大坂夏の陣⑬ 重り
◇◇
慶長一七年(一六一二年)五月九日 駿府城――
本丸御殿の一室は、異様な雰囲気に包まれていた。
そこには阿茶の局によって、家康の側室たちや姫たちが集められて待機させられていたのだ。千姫もまた部屋の片隅に、侍女の蘭とともにあった。
普段は男子禁制の一角も、今は部屋の前に屈強な兵たちがずらりと並んでいる。
非常事態に人々は戦々恐々とし、中には恐怖のあまりに大泣きしている女児もいた。
すると千姫は彼女に近寄ると、優しく背中をさすりながら声をかけた。
「大丈夫だよ。きっと秀頼さまが助けにきてくれますから」
「ひでよりさま?」
「ええ、秀頼さまはとってもお強い方なの! きっとみなを助けてくれます!」
「うん……ありがとう、お姉ちゃん」
千姫の力強い言葉に、泣きやんで笑顔を見せる女児。
千姫もまた満足そうに笑顔になると、「どんなもんだい」という表情を浮かべながら、元いた場所へ戻っていった。
しかし……。
彼女の隣で大人しく座っていた蘭は、どうしても口にできなかったのである。
――こんな状況を作ったのは、『その秀頼様の軍勢』なのですよ……。
と――
こうして千姫の奇妙な活躍もあり、人々は大きな混乱もせずにじっと待ち続けていたのだった。
◇◇
同日の夕刻になってようやく駿府城に徳川家康の一行が到着した。
数千いた彼の兵は、もはや数百まで数を減らしてしまっている。
そして重い甲冑を脱ぎ捨てた家康は、泥だらけの衣服で現れたため、一見すると彼であるとは区別がつかないほどに乱れていた。
すでに駿府城の変を聞きつけた隣国の大名たちからは援軍となる兵が派遣されていたが、それでも総計一万にも満たない。城をぐるりと取り囲んだ五万の豊臣軍に比べれば、『寡兵』と断じられても仕方がない状況だ。
そのため、家康は城主であるにも関わらず、入城すらできずに、仮設された陣に入らざるを得なかったのだった。
旅の疲れと不快な状況に、苦虫をつぶしたような顔で、椅子に腰をおろした家康。
そんな彼に対して、同じく椅子を下ろした正信がゆったりとした口調で話しかけた。
「いやはや、人間その気になれば何でもできるというものですなぁ」
とても危機的な状況下の言葉とは思えぬ、気の抜けた正信の言葉に、家康は眉間にしわを寄せた。
「ふんっ! なにを呑気なことを言っておるのだ! お主には目がないのか! 物を見る目が!」
「はて……? それがしにも今、しわくちゃな顔をさらにしわだらけにして、腹を痛めておられる殿の姿がはっきりと見えておりますぞ」
「ふんっ! お主、わしに喧嘩を売っておるのか!?」
「いえ、そのようなつもりはございません。しかし、殿こそ今の状況が分かってらっしゃらないのではありませんか?」
「どういうことじゃ?」
正信の淡々とした口調に対して、家康は苛立ちを携えた早口で問いかける。
正信はあたかも何もなかったかのようなとぼけた口調で続けたのだった。
「豊臣は『城攻め』をしておりません。単に『城を囲っている』だけではありませんか」
「なんだと!?」
「つまり、秀頼公は力ずくで城を落そうなどとは考えていないということです」
正信の言葉を耳にした瞬間、家康は強く頬を張られたかのような鋭い痛みを覚えた。
「ならば秀頼は何をわしに求めておるのだ……?」
当然のように浮かぶ疑問。
すると正信は、これまでとは打って変わって険しい表情で、残酷な事実を告げたのだった。
「無論、『捕虜』でございましょう」
「捕虜……だと……? いったい誰が『捕虜』になるというのか!?」
目を大きく見開いた家康に対して、正信は鋭い眼光を向けたまま無言を貫いた。
だがその無言こそが、家康に一つの答えを導かせたのだった。
「まさか……わしが……『徳川家康』が捕虜ということか……?」
驚愕と衝撃に、ぐわりと目の前が歪み始める。
危うく倒れそうになったところを、正信が慌てて支えた。
「わしは……わしは『捕虜』になってしまうのか?」
家康は正信の腕にしがみついて、さながら幼児が親にねだるような顔で問いかける。
正信はそっと家康の手を離すと、彼の二の腕をしっかりと掴んで言った。
「しっかりなされませ! どんな逆境にあっても泰然とされてきたではありませんか! 今は耐える時でございます! 時がくればきっと……」
「きっと……なんじゃ?」
言葉の先を促す家康に対して、正信は腹にぐっと力を込めると、低い声で再び残酷な事実を告げたのだった。
「時がくればきっと、秀忠様が助けにこられましょう!」
――息子が親である自分を助けにくる……。
その残酷な事実は、二つの『敗北』を意味していた。
一つは『豊臣秀頼との勝負』。
そしてもう一つは『徳川秀忠との勝負』だったのである。
それらの敗北の事実を思い知らされた瞬間に、家康の顔色が完全に色を失った。
今まで積み重ねてきたものが、がらがらと音を立てて崩れ落ちていくような気がしてならなかった。
大きな喪失感は、自然と彼の瞳から涙となって流れ落ちていく。
しかし、ふと浮かんできた疑問に彼は戸惑った。
――わしは『何を』失ったのだ……?
