大阪夏の陣① 清正の策
◇◇
少しだけ時は戻る。
慶長一七年(一六一二年)四月某日 広島城――
四九万石の大大名であり、戦場では鬼と畏れられていた広島藩藩主の福島正則は、この日も自室にこもり、一人で難しい顔をしていた。
世間では既に幕府が再び大坂城へ攻め込むのではないかという噂であふれかえっているのだ。
そんな中にあって、太閤秀吉の頃から天下に大きな存在感を示し続けてきた正則が、どうして城はおろか自室からも出ようとしないのか。
その理由は実に単純なものだった。
――豊臣ではなく幕府にお味方しなされ。天下泰平の世を乱してはなりません。
という彼の忠臣たちの執拗な諫言に、ついに彼は折れてしまったからである。
ただ彼は幕府側として兵を出さなかった。
「俺にはできぬ……太閤殿下の『夢』を潰すなんて……」
彼は無力な自分を嘆いていた。
そんな折だった。
とある人物が彼をたずねてきたのだ。
それは、加藤清正だった――
「虎之助……」
正則は清正を部屋に通すと、顔を合わせた途端に涙が溢れだした。
懐かしさだけではない、様々な感情が彼の胸のうちを掻きまわしていたのだ。
そんな彼に対して、清正はにこりを笑うと、大きなだみ声で言ったのだった。
「ちと見ないうちに随分と老けたのう、市松よ!」
それは幼少の頃となんら変わらぬ声だ。
『父』である秀吉と『母』である寧々の元で暮らし、遊び、そして喧嘩にあけくれたあの頃と……。
「虎之助……俺は……うわぁぁぁぁぁ!!」
正則は泣き崩れると、そのままうつ伏せになってしまった。
清正は正則の肩に手をかけると、優しく彼を起こした。
そして彼もまた瞳にいっぱいの涙を浮かべて言ったのだった。
「お主の立場はよく分かっているつもりだ。だが、それでも俺は一つ頭を下げねばならぬ」
――バッ!!
清正はそう言い終えた瞬間に頭を下げると、額を床にこすりつけた。
「どうか! どうかこの通りじゃ!! お主の力を貸してくれぇぇぇ!!」
清正が他人に頭を下げるのを正則は見たことがない。
いつでも誇り高く、そして自信に満ち溢れていた清正が今、『一分』を捨てて頭を下げている。
それは彼が太閤の夢を守りたいが一心であるのは、正則には十分に分かっていた。
今度は正則が清正の肩に手をかける番だった。
「虎之助。頭を上げてくれ。俺は忘れてはならぬものを、随分と長い間忘れてしまっていたようだ」
「忘れてはならぬもの……」
清正は顔を上げて正則を見つめた。
その顔は先ほどまでの疲れた五十を越えた初老の男ではなくなっていた。
清正が愛してやまない、猛将、福島正則の顔に戻っていたのだ。
そして正則は力強い言葉で、清正の疑問に答えたのだった――
「それは『忠義』に決まっておろう!」
◇◇
慶長一七年(一六一二年)五月五日――
京を出立した幕府の大軍勢は、立花宗茂の献策のもと、奈良街道を南下して途中で二手に分かれた。
秀忠を中心とした軍勢は河内路を進み、平野川を渡る。
本来の史実なら翌日の六日に、渡河を阻止せん木村重成らが激しい一戦を繰り広げることになるはずだが、俺は彼らの出陣を許さなかった。
言うまでもない。そこで彼らは奮闘むなしく、ことごとく討死してしまうからだ。
そのため無抵抗のまま秀忠の軍勢は前田軍、藤堂軍、井伊軍らに守られて大坂城にほど近い、岡山に布陣した。この辺りの軍勢がおよそ五万。
一方、大和路という紀州街道から大和川を渡って大坂城に迫ってきたのは、徳川家康だ。
家康の率いる軍勢は、あまりの巨大さにさらに二手に分かれている。
