石田三成の救出④沙汰
◇◇
石田三成――今は「宗應」という号がある。
観音寺で剃髪をした彼を、さすがの正純も「害」することは出来なかった。
しかし、主君譲りの負けず嫌いである正純は、次の手も打っていた。
護送の途中で「山賊による不慮の事故」を手配していたのだ。
しかし、事は起らず、翌朝、正純の陣屋の前にいくつもの首が置かれていた。
それは、霧隠才蔵とその一派に対して、秀頼が護送の周囲を警戒に当たらせていたからである。
食事の世話は、田中吉政が直接行い、どんな罵詈雑言にも耳を傾けなかった三成に対して、正純が顔を合わせに行く機会も減っていく。
こうして石田三成は、心身ともに万全となって、徳川家康の待つ、大坂城の西の丸の謁見の間へと入ったのであった。
「思いの外元気そうだのう…冶部殿」
そう穏やかな表情で声をかける家康。
その表情を見て三成は、本多正純の害意が、彼単独によるものなのか、そうでないのかを判断するに難しかった。
しかしそれでも、家康からは、警戒心こそあれ、明確な害意は感じられない。
そこで、家康の言葉に対して、三成も穏やかに返答した。
「ええ… 田中吉政殿をはじめ、皆さまによくしていただきましたゆえ、こうして元気な姿で、沙汰をお受けすることが出来ます。
田中吉政殿を護送のお役目に命じていただいた、徳川内府殿にも感謝せねばなりますまい」
「ふむ…お主がわしに感謝とな…?」
「はい… 何かおかしいことなど、ございますかな?」
「ふむ…」
思わず家康はうならざるを得なかった。
なぜなら、この目の前の髪を剃った男は、関ヶ原の戦いの前後では、まるで人物が異なるからだ。
それはさながら、戦の前が触れれば切れてしまいそうな刀とするならば、今は触れた者のとげさえも受け入れるような、大きな包みのようだ。
まるで別人が乗り移ったようだ…
そう疑ってしまうのもおかしくはないほどに、三成の所作や表情は、研ぎ澄まされていて、熟年のそれを感じさせるものであった。
「おぬしに何があった?」
「はて?何と言われても、内府殿との戦に敗れ、こうして髻を切った…としか言いようがございませぬ」
「ふん、そういう面白くないところは変わっておらぬのう」
そう漏らす家康だが、その表情には全く不機嫌なものを映さない。むしろ感心している様子を崩しておらず、三成も落ち着いて返答した。
「三つ子の魂百まで、と言いますゆえ、ご勘弁願いたく存じます」
そこまでで、一旦間をおく、家康。
ふと三成は周囲を見回すと、離れたところに、書記役の片桐且元が座っているが、それ以外に誰もいないことに、驚かされた。
敗軍の将に沙汰を下す場面など、自分の権威を示すのに、格好の舞台ではないか…
なぜ彼はそうしなかったのだろうか…
そんな風に三成が疑問に思っている様子が、家康も伝わったかのように、
「不思議なようだな」
と、彼の方から切り出していた。
それに対して、三成は素直にその疑問をぶつける。
「ええ… このような『見せ場』は、めったにないでしょうゆえ、なぜ利用しなかったのでしょう」
以前の彼であれば、その切れすぎる頭で、彼の推論を流れるように話し始めたに違いないところだ。
しかし目の前の三成は全く異なる。
驕ることなく、素直に相手の言葉に耳を傾けようとしている。
そんな様子に、家康は「これはこれで面白くないかもしれぬ」と、こ憎たらしい正純の顔を思い浮かべていた。
「それはのう、冶部殿。わしは怖いからじゃ。
おい!且元殿!ここは書かんでよいところだからな!」
いきなり声をかけられた片桐且元が、びくりと体を震わせると、慌ててうなずいている。
そんな様子をかすかな微笑みで見ていた三成が、問いかける。
「内府殿が怖い…はて?どういうことにございますかな?」
「ふん、言わせてくれるな。お主が怖いに決まっておろう」
その言葉に三成の瞳が大きく見開かれる。
「それはどういう…」
なおも追及する三成に対して、家康は観念したように肩を落とし、視線をそらしながら答えた。
「お主の関ヶ原での突撃は、見事なものであった。
あれは諸将の『心』に働きかけねば、成しえなかったものであろう」
「それを完膚無きまでに叩いてくれた御仁に言われるのは複雑にございます」
思わず皮肉の一つが漏れてしまうところに、まだ悔しさが捨てきれていないのだな…と三成は自分を顧みた。
そんな皮肉にも家康は冷静に続けた。