つまり彼は気付いたのだ。
今、彼が失っていくものは、決して徳川家康の人生の価値を貶めるものではないことを。
むしろはがれ落ちていくものを失っていくことで、心が晴れ渡っていくのを感じていたのである。
――わしは……いったい何を積み上げてきたのだ……?
その時だった。今は亡き本多正純の澄ました声が頭に直接響いてきた。
――それは『栄光』でございましょう。
――栄光……。
――大御所様は自分が積み上げてこられた『栄光』を手放すのが嫌だったから、意固地になっておられたのでしょう。
――わしが意固地じゃと……!?
――ああ、私は大御所様がうらやましい。
――なんじゃと? どういう意味だ!?
それっきり正純の言葉は幻のように消えてしまった。
そして彼の言葉の真意を答えたのは、目の前で涙を流す本多正信だった――
「大御所様には、ご自身を超えていかれる息子がおられるではありませんか。孫がおられるではありませんか。彼らに全てを手渡せるだけで幸せではありませんか。それがしにはそれが出来ないのですから……」
家康は大きく目を見開いた。
愛する長男を亡くしても、今まで一言も聞かれなかった正信の悲嘆だった。
そしてこれまでになく強い諫言であった。
「殿はどんな労苦もいとわず、どんな屈辱にもくっせず、ここまでやってこられたではありませんか。その栄光は決して廃れるものでもなければ、人々から忘れられることもないでしょう。だから、もうここらで終いにいたしましょう。背負った重りを次に渡してやるのも親心でございます」
「背負った重りか……」
「はい、『太閤を継ぐ者』という重りでございます」
いつも通りにゆったりとした口調で告げた正信。だが彼の表情からは「これが自分にとって最後の仕事なんだ」という不退転の決意が見られた。
そして家康の心のたがは外れた。
彼は本当に自分が捨てるべきものを誤ってしまったということにようやく気付いたのだ。
いや、『捨てる』という表現は誤りで、『手渡す』とすべきだろう。
「最初から『愛』を捨てる必要などなかったのだ……」
家康の顔に血の気が戻ってくる。
すると若葉のようなみずみずしさすら感じさせるような表情へと変わっていった。
その直後だった。陣幕の外から小姓の声が響いてきた。
「豊臣秀頼公よりお迎えの使者がこられました! 駿河湾にお越しください、と伝言を預かっております!」
「うむ」
家康は短く答えると、軽い身のこなしで席を立った。
そして正信に一言告げた。
「ありがとう。では、いってくる」
力強い足取りで陣幕の外へと出ていく家康の背中を、正信は涙を流しながら見つめ続けていた。
しかしその涙は、『悔し涙』ではない。
『嬉し涙』だった――
慶長一七年(一六一二年)五月九日 夕刻――
大御所、徳川家康は『捕虜』として、『豊国丸』へと入った。
そして将軍徳川秀忠と豊臣秀頼の会見後に、その身柄を幕府側へ引き渡されることとなったのだった――
まだまだ続く『太閤を継ぐ者祭り』
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