一方は、家康の息子である松平忠輝を大将とし、目付け役の伊達政宗と合わせて四万が、西岸沿いを進み、堺方面から展開。
さらに中央からは結城秀康の息子である松平忠直を大将とした三万と、本多忠勝の息子、本多忠朝を大将とし、酒井家次や真田信吉らの軍勢が一万五千の総計四万五千。
家康は河内路と大和路の二つのちょうど中間に位置する、平野川が二手に分かれている中洲のような場所を先頭に、二万の兵を奈良街道に沿うように布陣している。そして、家康の前方を守るように立花宗茂の五千も配置されていた。
残りの四万は、戦場に立つことはない徳川義直と頼宣の二人の幼い兄弟を大将とした軍勢だ。
彼らは家康と秀忠の軍勢の背後を守るようにして展開していた。
なお上杉軍は京の守備を命じられ、今回の戦いには参加していない。
一方、迎え撃つ豊臣軍は、最前線となる茶臼山に『赤備え』の真田信繁が一万。その中に、後藤又兵衛や大野治房といった猪武者たちが含まれていた。
中央の天王寺に石田宗應が一万。その中には津田親子が含まれている。
東の小高い篠山に大谷吉治が三千。彼の軍勢には木村重成、大野治徳を共にさせた。
大坂城の埋められてしまった堀の前に、俺、豊臣秀頼が一万。その中には大崎玄蕃、甲斐姫、桂広繁が含まれている。
そして明石全登率いる『黒備え』の軍勢一千が大坂城の西側に展開し、遊軍として待機。
最後に大坂城内には四千の兵と大野治長を残し、長宗我部盛親、堀内氏久が、淀殿らを守っている。
こうして両軍が完全に配置を完了したのは、翌々日の七日のことだった。
◇◇
慶長一七年(一六一二年)五月七日 早朝――
家康は本陣にて苦い顔をして、とある報せを待っていた。
それは九州勢と中国勢の進軍だ。
九州勢とは黒田長政、鍋島勝茂、細川忠興、そして島津忠恒。中国勢とは福島正則と毛利秀就の二人だ。
家康は彼らに対して戦前から挙兵を強く催促していた。
大坂城の西側に彼らの軍勢が現れれば、豊臣軍はそこへの守備に兵を割かざるを得なくなる。
そうすればさらに南側の守備が手薄になると考えていたのである。
しかし彼らはいずれも「熊本の加藤清正に怪しい動きあり」と称して、地元を動こうとしなかった。
かつて関ヶ原の戦いの際に九州に残っていた加藤清正が、黒田如水と動きを共にして、九州はおろか中国まで軍勢を進めたことが、彼らの脳裏から離れなかったのも仕方なかったと言えるかもしれない。
こうして家康の当初の目論見は早くも外れてしまったのだった。
ところが蓋を開けてみれば、この動きは加藤清正の『策』によるものだったのだ。
二月の幕僚会議で、清正が秀頼から彼が命じられたのは、『九州と中国勢を完封すること』だった。
もし九州、中国の大名らが本気で大坂城を目指して挙兵したなら、二万から三万の大軍となっただろう。
つまり清正一人で、それらの軍勢を無力化するように秀頼は頼み込んだのだった。
しかしいかに清正が剛毅な武将といえども、一人で彼ら全員を相手する訳にはいかない。
そこで清正は、豊臣恩顧の大名の中でも徳川に完全に屈していない福島正則を調略することから始めた。
だが、調略と言っても挙兵を促したわけではなかった。
清正は正則に対して、『挙兵の構え』を促したのである。
もし広島の福島正則が、熊本の加藤清正と呼応するように挙兵したならば、大きな打撃を受けるに違いないと、両者の間に位置する毛利、黒田、細川、鍋島に思わせたのだった。
しかも加藤の背後には島津がいるのだ。
このところ豊臣からの援助を受けて財政を立て直した島津が、ろくに恩義を感じていない幕府に、そうやすやすと味方するとは思えない。それが彼らの見通しだった。