「ふん、勝負ごとはまた別の話よ。お主は自分でも気づいていないかもしれぬが、『心』を動かす術を、いつのまにやら身につけているのかもしれぬ…そうわしは感じたのだ」
「それは少々買いかぶりかもしれませぬ。それがしには、そのような自覚はございません」
「それが怖いのだ。
もし仮に、この場に諸将を列席させたとして、お主の姿、お主の言葉で、『心』を動かされる者が出てきたとなれば、折角築き上げてきた『土台』が崩れかねない」
その言葉に核心をつくべく、言葉を投げかける三成。
「つまりまだ、諸将の『心』を掴み切れていない…という自信のなさの裏返しですかな?」
その三成の言葉に、家康の目が少し大きくなった。
「ふん!そういう所は以前のお主のままで、安心するわい。同時にかなり苛つくがな」
「ありがたきお言葉で」
徳川家康は多くの豊臣恩顧の大名たちを、自分の味方へと引き入れた。
無論、彼は、「心」に働きかけて、丁寧にその絆を固めていったつもりではある。
しかし、本来であれば何十年かけて築かれるべき結束を、ものの一年程度で築けるはずもない。
すなわち、彼は三成の指摘の通り、自信がなかったのである。
その為、家康は三成との「勝負」を避けた。
つまり彼と面と向かって顔を合わせる場面に、人を置く事を避けたのである。
しかも、本多親子などの彼の側近すら、その傍らには置かなかったのだ。
「では、それがしの『不戦勝』ということですかな?」
そう静かな微笑みを浮かべる三成。しかしそこには以前のような嫌味たらしいものは浮かんでおらず、清らかそのもので、家康を不快な気持ちにさせることはなかった。
「ふん、何とでも申せばよい。わしは負ける可能性がある戦はせぬ、そう三方ヶ原で学んだのだ」
そこで心を落ち着けようと、大きく息を吸い込んだ三成。
彼は一つの事を聞くつもりであった。
それは例え今の彼であっても、ひどく動揺しかねない質問であり、彼はその心構えを行ったのだ。
そして意を決したように、表情は柔らかなままで、家康に問いかけた。
「なぜあの時…『ありがとう』と、それがしに向けて、おっしゃったのでしょう?」
三成の表情は変わらない。
しかしその瞳には、静かな「怒り」を浮かべているようだ。
なぜなら三成は、関ヶ原での彼の見せた決死の突撃が止められた瞬間に放たれた「ありがとう」という家康の言葉は、三成に対して「楽しませてくれて、ありがとう」という侮辱の言葉そのものであると思っていたからである。
今更それを知ったところで、何が出来るわけでもない。
しかし、近々死にゆくこの身において、気がかりになっている事を、そのままにしておくのは、彼の性分が許さなかったのである。
そんな三成の先ほどまでとは異なる雰囲気に、家康の血も騒ぐ。
彼もまた武人。
相手に敵対心を向けられると、その血が熱くなるのは、避けられないものであった。
天下泰平の世を願う気持ちとは裏腹とも言えるその感情に、彼は「いかん、いかん」と、それを押しこむようにして、三成の瞳を、じっと見つめた。
そして、大きく息を吐き出すと、覚悟を決めて話した。
「あの戦において、わしの目的は二つあった。
一つは、お主を叩くこと」
「もう一つは…」
「力をつけすぎた、太閤殿下恩顧の大名たちの兵力を減らすことだ」
そう言いきって、家康は三成の反応を待った。
三成にとっては、予想外の言葉だったのだろうか、その瞳からは困惑が感じられる。
そして、家康の言葉の続きを、自らの言葉とした。
「すなわち、それがしの突撃により、太閤殿下恩顧の者たちの兵を存分に削ってくれたことに対する、感謝…というわけですか…」
その問いかけに言葉で答える代わりに、小さくうなずくことで回答とする家康。
そんな彼を三成はじっと見つめる。
しばしの沈黙…
それは三成が心の整理をしている時間であったのかもしれない。
そして、突如として三成が笑いだした。
わずか三人しかいないその部屋に、その笑い声は良く響き、さながら天井を震わせるようであった。
家康は始め驚いていたが、しばらく続く三成の高笑いに、つられるように口もとを緩める。
そして、三成は笑いを堪えて、話した。
「内府殿は、戦のその先を考えておられた、しかし、それがしは愚かにも、戦で勝つことしか考えていなかった…
この時点で、勝負は既に決していたのでしょう。
いやあ、恐れ入った!
