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大坂夏の陣⑩ たった一つの選択肢

◇◇


――駿府城が取り囲まれている……!


 まさに天国から地獄に突き落とされたような報せに、家康の思考は完全に停止してしまった。

 目の前の本多正信は、一生懸命彼に向けて何か叫んでいるが、彼の耳には全く届かなかった。

 そして視力すらあやしくなってきた。

 と、次の瞬間だった。


――ドゴォォン!


 という鈍い音がしたかと思うと、電撃が走ったかのような強烈な痛みが、家康の頬を襲ったのである。


「いたっ!!」


 彼は思わず叫んだ。

 すると右の拳を振り抜いた正信の姿が、くっきりと彼の瞳に映ったのである。


「お、お主! わしを殴りおったな!? 大御所のわしを!!」

「そんな小さなことをおっしゃっておられる場合ではございませぬ!! いかがなさるおつもりか!?」


 正信の鉄拳によりようやく目が覚めた家康であったが、思考が正常に戻ったわけではなかった。

 駿府城が取り囲まれているとだけ聞いたが、果たしてどの家の者なのか、それすら確認していないのだ。

 もしやまた亀姫の逆鱗に触れてしまって、奥平家の旗が周囲に掲げられているだけなのではないか……。

 家康はそんな風に楽観視して、自分を落ち着けようとこころみた。


 だが、正信の『言葉の鉄拳』は容赦なかった。


「五七の桐……つまり豊臣軍に駿府城が取り囲まれておるのです!!」


 再びぐらりと目の前が歪む。しかしここで我を忘れたら、再び正信の鉄拳が飛んできかねない。

 彼はぐっと唇を噛み締めて問いかけた。


「じゃが、どのようにして駿府に兵を進めたのじゃ!?」

「船でございます!! 琉球から無数の船が出たかと思うと、全て駿府に目掛けて一直線に進んだとのこと」

「な、なんと……しかしなぜ『今日』なのじゃ!? 『昨日』でも『明日』ではなく『今日』なのじゃ!?」


 家康が疑問に思うのも当然だろう。

 駿府城前に広がる駿河湾にもし大量の船が攻め込んできたのが『昨日』であれば、彼は大軍を引き返して迎撃することができただろう。

 そして『明日』であれば、大坂城を陥落させた後にゆうゆうと進軍できる。


 しかし『今日』なのだ。この大戦がまさに行われている『今日』に囲まれてしまうとは……。

 いや正確に言えば、城を取り囲まれたのは数日前であり、計ったかのように『今日』報せが届けられたのだろう。


「ありえん……まるで『未来』を予知しているとしか……」


 そう考えた瞬間……。

 家康の中の全ての違和感が解かれた。


「まさか……あやつは『未来を知る者』だったいうのか……」


 そう考えれば全て合点がいく。

 関ヶ原の戦いでなぜ黒田如水らが大坂城へ向かったのか。

 石田三成をなぜ助命させたのか。

 なぜ京に学府をおいて、側近たちを集めたのか。

 そして、今彼が置かれている立場……。

 

「そんな馬鹿げたことがありえるのか……」


 そうつぶやいたのも束の間、正信ががっちりと家康の両肩をつかんで唾を飛ばしてきた。

 

「殿!! 今は他のことに気を取られている場合ではございません!! もし駿府城が落ちたら、その先はどうなってしまうか! 今の殿でもお分かりでしょう!!」


 駿府城が落ちたその先……。

 

「江戸か……」


 家康のつぶやきに正信が大きくうなずく。

 もし正信の言葉の通りに五万の大軍が、将軍不在の江戸を襲ったならば大変なことが起こる。 それは未だに頭の半分以上が真っ白になっている家康でも十分に予感できた。

 そして彼はわずかに回復したばかりの理性を、全て一点に傾けたのだ。

 

「駿府へ戻るぞ!」


 ということに――

 

 正信の顔色が引き締まっていく。

 それは家康の顔を映した鏡でもあった。

 

 だが……。

 

「いかにして戻りましょう……?」


 正信は眉をひそめながら家康に問いかけた。

 そこであらためて前方を見ると、未だに石田隊と義直隊が激しく激突しているではないか。

 彼はようやく宗應の思惑に気付くと、家康はぎりっと歯ぎしりした。

 

「おのれ……これを予感して、わざと足止めされたというのか!」


 それは家康の駿府への道を塞ぐためだったのだ。

 もし奈良街道が塞がれていなければ、一旦北に抜けた後に、京から整備された東海道へと出れる。

 しかし今は北への道が塞がれてしまっているのだ。

 こうなると東へ抜けるしかない。

 正信もまたそれを知っており、彼に決断を催促した。

 

「殿! かくなる上は、このまま街道を行き、大和国から伊勢国へ抜けるしかございません」

「しかしそれでは大きく回らねばならぬ! そんな余裕はない!」

「ならば道は一つしかございませぬ!!」


 正信はそこで言葉を切った。

 なぜなら言葉の先を口にするのをはばかったからだ。

 そして家康もまた正信が何を進言したいのか、口に出さずともよく分かっていた。

 なぜなら彼らは一度、その道を行った経験があるのだから……。

 

 それは『伊賀越え』だ――

 

 大坂から東へ真っすぐ行くには険しい山々を抜けて、伊賀を突っ切る。

 そして伊勢国の北部に出た後、船で駿府まで渡る……。

 もはやその道しか選択の余地が残されていなかったのだった。

 

――ゴクリ……。


 今からちょど三〇年前。本能寺の変で織田信長が斃れた際に、敵を逃れて三河に戻るために通った道だ。

 あまりの苦難の連続に、家康は「いっそのこと死んだほうがまし」と何度も頭によぎった記憶が、今でも鮮明に思い出される。

 

 だが、もはや迷っている暇などなかった。

 彼はぐっと口を引き締めると、大きく一つうなずいた。

 

「では、早速支度を始めましょう」


 正信はそう言い残して本陣を後にしたのだった。

 あの時と異なるものと言えば、彼の回りには三〇人ほどしかいなかったお供が、今は数千人の兵たちに囲まれているということだ。

 つまり敵襲によって命の危険をおびやかされる心配は皆無と言えよう。

 だが一方で家康自身の体は三〇年前と比べると、遥かに衰えている。

 果たして今の自分にあの険しい道を乗り切ることができるのか……。

 

「否、乗り切らねばならん! 駿府と江戸を守るために!」


 彼はそう決心を固めた時、正信が再び本陣に入ってきた。

 

「殿! 準備が整いましてございます! 馬を用意できましたぞ! ささっ!」

「うむ」


 家康は短く返事をすると本陣を後にしようとした。

 その際に、ちらりと遠くにそびえ立つ大坂城に目をやった。

 

――わしがここから去れば、大坂城と豊臣は残るか……。


 ようやく冷静になったところで、ふつふつと湧きあがってきたのは『悔しさ』であった。

 しかし彼はひらりと馬にまたがると、引き締まった顔つきで言った。

 

「よしっ! では行くぞ!」


 こうして家康にとって『二度目の伊賀越え』がはじまったのだった――

 

まだまだ続く『太閤を継ぐ者祭り』!

次も1時間後に公開いたします!


最終回にはちょっとした報告と相談がございます!

是非最後までおつきあいをお願いいたします。


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