石田三成の救出②大一大万大吉
◇◇
慶長5年9月23日 近江観音寺――
目と鼻の先である伊吹山にて、田中吉政の軍によって二日前に捕えられた石田三成は、この寺の一室にて、腰に差した一振りの脇差以外の武具を外され、幽閉されていた。
幽閉といっても、その扱いはさながら客人に対するそれと同様に非常に丁寧なもので、それはこの軍の大将である、田中吉政と石田三成の仲をそのまま表しているようであった。
その吉政は、総大将である徳川家康からの、石田三成への処遇や移送先についての沙汰を、この場で待っていたのである。
関ヶ原の戦いが終わって早十日経つ。
この伊吹山でも、小西行長ら多くの武将たちが捕えられてはいるが、宇喜多秀家や明石全登といった者たちは、未だ行方知らずだ。
その為、田中吉政だけではなく、徳川方に加担した多くの武将たちが、伊吹山の付近に陣を張り、大規模な『一斉捜索』を遂行していたのだった。
さて、捕えられた石田三成だが、この二日間、水や食料をほとんど口にしておらず、静かに座り、ひたすら一点を見つめている。
その様子はさながら、如来の坐像のようであり、時折様子を見にくる吉政の兵たちは、神々しいものすら感じていた。
彼の心の内を推し測ることは難しいように映るが、しかしそれは至極単純なものであった。
すなわち『無』である。
憎しみ、怒り、屈辱…
戦の最中も、直後も、彼の中に渦巻いていた感情の多くは、『負』の感情であった。
しかしこの観音寺の一室で静かにたたずむ彼は、それらの感情を綺麗に洗い流し、まっ白な紙のような心境へと変化させていったのである。
それは一重に、彼をこの後待ち受けるであろう『死罪』への心構えである。
もし『負』の感情を抱いたまま、この首を落とされれば、死に際の顔にそれは必ず表れるであろう。
それだけは絶対に避けねばならぬ。
なぜなら、この戦は忠義の為に起こしたものであり、石田三成個人の感情を抜きに最後まで語られなくてはならないのだ。
そう、彼は最後の最後まで、自分の感情を殺してまで、豊臣家への忠義を貫こうとしていたのだった。
そんな彼の元へ、いよいよ徳川家康からの指示を携えた者が大坂城から馬を飛ばしてやってきた。
三成は、薄暗い部屋の中にあったため、誰が訪れたのかは分からないが、外が少し騒がしくなった為、それなりの人物が、わざわざこの寺までやってきたのだろう。
「まあ… 誰が来ようが、それがしには関係のないことだ…」
そう呟いた三成は、その動きを早めようとしていた胸の鼓動を鎮めるように、再び目をつむるのであった。
しばらくした後、その使者が、三成の坐している部屋へと入ってきた。
ほとんど音もたてずにふすまを開けたかと思うと、彼の目の前に「ごめん」という一言を持って、静かに座った。その所作は清らかな川の流れのようで、洗練されている。
目を閉じ、音を聞いていただけでも、その相手がひとかどの者であることが、三成にも分かった。
三成はゆっくりと目を開ける。
その彼の両目に映ったのは、いまや家康の側近中の側近と言っても過言ではない、本多正純であった。三成は、あまり口を聞いたことはなかったが、彼の噂はよく耳にし、傍目から見ても聡明さを浮き彫りにしているその顔を、忘れたことはなかった。
「これは、本多正純殿ではありませんか… わざわざのお越し、恐縮にございます」
そう言って、三成は頭を下げる。
「まあまあ、頭を上げなされ、冶部殿。こたびの戦、勝負こそ、わが殿が勝ちはいたしましたが、冶部殿の最後の突撃には目を見張るものがございましたぞ。
わが殿も、たいそう感心されておりました。
拙者なぞは、その殿から『あれこそ用兵の妙と言えよう。弥八郎も見習え』とご叱責を受けたほどにございました…ははは」
乾いた笑い声で、さも労うような口ぶりの正純。
しかし三成はそんな彼の上辺だけの言葉など、気にとめることもなく、顔を上げると、彼の瞳をじっと見つめる。
言葉をいくら飾ったところで、瞳は嘘をつけない。
しばしの沈黙で、三成と正純は互いの真意を鋭く読み取った。
三成のそれは、敗軍の将とは思えないほどに、強い光を瞳にともし、彼の信じる正義は、なおも挫けていないように、正純には思えた。
それはすなわち「まだ俺は諦めてない」と言っているのも同じであった。
一方の正純については、明らかであった。
それは「石田三成という相手に不足なし」という、むき出しの敵意それだけだったのである。
重い沈黙が、小さな部屋を支配する中、三成の方から声をかけた。
「正純殿…こたびは、それがしの沙汰をお伝えにこられたのでは?」