それに黒田長政、細川忠興、そして毛利家の実権を依然として握っていた毛利輝元の三人の胸のうちには、強引な手立てで豊臣家を潰そうとしている家康に対して、少なからず良い感情を抱いていなかったのも確かであった。
こうして清正の『策』は、完璧と言っても過言ではないほどに大成功をおさめた。
それはまるで彼の師匠とも言える黒田如水が乗り移ったかのような、素晴らしい手並みだったのであった――
既に朝日は上っていた。
今日こそは完全に決着をつけると心に固く誓っていた家康は、もはや九州、中国勢を待てなくなってしまった。
「ふんっ! あやつら、覚えておけよ。この戦が終わったら痛い目にあってもらうからのう」
家康は苦々しくつぶやくと、待機していた陣幕の外に出た。
そこは大きな机があり、その上には今回の戦の布陣図が敷かれている。
そして机を取り囲むように、彼の側近たちが集まっていたのだった。
家康は彼らをギロリと見回すと、険しい顔つきのまま低い声で言った。
「では、はじめる。宗茂、作戦を述べよ」
「はっ!」
家康に命じられた立花宗茂は、布陣図を指差しながら話し始めた。
「どれほど我が軍が有利と言えども、茶臼山に布陣した真田隊に正面から当たるは愚策と言えましょう」
「ほう。真田がそんなに怖いか?」
「ええ、率直に申し上げて、彼らの士気の高さ、そして装備からしてまともに当るのは怖いです」
「ふん! 面白くない答えじゃのう……まあ、よい。続けよ」
「はっ! そこで正面にある茶臼山を避けて、左右から包み込むようにして攻め込みましょう」
と、力強い言葉とともに、宗茂は地図を指でなぞった。
具体的には、松平忠輝隊が西岸沿いに陣を移して、そのままほぼ海岸線沿いに北上。
それと同時に岡山の前田、藤堂軍が平野川沿いに進軍をする。
もし中央の真田隊や石田隊が彼らの動きにつられれば、中央の松平忠直隊と本多忠朝隊が突破を図る。
仮に動きにつられなければ、そのまま左右に展開した軍勢が中央に集まっていき、大坂城を南から攻め込むという作戦であった。
宗茂の進言を耳にした家康は静かに目をつむった。
そしてしばらく考え込んだ後、ぼそりとつぶやくように言ったのだった。
「うむ、よかろう」
その言葉に宗茂は思わず目を丸くした。
なぜならこれまで彼の進言はことごとく跳ね返されてきたからである。
今回のことも、家康が堂々と中央を突破して、完膚なきまでに豊臣軍を蹴散らすのを考えていたとばかり思っていた。
しかし家康は何の抵抗もなく、すんなりと彼の意見を取り入れたのだ。
宗茂はあまりの戸惑いに言葉を失ってしまったが、家康は片目を開くと、そんな彼をじろりと見た。
「ふんっ! おおかた、わしがお主の意見など聞く耳持たぬ、と思っておったのであろう」
「い、いえ、かようなことは……」
「よいのだ! どう思われてもかまわん。とにかくこの一戦は負けるわけにはいかぬ。私情にとらわれて勝機を逃したとなれば、後世の笑いものとなろう」
「ぎょ、御意! では、早速準備を始めます!」
宗茂は頭を下げると、そそくさと本陣を後にしようとした。
家康は彼の背後から声をかけたのだった。
「待て、宗茂。二つほどある」
「は、はい! なんでございましょう」
宗茂はかすかな胸騒ぎを覚えたが、そんなことをおくびにも出さずに家康に向き合った。
すると家康は淡々とした口調で、宗茂が驚くべきことを告げたのだった。
「東からの攻めは前田、藤堂ではなく、本多忠朝と酒井家次に任せよ」
