もう一つの関ヶ原⑤あざみ園
◇◇
関ヶ原の戦いが始まり、そして終わりを迎えたその日、俺はその様子を知ることもなく、林権兵衛という一人の心優しい雑兵にかくまわれた地の廃寺で一晩過ごすことになった。
その権兵衛は今、亡骸となってその寺の一室に静かに横たわっている。
その亡骸を一晩中、彼のたった一人の妹のあざみが、同じ部屋で守っていた。
その様子は気丈なもので、涙一つ見せずに、じっと傍らで過ごしていたということを、彼らの祖父である林蔵主から後で聞いた。
そしてそんな彼女は、太閤検地がもたらした困窮によって愛する家族を亡くし、「たいこうが嫌い」と公言しており、その太閤の息子であることが知られた俺は、彼女に合わせる顔がなかったのだ。
結局、この地を襲撃してきた福島正則の雑兵と、その大将である正則に対する裁定を下した立ち回りの後は、俺はあざみと一言も言葉を交わすことなく、次の日の朝を迎えた。
この日は、権兵衛の墓を寺の近くにたてて供養した後、俺は福島正則の兵をお供として、大坂の方へ発つことになっている。
雲一つない良い天気だ。
青空のもと、一面に生えた薬草の緑が美しく映える。
俺は寺の外に出て、朝の新鮮な空気を目いっぱい腹の中に収めると、ゆっくりそれを吐き出した。
興奮のあまり寝付けなかった為、瞼が重い。
しかし前日に関ケ原で激戦が繰り広げられたとは思えないほどの、爽やかな空気が、俺の若い体を覚醒させていくのが、本当に心地よかった。
そんな中、ふと背後から声をかけられる。
「おや、殿下におかれましては、随分とお早いことで」
そのしわがれた声は、林蔵主のじいさんのものに違いない。
俺はその声の方を振り返った。
そこには、俺の予想通りに、にこやかな表情を浮かべた蔵主のじいさんが、一人で立っていた。
「おお、蔵主殿か。その変な敬語と『殿下』というのはよしておくれ。今まで通り『藤吉』でよい」
「カカカ。そういうわけにはいきますまい。何せ殿下は殿下であられますゆえ」
蔵主はそう笑い飛ばすが、その姿勢は卑屈ではなく、昨日までの俺への態度と変わらない。俺は少しほっとして、苦笑いを浮かべた。
そして蔵主は話題を変えるように、真面目な顔をして俺に向き直った。
俺も心なしか緊張して、伸びをしていた腕を下ろす。
「これであの世にいる、あの子の母も父も兄も…そして権兵衛も、安心しているに違いありませぬ」
彼の言う「あの子」とは、無論「あざみ」の事を指しているのだろう。
俺は、黙ってうなずいた。
その後突然、蔵主が深々と礼をしたのだ。
そして年長者に礼をされたことに慌てふためいた俺をしりめに、蔵主は、
「これも全て、殿下のおかげにございます。林家を…いや村を代表して、御礼申し上げます」
と、感謝を述べたのだった。
「やめてくれ、蔵主殿。それがしは、権兵衛との約束を守りたい一心だっただけだ。礼を言うなら、権兵衛に言ってやっておくれ」
恥ずかしくなって顔をそむけた俺がそう言うと、蔵主は、
「カカカ。確かに権兵衛にも礼を言わねばならないのう。あれは出来た孫であった」
と、愛おしい孫を思って笑い飛ばした。
そんな蔵主を見ていると、俺の脳裏に出会った時の、あの間の抜けた表情や声の権兵衛が浮かぶ。
そして、最期の最期でかわした約束のことも…
「ああ…本当に素晴らしい男であった…」
俺は感傷にひたるように漏らした。
その後に生じたちょっとした沈黙は、蔵主と俺による、権兵衛へ捧げた黙とうであったように思う。
朝の到来を喜ぶ小鳥たちのさえずる声は、沈みかける心に清涼感を与え、権兵衛が「暗くならないでおくれよお」と声をかけてきているようで、余計に泣けてきた。