その口調は涼やかで、彼の瞳のうちにともすものとは対照的であったことが、正純の表情を、ぴくりと動かす。
しかし、表情と口調そのものは至極穏やかに、それに答えた。
「はい、おっしゃる通りにございます。ただ、冶部殿の処分につきましては、大坂に到着次第追ってわが殿よりお伝えするとのこと。それがしは、それまでの面倒見役の田中吉政殿のお目付け役にございます。
大事な治部殿の身に何かあったらいけませんので…」
「ほう…お主が田中吉政殿のお目付け役を…」
そう言いながら、三成は彼特有の切れ目をさらに細くし、正純を見つめる。
鋭いその視線は正純の胸に、さながら切れ味鋭い刃のように迫っているが、彼は全く動じることなく、その三成の言葉に問いかけで返した。
「それは、それがしでは心もとない…という意味ですかな?」
三成は目を開き、「流石は家康の寵愛を一身に受けているだけある。たいした肝っ玉だ」と心の内では、感嘆と憎々しさを同居させながら答えた。
「いえ…むしろ内府殿のいまや懐刀とも言える正純殿に、この身を預けるなど、恐れ多いことと思っているのでございます」
正純は「心にもないことを、すらすらと…」と、内心あまり面白くないものを抱えながら、返礼する。
「これは却って恐れ多いことかな。亡き太閤殿下の懐刀であったと名高い、石田冶部殿より、そのようなお言葉をいただけるとは…この正純、感激にございます」
この言葉は、正純の『失言』であったのか、それともわざとであったのか…
同じ『懐刀』であるにも関わらず、一方は処分を言い渡す身であり、一方はその処分を待つ身…
それは個人の優劣というよりも、『懐刀』を有する者の優劣の結果なのではないかという、豊臣家を侮辱しているとも捉えられる、非礼な物言いであったのだ。
しかし三成の心は乱れない。
なぜなら彼は「素直に」思っているからだ。
もはや天下は豊臣から徳川に移りつつあり、その勢いに優劣をつけるならば、徳川の方が「優」であると…
そんな三成の様子に、ますます面白くないものをつのらせる正純。
ふと彼の頭に浮かんだのは、「ああ…殿もそれがしに同じような思いを抱えることがあるのかもしれないな」という主君である徳川家康の心情であった。
なぜなら彼も、家康の「揺さぶり」に対して、心が動かないことが多々あり、それを見るたびに、家康が不機嫌そうに親指の爪を噛むところを見てきたからだ。
正純は、「たまには、わざと驚いたふりでもしておこう…」そう密かに心のうちに秘めたのだった。
さて、そんな正純の逡巡を待ってか待たぬか、三成の方からこの場を終えようと切りだしてきた。
「では正純殿。これ以上の沙汰がないのであれば、それがしは少々疲れたゆえ、お下がりいただけないだろうか…」
それに対して正純も同意する。
しかし…
「ふむ、では一旦失礼いたす。ところで…」
と、含みをもたせると、明らかに先ほどまでの穏やかな表情を変えて続けた。
その表情は冷たく、色がない。そして有無を言わせない雰囲気は、主人である家康譲りなのだろうか…
「その腰の刀は、何の為に許されているのか、よもやお忘れではございませんな?」
その言葉に三成の目もまた凍りついた。
やはり最初の見立て通り、正純は彼を害そうとしているに違いない。
そして万が一、三成が死ねば、その責任を全て面倒見役である田中吉政に押し付けるつもりであろう。
「はて…?それはどういう意味にございますかな?」
その意味を知りながら三成は、極めて冷静に正純に問い返した。
しかしそれまでとは全く様子のことなる、蛇のような目つきの正純は、間髪いれずに答える。
「白々しいにも程がありますぞ、冶部殿。
もはや、お主の拠り所である佐和山城も落ち、お主の家臣や一族の多くが、潔い最期を遂げられたと聞く。
それなのに、お主はこうして生き恥をさらしてよいという道理がどこにあろうか?」
この言葉の意味は、いわずもがな「その脇差は自害をすることを許したものなのに、どうしてお前はそれをしないのか」である。
一種の「脅し」とも言えるその言葉にも、三成は冷静に対処した。
「この刀は豊臣家を守る為のものである。むしろ、自分の命を奪う為に許される刀など、この世にはない。
それに生き恥をさらしてまで生きよと言うのか、それとも死ねと言うのか…それを決めるのは、それがしでも正純殿でもなかろう。
唯一、天下を治める豊臣権中納言秀頼公をおいて、その裁きを下せる者はおりませぬ。
その沙汰を待たずして、自ら命を絶つなど、不忠義者のすることにございます」
再び流れるような正論に、正純は言葉を失う。
