおっさんです)
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。