しばらくして、俺が涙を拭いていると、蔵主は声の調子を少し落として、少し言いづらそうにたずねてきた。
「ここまで良くしていただいた殿下にお願いするというのは、わがままと言うものですが…」
「ん?なんだ?申してみよ。それがしで出来ることであれば、なんでもしよう」
俺も声の調子をもとに戻して、蔵主の顔を見つめた。
「あざみのことにございます…」
やはり彼女のことか…あからさまに避けていることに、蔵主も気付いていたのだろう。
「うむ…」
俺は少し気まずそうに、濁った返事を返した。
「確かにあの子は今でも、殿下の御父上である太閤秀吉公を恨んでいるに違いありません」
「そうだろうな…愛する家族を失ったのだから…」
「しかし、殿下の事を恨んでいるようには思えませぬ。むしろ…」
「むしろ?」
「いえ…それ以上申し上げるのは、老骨の過ぎたる妄言になってしまいます。ですので、どうか彼女にお声をかけてはくれませぬか?お一言でかまいませぬゆえ…」
「うむ…考えておこう…」
俺は、返事を濁らせることしか出来なかった。
その様子に穏やかな笑顔を浮かべた蔵主は、これ以上押しつけることもなく、話題を変えた。
「ありがたき幸せにございます… では、そろそろ朝げの準備が整う頃合いにございます。ご案内差し上げますので、どうぞ一緒にお戻りなされ」
覚悟は決めたつもりだ、もう迷わないと心に誓ったつもりでもあった。
しかし、どうも少女とは言え、女性との接し方は、そう簡単にはいかない。
俺は爽やかな秋空とは正反対に、曇り空の心持ちのまま、蔵主の背中を追っていくのであった。
◇◇
その後のことは、淡々と進んでいった。
正則の兵たちによって、ささやかながらも立派な権兵衛の墓がたてられる。
墓をたてている間は、男による作業だったからだろうか、あざみの姿は見えなかった。
その後、ここから最も近い寺から僧を呼んで、読経をあげてもらった。
その頃にはあざみは戻ってきており、俺から離れるようにして立っている。
その読経の間、ちらりとあざみの方を見た。
彼女は手を合わせながら、心の中の権兵衛に話しかけているのだろうか…
目を強くつむって、口を真一文字に結んでいる姿は、昨日よりも少し大きく見えた。
しばらく続いた読経が終わると、すぐに出立の準備に取り掛かる。
正則自身は、逃げのびていった各武将を探すことと、周囲の村の見回りの為に、すぐにここを発つようだ。
「では、殿下。どうぞお達者で。この左衛門大夫、お呼びとあればいつでも駆けつけますぞ」
と、敬礼をして俺に別れを告げる。
俺を守るために、夜通し兵たちに警備を命じ、こうして権兵衛の供養まで律儀に手伝ってくれたのだ。
何とかその礼に報いてやりたいと思った俺は、一つ彼に助言をした。
「うむ。左衛門大夫、頼りにしておるぞ。あと、一つだけ忠告をしておく」
「はっ!この左衛門大夫、またしても無礼を働きましたでしょうか?」
正則の顔から血の気が失せていくのが分かり、俺は慌てて続けた。
「そうではない!お主の働きには感謝こそすれ、文句などつけたら、亡き父に怒鳴られるわ。
そうでなくてだな…その…多少の雨漏りなど、天下の左衛門大夫が、気にするでないぞ」
「は…はあ…?はて、そんなことなどありましたでしょうか…?」
明らかに不審な顔をする正則。
何かを勘付かれると厄介な事になりそうなので、俺は声を大きくしてその場をごまかす。
「全く、お主は鈍い!今回の件で、お主は、茂吉という兵を失ったであろう。もしかしたら、今後も狼藉を働いた兵を手討ちにしなくてはならぬかもしれぬ。
それを『雨漏り』と表現したまでだ!