こうして二人だけで面と向かって話をしたのは、これが初めてだったのだが、この短い時間で、石田三成の「強さ」を、正純は痛感した。
そして、「このまま生きて大坂に帰したのでは、いつか必ず脅威となろう」と、ますますその殺意をあらわにするのであった。
◇◇
その後の正純は「あからさま」な行為で、三成を追い詰めていった。
吉政の代わりに、様子を見に来たと称しては、佐和山で散っていった者たちの最期を誇大して話し、彼の罪悪感を引っ張り出しては、その心を踏みにじった。
さらに、飲み物や食べ物には毒を仕込ませているようににおわせ、飲み食いがままならずに弱っていく三成を見れば、「体を強くする薬」として、怪しげな薬を渡した。
こうして三成は、みるみるうちに心も体も弱らせていき、その命の炎を弱めていったのである。
しかし、三成は気丈に座り続けた。
とっくに心身ともに限界を超えている。
しかし彼の忠義の心は倒れることを許さない。
そしてそれは、敗軍の将であったにも関わらず、自分を客人のように扱ってくれた、田中吉政への義理を果たすためでもあった。
もし自分が倒れでもしたら、吉政はその咎を責められるに違いない。
そして戦の始まる寸前に顔をあわせた幼き主君。
彼こそ自分の生きる意味の全てであり、心の支えであった。
朦朧とする意識の中においても、彼は自分のことではなく、自分を支える相手のことだけを考え続けていたのである。
そして彼が理由も分からず、観音寺に留め置かれてから、六日目の夜のことであった。
「…殿…」
遠くの方で自分を呼ぶような声が聞こえてくる。
「ああ… これがお迎えというものなのかもしれぬ…」
思えばこの観音寺は、亡き太閤秀吉に拾われた寺である。
言わば石田三成という男が生まれた寺だ。
その寺で命を落とす…
それも悪くはあるまい…
と、彼は言葉にならないつぶやきを心に思い、同時に吉政や秀頼の顔を思い浮かべながら、意識をそちらへ預けようとした…
その時であった。
パンっと頬を張られると、その意識が急速に戻る。
目の前には、瞳に涙をいっぱいに浮かべた吉政が、いっぱいのお椀を手に、三成を見つめていた。
「治部殿!!お気を確かに!」
弱々しい声でそれに答える三成。
「これをお食べなされ!毒など入っておりませぬゆえ!」
すると持っているお椀に入っているお粥を、吉政は、一口自分で食べた。
もちろんそれは毒味をしてみせたのだ。
するとその粥を半ば強引に三成に食べさせた。
じっくりと味わうようにそれを咀嚼し、飲み込んでいく三成。
ほんのりと塩で味付けされたその粥は、全身を温もりで包んだ。
「ああ…旨い…」
彼は生きている心地をこれほどまでに実感したことがあっただろうか…
当たり前の話ではあるが、彼は今、彼が生きる為に、粥を食べた。
全てを豊臣家の為に捧げてきたその人生において、彼は自分を支えているものに全く目を向けないで生きてきた。
しかし今まさにそれに目を向けている。
それは、今は目の前で自分の為に涙を流す田中吉政であり、口にしている米や塩を作ったであろう百姓たちであった。
無論、彼を支えていたのは、それらの方々だけではない。
過去には島左近をはじめとした、多くの忠臣たちや兵、それに妻や家族、そして大谷刑部や真田信繁といった友…
彼はそれら全ての彼を支えていた人々のことを思わざるを得なかった。
そして心の底から漏らしたのである。
「ありがとう…」
そして彼は決意した。
彼は彼が忠義を果たすべき者だけの為ではなく、彼を支えてきた全ての人々の為に、残されたわずかな時間を精一杯生きようと…
そしてその時…
田中吉政は、小さな封をお椀とともに、三成に渡したのだ。
思わず「これはなんだ?」と問いかけようとしてしまう、三成を、視線で「口に出すな」と制する吉政。
すぐにその封書の送り主が誰なのかを見る。
それは…
北政所…豊臣秀吉の妻、寧々からの書状だったのである。
その懐かしい字を見ただけで、心が震える。
涙が止まらない…
母代わり…いや母そのものである北政所…
その母がいまや天下の大罪人となった自分に書状を出す、それだけでもその身に危険がおよぶ可能性がある。
それでも母はこうして小さな紙に、その心をこめた届けてくれた。
そのことだけで、彼には十分であった。
そしてその中身を見て、彼の切れ長の目はこれ以上にないほど大きくなった。
その内容は、至って簡素…
『からだを大切にしなさい…おね』
嗚咽…
嗚咽…
嗚咽…
これほどの愛を感じたことがあっただろうか…三成は思い返す。
否!