「えっ……!? しかしそれでは中央の守備が甘くなるかと……」
「守備だと? 攻めておるのはわしらの方じゃ。それに前田、藤堂は将軍と共にある軍勢ではないか。むしろ奴らを押し出せば、将軍の守備が甘くなろう」
家康の言い分は一見するともっとものように聞こえるが、宗茂には『良策』とは思えなかった。
なぜなら彼の脳裏にも、先の大坂冬の陣で見せつけられた石田宗應の突撃が鮮明に映っていたからである。
もし守備が薄くなった隙をついて、再び乾坤一擲の突撃を繰り出してきたら……。
彼はそれを考慮して、中央に置いた軍勢は『家康の守備隊』として置いていたのだ。
つまり松平忠直を『第一備』、本多忠朝を『第二備』、さらに宗茂自身、つまり立花軍を『第三備』とした重厚な守備陣を敷いたつもりだったのである。
その上で、松平忠輝軍を左翼に、前田、藤堂軍を右翼とした鶴翼の陣を完成させようとこころみるつもりだった。
しかし家康は『第二備』を右翼に展開せよと命じた。
恐らくこれは秀忠の指揮下にある前田、藤堂隊を戦から遠ざけたいという気持ちの表れだろう。
――まだ大御所様と上様の意見は合わぬのか……。
宗茂はそう直感した。
つまり家康と秀忠の間に、依然として豊臣家に対する仕置の考え方に隔たりがあるということだ。
――大御所様はご自身の兵、つまり大和路からの兵だけで勝つおつもりか。
もしその考えが正しければ河内路の兵と、奈良街道につめている兵の合わせて九万五千が無能化することを意味する。
――それでは兵力が半減したも同然です。
宗茂は声には出さなかったが、心の中でそう嘆いた。
しかしこうはっきりと命じられては「否」とは言えない。
彼は渋々頭を下げた。
そしてもう一つの命令に耳を傾けたのだった。
「わしもここから動くとしよう。陣は天王寺の正面。よいな」
「お待ちください! それでは石田隊の正面に回ることになります! あまりにも危険でございます!!」
宗茂は必死に声を張り上げた。
ところが家康は口を結んだまま、首を横に振ると、それ以上は何も答えなかったのである。
――まさか大御所様は、石田殿へ『余裕』を見せつけるために……。
言うなれば、石田宗應への挑発であろう。
その挑発に石田隊が乗ってくれれば、大軍で囲い込んで殲滅できる、そう考えているに違いない。
まさにその戦術は、かつて家康が大敗した、三方ヶ原の戦いで武田信玄にとられたものそのものだ。
――大御所様は石田殿に屈辱を味あわせたい一心なのだ。
しかし簡単に宗應が挑発に乗って軍勢を進めてくるものだろうか……。
宗茂は家康の戦術に対して、期待よりも不安の方が大きかった。
それでもこれ以上の諫言は、かえって場の空気を乱すだけだとさとった宗茂は、小さく頭を下げると、速やかに本陣をあとにしていったのだった。
「この戦……やはり一筋縄ではいかないようだ」
どんなに兵力差があろうとも、決して油断をしないところが、宗茂が『西国無双』と呼ばれる一因なのかもしれない。
彼はぐっと腹に力を入れて気合いを注入すると、各軍に指令を飛ばすために伝令を呼んだのだった――
実際の『大坂夏の陣』における『天王寺・岡山の戦い』布陣図を参考にいたしました。
【予告】
『太閤を継ぐ者』がいよいよ最終回を迎えます。
そこで1月26日と1月27日は「更新祭り」を実施いたします。
1日に複数話アップいたしますので、是非お楽しみに!
書籍版『太閤を継ぐ者』(宝島社)が1月27日に発売となります!
(ほぼ)全国の書店に並ぶ予定ですので、みなさまよろしくお願いいたします!