『大望を果たす為なら、多少の兵の抜けおちなど気にするな!』という俺の意図をどうして汲み取れないのか!」
「ははっ!この左衛門大夫、殿下の深きお考えをくみ取れず、誠に申し訳ございませんでした!かくなる上は…」
「もうよい!早く行け!早く行って、一人で多くの苦しむ民を救うのだ!」
「はっ!」
全く、扱いやすいのかそうでないのか分かりづらい男だ…
しかし史実通りなら、「本当の」雨漏りを修繕したことによって、彼は改易(幕府による領土没収のこと)されてしまうのだ。
それを哀れと思って助言したのだが…
素直に「ありがたきお言葉」程度にとどめておいてくれれば、よかったものを。
俺は、自業自得とは言え、いらぬところで汗をかいてしまったことに、いらつきながら自分の出立の準備に寺に戻ろうとした。
…と、 その時だった…
俺の視界の片隅…薬草の畑の方で、あざみが俺を手招きしているではないか。
その顔はうつむき、ばつが悪そうだ。
俺は戸惑いながらも、彼女の誘いに乗って、畑の方へと歩いていった。
まず、なんと声をかけたらよいのだろう…
「たいこうの息子なら看病なんてしなかった!この嘘つき!」と罵倒されたらどうしよう…
そんな事を心配していると、心臓が破裂しそうなほど、その鼓動を早めている。
一歩踏みしめるごとに、飛び出しそうになるほどの緊張が俺の表情を固くしていくのが分かった。
そして、彼女の前に立つ。
俺は顔を見ることはかなわず、彼女の足をみていた。
はだしのその足は少女のそれで細く、小さい。
しばらく気まずい沈黙が二人の間に流れた。
先に口を開いたのは、あざみの方だった。
「あのな…とうきち…いや…でんか…」
何かを言いづらそうにしているあざみ。
俺はその言葉を聞いて、決意を固めた。
直立したと瞬間に、俺は深々と頭を下げたのだ。
「すまなかった!嘘付いてお主の嫌いな太閤の息子であったことを隠しててすまなかった!」
ありったけの声を張り上げて謝罪をする俺。
相変わらず足先しか見えないが、あざみの戸惑っている様子が見なくても分かる。
俺はさらに続けた。
「俺のことはいくら嫌っても構わん!だが、さむらい全員がお主の敵ではない。どうかさむらいの事は許してやってくれないか。
でないとこの後、お主が穏やかに生きていくことが難しいから!頼む、この通りだ!」
そう… 俺は、権兵衛に「妹のことを頼む」とお願いされている以上、今回の件だけではなく、今後彼女が平穏に生きていくための事をしてやらねばならない。
毎年送る米によって、食い扶持には困らないだろう。
しかし、このまま侍や武士の事が嫌いであっては、彼女の身に危険がおよびかねない。
そう考えた俺は、こうして彼女に頭を下げたのである。
なお、もしこの機会がなかったら、蔵主に伝言を頼むつもりでいた。
「でんか…」
「とうきち でよい」
「じゃあ… とうきち… 頭を上げておくれ」
俺は彼女の静かな言葉に従って、顔を上げることにした。
その口調からは怒りは感じられず、懇願するような想いが感じられたからである。
そして顔を見合わせると、彼女の頬は緊張からか、真っ赤に染まっていた。
「とうきち… あざみは、もうおさむらい様の事を嫌ってなどおらぬ。
むしろ、ごんにいのお墓も立ててくれた。 感謝しとる」
「そうか… よかった」
俺はほっと胸をなでおろした。
これで彼女がいらぬいざこざに巻き込まれる可能性も減るはずだ。
俺はこれで思い残すこともなく、この場を後に出来る、そう思い、彼女の元から去ろうとした。
それをあざみが呼びとめた。
「とうきち、待って! これ… 受け取ってくれる?」
あざみが目の前に差し出したのは、花束だった。
どれも紫色の綺麗な花をつけている。
俺はその美しさに心を奪われ、無造作にそれを受取ろうとした。
「危ない!」
と、あざみがそれを制する。
俺は意味も分からずに、その手を止めた。
「この花には、とげがたくさんあるの。 だから気をつけて」
「ああ…ありがとう」
こんなに様々な花が咲いているのに、なぜ彼女はとげのある花を俺に贈ろうと思ったのだろう。しかしこの花は綺麗だ。見ているだけで、俺の心が洗われる気がした。
恐らく彼女が、権兵衛の墓をたてている間、姿をくらましていたのは、この花を摘んでいたからだろう。
ああ…俺はなんで怖がっていたのだろう…
彼女は、俺の正体を知った今でも、俺の事を嫌ってなどいなかったに違いない。
他人の気持ちを勝手に推し量った、浅はかな自分を責める。
俺はそんな自責の念にかられながら、今度は慎重にその花を受け取った。
それを見て、嬉しそうに微笑んでいるあざみ。
彼女はか細い声で、続けた。
「この花は、『薊』っていう名前なの。あざみと一緒の名前」
