大坂夏の陣② 対抗心
◇◇
慶長一七年(一六一二年)五月七日 六ツ時(午前六時ころ)――
まだ濃い霧が明けぬ中、大坂から少し離れた藪の中に、真田昌幸と高梨内記の主従が身を潜めていた。
「殿! かような場所で隠れていてよろしいのでしょうか!?」
内記が声をひそめながら昌幸に問いかけると、昌幸は苦々しい顔をして答えた。
「はんっ! わしらは隠れているわけではない! 何がおかしくて二百の兵とともに隠れなきゃならんのだ!?」
内記は昌幸の言葉を聞き、ふと背後を見回した。
そこには確かに、彼らと行動をともにしている二百の兵たちもまた身を潜めていたのである。
「では何のためにかような場所に待機せねばならぬのでしょう。この時期はやぶ蚊も多く……」
――ベチンッ!
と、内記が言い終わらないうちに、昌幸の平手打ちが彼の広い額の上に落ちた。
「いたっ! 何をなさいますか!」
「いやぁ、やぶ蚊がおってのう。じじいの不味い血を吸った蚊が可哀想だと思い、追い払ってやったのじゃ!」
「な、なにを無礼な!」
内記の憤慨など気にもとめず、昌幸はニヤリと口角を上げながら目を輝かせた。
「はんっ! 秀頼公の『大博打』が当たれば、とんでもないことが起こるぞ! わしはこの目で見てみたいのじゃ!」
「な、なにをでございましょう?」
滅多に見られぬ昌幸の興奮に、内記は圧倒されながら問いかけた。
すると身を潜めているとは思えないほどの大声で昌幸は言ったのだった。
「二度目の『伊賀越え』に決まっておろう! かかかっ!」
かつて徳川家康は、本能寺の変が起こった後に、険しい伊賀路を通って命からがら畿内から逃げ伸びた。
それを俗に『伊賀越え』とか『神君伊賀越え』と言う。
豊臣家にとって絶体絶命の危機とも言える『大坂夏の陣』。
その危機的状況の中にあって、秀頼が打った『大博打』がもし当たったなら……。
徳川家康に『二度目の伊賀越え』をさせることになる――
それを想像しただけで、昌幸の興奮は最高潮に達し、まるで心臓が飛び出てしまうのではないかと思えるほどに胸の鼓動が高くなっていた。
その為、やぶ蚊に刺されようが、顔が泥で汚れようが、全く気にする様子もなく、草木に紛れてただ息をひそめ続けていたのだった。
◇◇
同じ頃、徳川家康の本陣前には、作戦の評定が終わって解散していく側近たちの姿があった
その中には伊達政宗や本多正信はもちろんのこと、各軍の大将たち、すなわち松平忠輝、松平忠直、そして本多忠朝もいた。
家康の本陣に入ったことすらなかった忠輝や忠直が、興奮状態にあったのは仕方ないものと言えよう。
そんな中、伊達政宗が忠直の肩を組んだかと思うと、耳元で大笑いした。
「いやはや忠直殿も偉くなられましたなぁ! まさか大御所様の本陣に招かれて、自ら策を授けられたのですから! うわっはははは!」
政宗の言葉に、忠直は嬉しさと緊張に包まれた複雑な表情のまま、顔を真っ赤にさせた。
――自分は父上のように偉くなれたのだろうか。
彼の心に浮かんでいたのは、『越前卿』と、その名を天下に轟かせた名将、結城秀康であった。
父秀康は、彼がまだ一二歳の頃に亡くなった為、実際に父がどのような功績を残してきたのかについては、家族や家臣たちの口から聞かされたものばかりだ。
しかしそれらの話だけでも、彼が父を尊敬するには十分であった。
そして同時に、父は彼にとっての目標だった。
彼が人一倍強い向上心をもちあわせていたのは、その為だったのかもしれない。
忠直は、目を輝かせながら「この戦で大きな戦功を立てて、父に追いつくのだ」と、あらためて気合いを入れた。
なおこの戦が始まる前は、秀頼と強い友誼に結ばれていた彼は大坂城を攻めるのをためらっていた。
しかし、徳川家から送り込まれた側近たちの言葉によって、彼はいつの間にか自分の意見を翻してしまったのだ。
そして政宗は彼の燃えるような瞳を覗き込むと、口角を上げたまま続けた。
「あとは槍働きによって、忠直公の名が天下に轟くのを、天にいる越前卿も望まれていることだろうな!」
「はいっ! 言われなくとも、俺は一番の働きをしてみせる!」
「うむ! 良い返事だ! うわっははは!」
忠直の野心を焚きつける政宗。一方の忠直は、何の疑いもなく彼の言葉に流されるままに興奮の絶頂に達そうとしていた。
……と、その時だった。
政宗の瞳があきらかに不気味な色に変化した。
だが、人の機微を見抜くには忠直は若過ぎた。
政宗は彼に何も気付かれることもなく、耳元でそっとささやいたのだった。
「しかし残念ながら一番槍は忠輝公になるでしょうな」
その言葉に忠直の目が大きく見開かれた。
――忠輝が一番槍だと……!?
一番槍とは戦において最初に敵兵とぶつかった軍のことで、もっとも名誉あるものとされている。
敵である真田隊の真正面に陣を構えた忠直は、当然ながら自分が一番槍の名誉を得られるものだとばかり思っていた。
しかし、政宗は自分よりもわずか三歳年上の忠輝が一番槍となるという。
彼は「どういうことだ!?」と言わんばかりに政宗の顔を睨みつけた。
政宗は涼しい顔をして続けたのだった。
「今回の作戦では、忠輝公や俺たちが敵を崩してから、満を持して中央におられる忠直公たちが進軍を始めるというもの。ならばおのずと一番槍は忠輝公になるというものだ」
政宗は単に今回の作戦の内容を噛み砕いて説明しただけだ。
それは忠直にも十分に分かっていたが、彼の青い嫉妬心は、彼の心に火をつけた。
「まもなく霧が晴れましょう。霧が晴れれば、忠輝公は進軍を開始するでしょう! 忠直公はそれまでもう少しの辛抱じゃ! うわっははは!」
忠直はわなわなと震えだした。
だが、一変した彼の様子など全く気にせずに、政宗は上機嫌のままその場を立ち去っていってしまったのだった。
続々と諸将が離れていく中、忠直だけはその場を動けないでいた。
彼は自身の中で湧きあがる『怒り』と『焦り』の感情を制御できないでいた。
なお、松平忠輝は徳川家康の実子、つまり血縁上は忠直にとっては叔父だ。
将軍の弟にあたる忠輝が何かと優遇されるのは仕方がないにしても、似た歳の相手に対して、忠直がただならぬ対抗心を燃やしていたのは、避けて通れぬ道だったのだ。
――もし忠輝が一番槍となれば、俺よりも大きな戦功を立てることになる……。そうなれば現在六八万石の自分よりも、忠輝の方が所領が大きくなってしまうのではないか……。
そんな懸念が胸の中に黒い渦となって表れると、いつしか『怒り』と『焦り』は『恐怖』へと変わっていった。
そしてその『恐怖』は、彼の行動を一つに絞り込んだのだった。
「富正! 富正はおるか!」
彼は自分の重臣の名を大声で叫んだ。
すると彼のただならぬ雰囲気に目を丸くした本多富正が側までやってきた。
忠直は富正にギロリと鋭い視線を浴びせると、低い声でささやいたのだった。
「一番槍は誰にも譲らぬ。この松平忠直が頂戴する!」
と――
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