これほどまでに格が違う相手に喧嘩をふっかけた、己がおかしくて仕方ない!ははは!!」
なんと彼は、己の未熟さを笑い飛ばしたのだ。
これには家康であっても、驚きを通り越したものを感じざるを得なかった。
すなわち、性格だけではなく、その器すら大きく変化している石田三成に対して、少なからず畏怖の念すら感じたのである。
惜しい…
もし敵味方に分かれていなければ…
そう家康は思わざるを得ない。
しかし一方で、もし敵味方に分かれていなかったなら、ここまで石田三成は大きな変化を遂げただろうか…
人とは難しいものだ…
と、家康は複雑な思いで、三成の様子を見つめていたのであった。
しばらくしたその時…
笑いを止めた三成は、覚悟を決めたように姿勢をただした。
「お待たせいたしました…これでもう未練はござらぬ。
では、このたびの沙汰をお聞かせいただけませんでしょうか」
惜しい…そう思うと同時に、このまま生かしておくのは、危険すぎる…
家康は三成の前でなければ、親指の爪を噛んでいたところであろう。
彼はちらりと且元の方を見た。
すると彼は、じっと家康の方を見ている。
その瞳からは「秀頼公との約束を違わぬように」と、念を押しているように思えた。
家康は腹を決めて、三成も驚くほどの大きな声で沙汰をくだした。
「石田冶部少輔三成殿に申し上げる。こたびの騒動の張本人であるそなたは、本来であれば、領土没収のうえ、死罪!
…であるが…」
すでにこの時点で、三成は唖然としている。
「こたびのことは、そなたのいきすぎた忠義心ゆえのこと。
その忠義心に免じて、罪一等を減じて、流罪とする!
配流の地は追って沙汰するゆえ、しばしは…
しばしは、京の太閤御所にて、北政所殿に奉公するように」
一体全体何が起こったのか…
「忠義心に免じて」という意味がさっぱり分からない。
家康に強い働きかけをしたものがいた、としか思えないその沙汰に、彼は大いに戸惑った。
そんな言葉すら失っている三成。
その様子に、なぜか満足気なのは家康だ。
なぜなら彼は人の驚いた顔が好き、という奇特とも言える性分を持ち合わせている。
今三成が見せているそれは、彼を十分に満足させるものであったのである。
「しかし治部殿、これだけは覚えておくように。
もう二度と勝てぬ喧嘩をするでない。
己だけではなく、民が苦しむことをゆめゆめ忘れるな」
そう釘をさすと、家康は大股でその場をあとにする。
部屋を出た彼の表情は、とても初老に差し掛かったものとは思えないほどに若々しい。
「まだまだ『人』について知らぬことばかりじゃ…
わしにも学ぶべきことは多い」
と、空を見上げた彼の顔は、実に晴れやかであった。
一方の三成。
未だことを掴めず、呆然と座っていた。
そんな彼に且元が近寄って声をかけた。
「佐吉…みなが待っておる、いこう」
三成は不思議そうな顔を且元に向けて、問いかけた。
「みな…とは…」
すると、ニコリと笑顔をみせた且元が、暖かみを帯びた声で答えた。
「行けば分かるさ。佐吉の新しい人生はこれからだ」
三成の瞳から大粒の涙が落ちる。
「ああ… 近頃涙もろいのは、なぜなのか…」
彼は涙を拭き、静かに立ち上がると、且元に背中を押されるようにして、新たな一歩を踏み出したのであった。
三成の男泣きの場面が多い気がします。
次回も恐らく泣きます。
それもまた彼の心の成長なのかもしれません。