「そうだったのか…」
花に関する知識のない俺にとって、それは驚きであった。
そんな俺を見ながら、彼女は続けた。
「このとげは、花を守る為についているの。母様が教えてくれたわ」
「そうなのか…刺したら痛そうだものな」
「うん… だからあざみも『とげ』になるって決めたの」
「ふむ…」
「母様が育てて、とうきちが守ってくれた、この畑を守る『とげ』になる」
俺はその言葉に目を見開く。
権兵衛のあの姿を見て、自分が守るべきものを守ろうと、彼女も決意をしたのだろうか。
それとも、この林家に伝わる「遺伝」のようなものなのだろうか…
その強い覚悟と瞳に、俺は驚きと尊敬を感じざるを得ない。
彼女は続けた。
「あざみが守って育てた、この畑をまた見に来てくれる?」
そう言って俺の顔を覗き込む、あざみ。
彼女の赤い頬に大きな黒い瞳、その後ろに広がる緑の絨毯、そして青い空は、まるで一枚の絵画を見ているようで、俺の心をぎゅっとつかんで離さない。
それでも俺は、返事をするまでに時間を空けては彼女に悪いと思って、
「ああ…約束だ」
と、短く返事をした。
その言葉に緊張の面持ちから、こぼれんばかりの笑顔に変わるあざみは、少しだけ声を大きくして言った。
「とうきちは、あざみにいっぱい色んなものをくれた。この畑、ごんにいのお墓、それにお米… ありがとう!」
「そんな事は礼にはおよばない。お前の兄がその命をかけて、俺に与えてくれたものの方が、遥かに大きかったからな。むしろ、礼を言うのは俺の方だ。ありがとう」
互いにぺこりと頭を下げると、上げた顔には、二人とも自然な笑みがこぼれる。
しばらく笑い合う二人。
そんな俺たちを秋のやわらかな日差しと、爽やかな風が、祝福するように包み込み、時間を忘れさせた。
しかし…時とは残酷なものである。
寺の方から、俺を呼ぶ才蔵の声が聞こえた。
出立を告げる時が来たのだ。
あざみは、影をたずさえる口調で言った。
「さよならだね」
その言葉に、今までの高揚が急降下するように、冷めていくと、鼻の奥にしみるような刺激が俺の顔をしかめさせる。
「うん…さよならだ」
「でも… また会えるよね…」
「ああ… 約束したからな」
「達者でね…」
「あざみも…な」
これ以上は、つらすぎて、とてもじゃないが、彼女と向き合うことが出来ない。
俺は急いで振返ると、寺の方に向けて、一歩…また一歩と足を踏み出した。
…と、その時だった。
背後から駆け足の音がしたと思うと、
背中から小さな手が、俺の腰まで回ってきた。
同時に柔らかな感触が背中全体を包み込む。
それは… あざみが、俺の背中に抱きついてきたのだった。
言葉にはならない想いが、背中から痛いほど伝わってくる。
そこに流れ込んでくる感情が、俺の進む足を完全に止めてしまった。
これから一人で生きていかねばならない「不安」…
最愛の家族を亡くした「悲しみ」…
しかしそれら冷たい感情と同時に、暖かな感情も流れ込んでくる。
大切な畑を守ってくれた 「感謝」…
これから母が守った薬草を育んでいくことへの 「希望」…
そして…
どうしても抑えきれない 「愛」…
まるで冷たい空気と暖かな空気が混じりあって、一つの大きな竜巻を生んだかのような、激しい感情の渦が、俺の背中を通じて、俺の心を乱す。
守ってあげたい… ずっとこのまま…
極めて単純かつ、私的な感情。
しかし、俺の理性と、使命感は、そこにとどまることを許さなかった。
「すまぬ…」
その一言で十分だった。
まるで一つのガラス彫刻のような二人の間に、小さな穴を開けたその一言は、少しずつひびを作り、そして最後に二人を分けた。
秋風に揺られた薬草の葉がこすれる儚い音は、その場に残るあざみの気持ちを表し、その秋風に乗って空高く舞う一羽の大きな鳥の鳴き声は、足を踏み出した秀頼の気持ちを表しているようだった。
◇◇
後世――
史実は変わり、一つの薬草畑が、その名を残すことになる。
「あざみ園」。
一人の女性が生涯をかけて守りぬいたこの薬草畑は、その当時と変わらぬ緑の絨毯で、訪れる者を癒している。
その片隅に咲き誇る「薊」の花は、豊臣秀頼公とその女性が、再会を喜び、植えたものと言われる。
そして、その花を摘んだ夫婦は、生涯仲むつまじく暮らせることになる、と言われるゆえんがあるのだが…
それはまた別の話である。
初めて恋愛の要素を含んだ話を書きました。
儚さや切なさ、それと対比するような風景の鮮やかさが伝われば、幸いでございます。
なお、この「あざみ園」はこの後、秀頼の戦いにおいて、大きな役割を担うことにつながります。
さて、次回からは、いよいよ徳川家康と豊臣秀頼の直接対談のくだりになります。
お楽しみにしていただければと存じます。