彼の周りには、いつだって変わらぬ愛で溢れていた。
それは北政所からだけではない。
主君はもとより、同僚、家族、友…そして万民…
それを「素直」に受けるだけの器がなかっただけだ。
しかし今の彼は違う。
全ての言葉が、想いが、彼の心に染み込んでくる。
それはさながら、彼の乾いた大地に、降り注ぐ恵みの雨のように。
激しく…優しく…
ふとパラパラと紙切れが何枚か落ちる。
「なんだこれは…?」
そこにあったのは…
全て書状だった。
『佐吉!この軍師がもっと面白い世界を見せてしんぜよう!だから死ぬな!…黒田如水』
『やい!佐吉!今度会ったら夜が明けるまで、飲み明かすからな!覚悟しておけ!…加藤清正』
『治部殿!またお目にかかる日をお待ちしております。その時は父の懐かしい話をお聞かせくだされ…大谷吉治』
一枚一枚に込めらた気持ちが、三成の傷ついた心と体を鞭うつ。
生きろ!
生きろ!
生きろ!
生きろ!
と…
そして…
最後の一枚…
『万民の為に、豊臣家の為に、これからも尽くしておくれ。頼む!…豊臣秀頼』
「うわぁぁぁぁぁぁ」
声すらまともに出す事がかなわなかった彼が、今、腹の底から声を出している。
声だけではない。
涙も、汗も…ありとあらゆる「生きている証」が彼の体から、これでもかというほど溢れでた。
そして、彼の乾いた大地はその色を濃くし、枯れかけた木から、ついに一つの小さな芽が、その顔をのぞかせたのである。
『大一大万大吉』
この天の下に生まれてきたからには、たとえ弱くて儚いこの身だとしても、支えてくれた万民の為に尽くそう…
この命…たとえ明日までであろうとも、最後の最後まで輝かせてみせよう。
そう決意した。
その時であった。
本多正純がこの部屋に入ってきたのは…
「男が泣く声がすると思えば、治部殿でしたか…それに田中殿もご一緒とは。
さてはご覚悟されたのですかな?」
部屋に三成によってもらされた熱気など気にもとめず、相変わらず涼やかな顔をして、そう問いかけた正純。
それが意味することは、すなわち「自害の覚悟を決めたかな」ということであったのは言うまでもあるまい。
三成は覚悟を決めた穏やかな表情に戻して、正純を見つめた。
その正純は、三成の周囲に落ちる何枚かの紙切れに目を光らせると、
「おや…?これは書状ですか?一体どなたから…」
と、それらを手にしようとした。
その時…
その手を遮るように、鋭い刃が向けられる。
「なんのつもりですか?冶部殿?」
表情は先ほどから変わらないが、語気が少し荒れる正純。
三成が向けた刃とは、彼が腰に差すことを許されていた、あの脇差であった。
「失礼ながら、触れば汚れてしまいます…」
さすがに「紙の方が」とは口に出さなかった三成であったが、その意図は正純にも伝わったようだ。
表情を少しこわばらせるが、それでも強がって三成に先ほどの問いへの答えを催促した。
「して…ご覚悟の方は決まりましたかな?」
差し向けた刃を自分に向ける三成。
「ええ…おかげさまで決まりました…」
その様子と言葉で、正純の胸の内は高まっていく。
しかし…
次の瞬間…
石田三成が微笑んだ。
その顔を見て、彼らしくないほどに驚愕の表情を浮かべる正純。
そんな彼の目の前で、三成は手にした刃で斬ったのだ…
「な…なにを…しておるのだ…?」
思わずそう漏らす正純。
その視線は三成の手に向けられていた。
彼の手には…
右手に脇差。
左手には、三成自身の髪が握られていた。
「たった今、石田冶部少輔三成は死にました。
これからは、天下万民の為、武将としてではなく仏門に入って、奉公いたそう」
それは、武将「石田三成」が死んだ瞬間ではあったが、同時に豊臣の七つ星「石田宗應」が誕生した瞬間でもあったのだった。
全ての話もそうなのですが、この話は特に気持ちを込めて作りました。
細かい時代考証や矛盾、それに作法などについては、勉強不足の点も多いと思いますが、どうぞご容赦ください。
もちろんフィクションになりますので、ご期待にそえなかったり、「ありえない」と思えるような展開かもしれません。
その点もどうぞ暖かく見ていただけると幸いでございます。
※清正の三成に向けた書状に違和感を感じる…と思われる方も多いかと思いますが、主人公がなぜ北政所のところへ、如水と清正を送ったのかを一考いただけるとおのずとお分かりいただけるのではないか…と思っております。
この点も含めて、分かりづらい点は多々おありかと存じますが、何卒ご容赦くださいませ




